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632さんからの問いかけ−その1

  632さんからの問いかけ−その1 450 2006/07/28 02:17:27 
  632さんへ。 450 2006/07/28 02:33:02  (修正1回)
  @疑情を晴らそうとする必要のない本願の真... 450 2006/07/28 02:35:58 
  │└re:@ 450 2006/07/28 03:02:39 
  │ └レスありがとうございます。 632です。 2006/07/29 23:29:48 
  │  ├632さんへ。 450 2006/07/30 04:11:02 
  │  ├@「事実」とは? 450 2006/07/30 04:12:00 
  │  └A聴聞とは、阿弥陀仏の説教を聴くこと? 450 2006/07/30 04:12:45  (修正1回)
  │   └説明が足りないような・・・ 450 2006/07/30 05:06:39 
  A疑情をどう晴らすかではなく、晴らす必要... 450 2006/07/28 02:37:43 
  │└re:A 450 2006/07/28 03:14:05 
  B無我に聞くとは、どういうことか。 450 2006/07/28 02:39:45 
   └re:B 450 2006/07/28 03:30:50  (修正1回)

632さんからの問いかけ−その1 [返事を書く]
632です。以下の問いかけはボリュームもあるので、こちらの方で
再問いかけとさせて頂きます。

--------------------------------------------------------------------

446さんと450さんとのやりとりを大筋ながらではありますが、読ませて頂き
ました。
以前、一の会で話を聴いた経緯があるので、聴きたい部分について問いかけ
させて頂きたいと思います。

450さんにお聴きします。

>>598にて、以下の部分が具体的説明になっていないように感じるので、
より具体性を以て説明願いたいです。

> 以前の書き込み(>>569)で、それは難しくないと仰いましたが、
> 疑情を晴らすためにはどうしたらよいのでしょうか?

☆疑情を晴らそうとする必要のない本願の真意を聞かせて頂ければよろしいので
す。

<632>wrote
阿弥陀仏の本願を聞と聞く、ことを言われていると思いますが、
聞と聞くまでに、我々凡夫がすることは何があるのですか、という
所が、聴きたいポイントです。無条件で救って下さる、という事で
あるならば、阿弥陀仏任せで、救われる人もいれば、救われない人も
いる、つまり我々凡夫の努力に意味はない、ジタバタしても仕方がない、
ということなのでしょうか。


> 「晴らす」という書き方も自力的で不正確ですか?
> 結局、信心決定するにはどうすればいいのでしょうか?

☆疑情をどう晴らすかではなく、晴らす必要のない救いを無我に聞かせて頂くしか
ないのです。

<632>wrote
阿弥陀仏の御心の矢印が自分に向かなかったならば、それは無我に聞かせて
頂くことも叶わないことである、ということでしょうか。

では、無我に聞くとは、どういうことか。
☆それは自己の計らいなく、そのまま聞き取ることです。

<632>wrote
そのまま聞き取る、という段階の前のプロセスについてが不透明なので、
プロセスについて説明下さい。無条件であれば、プロセスに意味がある
ようには思えませんが。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 02:17:27 [ノートメニュー]
Re: 632さんからの問いかけ−その1 [返事を書く]
632さんへ。

質問内容を3つに分けてお答えします。
よろしくお願いします。
** この記事は1回修正されてます 450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 02:33:02 [ノートメニュー]
Re: 632さんからの問いかけ−その1 [返事を書く]
@疑情を晴らそうとする必要のない本願の真意を聞かせて頂ければよろしいのです。

阿弥陀仏の本願を聞と聞く、ことを言われていると思いますが、
聞と聞くまでに、我々凡夫がすることは何があるのですか、という
所が、聴きたいポイントです。無条件で救って下さる、という事で
あるならば、阿弥陀仏任せで、救われる人もいれば、救われない人も
いる、つまり我々凡夫の努力に意味はない、ジタバタしても仕方がない、
ということなのでしょうか。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 02:35:58 [ノートメニュー]
Re: @疑情を晴らそうとする必要のない本願の真... [返事を書く]
re:@

> 阿弥陀仏の本願を聞と聞く、ことを言われていると思いますが、
> 聞と聞くまでに、我々凡夫がすることは何があるのですか、という
> 所が、聴きたいポイントです。無条件で救って下さる、という事で
> あるならば、阿弥陀仏任せで、救われる人もいれば、救われない人も
> いる、つまり我々凡夫の努力に意味はない、ジタバタしても仕方がない、
> ということなのでしょうか。

凡夫が努力する必要のない救いに、今ここで出遇っている事実を聞けばよい。
ということです。

信前は、仏様から「南無阿弥陀仏」と呼びかけられていることを
「何ともないことだ」と思っているわけですが、「それは大変
ありがたいことなんだよ」と聞かせて頂く。
これが聴聞ということです。

その話を聞いて、すぐに信が開ける方もいらっしゃれば
重ねて聴くうちに信が開ける方もいらっしゃる。
それは、それぞれのご縁によるのでしょう。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 03:02:39 [ノートメニュー]
Re: re:@ [返事を書く]
レスありがとうございます。

>凡夫が努力する必要のない救いに、今ここで出遇っている事実を聞けばよい。ということです。

この「事実」とは、一体何なのでしょうか?
阿弥陀仏に出遇っている事実、ということでしょうか。
仏教を聴く縁を頂き、どなたかの説教を聴く、ということでしょうか。
解脱の耳を持たない我々凡夫に語りかけている阿弥陀仏の声を聴く、
ということでしょうか。

>「それは大変ありがたいことなんだよ」と聞かせて頂く。
これが聴聞ということです。

こうなると、聴聞とは、凡夫や正定聚の説教を聴くことではなく、
あくまで救い取っていただく阿弥陀仏の説教を聴く、ということに
なろうかと思いますが、いかがでしょうか。
632です。 <ughzslyygv> 2006/07/29 23:29:48 [ノートメニュー]
Re: レスありがとうございます。 [返事を書く]
632さんへ。
お返事ありがとうございます。
お問い合わせの件、2つに分けてお答えします。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/30 04:11:02 [ノートメニュー]
Re: レスありがとうございます。 [返事を書く]
@「事実」とは?
> >凡夫が努力する必要のない救いに、今ここで出遇っている事実を聞けばよい。ということです。
>
> この「事実」とは、一体何なのでしょうか?
「南無阿弥陀仏」に出遇っていることです。

> 阿弥陀仏に出遇っている事実、ということでしょうか。
そうとも言えます。

> 仏教を聴く縁を頂き、どなたかの説教を聴く、ということでしょうか。
仏教を聴く縁を頂き、どなたかの説教を通して、「南無阿弥陀仏」を聞くということです。

> 解脱の耳を持たない我々凡夫に語りかけている阿弥陀仏の声を聴く、
> ということでしょうか。
阿弥陀仏の声ではなく、阿弥陀仏の御言葉と表現した方が分かりやすいと思います。
その御言葉とは「南無阿弥陀仏」です。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/30 04:12:00 [ノートメニュー]
Re: レスありがとうございます。 [返事を書く]
A聴聞とは、阿弥陀仏の説教を聴くこと?
> >「それは大変ありがたいことなんだよ」と聞かせて頂く。
> >これが聴聞ということです。
>
> こうなると、聴聞とは、凡夫や正定聚の説教を聴くことではなく、
> あくまで救い取っていただく阿弥陀仏の説教を聴く、ということに
> なろうかと思いますが、いかがでしょうか。
そういうことですね。
ただ、私が言っているのは、一の会で言う神秘体験ではありませ
ん。

『大無量寿経』に沿って説明するなら
「聴聞」とは、諸仏が阿弥陀仏を讃嘆される言葉(御名号)を聞
くことです。

経文の該当箇所は以下の部分になります。
「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議
なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信
心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの
国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。」
(『大無量寿経 下巻』)

ご存知の通り、お釈迦様は、諸仏の中のお一人です。
ですから、お釈迦様が御在世の間は、お釈迦様が称えられる御名
号を聞くことが聴聞となります。
しかし、お釈迦様は、既に亡くなっていらっしゃいます。

では、私たちの場合はどうなるのか?
それは、口伝や文書によって私に届けられた御名号を聞くという
方法を取ることになります。

このように南無阿弥陀仏を聞くご縁は、それぞれの業によって違
いがあります。
ですから、凡夫や正定聚の説教を聴く形を取る場合もあるでしょ
う。
しかし、それは伝わり方であって、重要なのは御名号を聞くこと
にあります。
そして、御名号を聞いた人は「阿弥陀仏の直の喚び声」が、私に
届けられたことを喜ぶわけです。

これを蓮如上人は、『御一代記聞書』で以下のように仰っていま
す。
「蓮如上人、法敬に対せられ、仰せられ候う。「今、此の弥陀を
たのめということを、御教え候う人をしりたるか」と、仰せられ
候う。(中略)蓮如上人、仰せられ候う。「此の事をおしうる人
は、阿弥陀如来にて候う。阿弥陀如来の、我をたのめとの御おし
えにて候う」由、仰せられ候う。」(77章)

ということで・・・
お分かり頂けましたでしょうか?
** この記事は1回修正されてます 450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/30 04:12:45 [ノートメニュー]
Re: A聴聞とは、阿弥陀仏の説教を聴くこと? [返事を書く]
説明が足りないような・・・
ん〜、どの辺をご説明したらいいのか分かりませんので
不明点は対話の中で順次お話させて下さい。
よろしくお願いします。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/30 05:06:39 [ノートメニュー]
Re: 632さんからの問いかけ−その1 [返事を書く]
A疑情をどう晴らすかではなく、晴らす必要のない救いを無我に聞かせて頂くしかないのです。

阿弥陀仏の御心の矢印が自分に向かなかったならば、それは無我に聞かせて
頂くことも叶わないことである、ということでしょうか。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 02:37:43 [ノートメニュー]
Re: A疑情をどう晴らすかではなく、晴らす必要... [返事を書く]
re:A
> 阿弥陀仏の御心の矢印が自分に向かなかったならば、それは無我に聞かせて
> 頂くことも叶わないことである、ということでしょうか。

私は、ご質問に対する答えは分かりません。
なぜなら、阿弥陀仏は、一切衆生を救うと仰っている方ですから
阿弥陀仏の御心が自分に向かっていないことはないからです。

仏の慈悲は、私をたった一人の愛しい子供のようにご覧になるものです。
その慈悲心の発動によって、今私たちはご縁を結ばせて頂いています。
私は、仏様に背を向けて生活をしてますが、仏様は私の正面に向かい
続けていらっしゃる方です。
お仏壇のご本尊は、それをお姿で示していらっしゃるわけです。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 03:14:05 [ノートメニュー]
Re: 632さんからの問いかけ−その1 [返事を書く]
B無我に聞くとは、どういうことか。
それは自己の計らいなく、そのまま聞き取ることです。

そのまま聞き取る、という段階の前のプロセスについてが不透明なので、
プロセスについて説明下さい。無条件であれば、プロセスに意味がある
ようには思えませんが。
450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 02:39:45 [ノートメニュー]
Re: B無我に聞くとは、どういうことか。 [返事を書く]
re:B
> そのまま聞き取る、という段階の前のプロセスについてが不透明なので、
> プロセスについて説明下さい。無条件であれば、プロセスに意味がある
> ようには思えませんが。

プロセスというのは、どういうことを仰っているのか・・・。
無我に聞く人になるまでに何をしたらいいのかということでしょうか?
もし、そういうことなら、それぞれの業によるのではないでしょうか。

阿弥陀仏の本願は、48の願いで構成されいるのはご存知でしょう。
その内の、18願が無条件の救いを仰っているものです。

ところが、その無条件の救いを信じられない方の為に、19願と20願が
設けられているわけです。

念のため説明しておきますが
19願とは、諸善を行なう功徳によって救われようとする人を対象とされたもの。
20願とは、念仏を称える功徳によって救われようとする人を対象とされたものです。

親鸞聖人は、ご自身の救いにおいては19、20願は、18願へ導く為の方便として味わわれていらっしゃいます。
それぞれ業が違いますから、19願からの方もいらっしゃれば、20願からの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私は、仏様ではないので想像でしか言えません。ごめんなさい。
** この記事は1回修正されてます 450 <jgbbjsyqkq> 2006/07/28 03:30:50 [ノートメニュー]

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