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ゆーかいはん 作者:マロニエ

第9回   動揺(3)
 翌日、午前七時前に桂木と唯は宮園邸に行った。二人はここへ来る前に少し仮眠を取ったが、宮園夫妻はどうやら一睡もしていないようで顔も少しやつれていた。それに、二人の間も少し険悪になっているように見えた。
「おはようございます」
 桂木が二人に挨拶したが返事を返されることはなかった。恐らく、それは昨日の失敗がその要因となっているからだろう。
「何か……雰囲気悪いですね」
 宮園夫妻に聞かれないように唯が桂木の耳にだけ聞こえるように囁いた。
「まあ、昨日の一件は警察への信頼を一気に失墜させるには充分すぎるものだったからな。これで人質に死なれたらそれこそ見せる顔が無くなる」
「そ、そうですね」
 桂木が部屋に入ると、既に他の刑事達は誘拐犯からの電話を今度こそ逆探知するために電話の前で待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「残るはあと三日だ。何としても犯人を逮捕するぞ」
「はい!」
 他の刑事達に一言かけると、桂木も電話の前に座った。表情は既に真剣そのものになっていて、いつ犯人からの電話が来てもいいようにスタンバイした。
「ところで」
 桂木は近くにいた刑事に声をかけた。
「何でしょうか?」
「あの夫婦、何かあったのか?」
「ええ……昨日は大喧嘩をしましたからね。元々、夫婦仲もあんまり良くないらしく離婚も考えていたそうです」
「夫婦仲か……。そんな噂など聞かなかったが……?」
「どうやら周りの家庭などには知られないようにしているらしいです。私達も昨日の喧嘩を見て驚きました」
「周りの家庭には絶対に誘拐のことを知られるな。昨日の喧嘩のことを聞かれたら適当にごまかすようにあの夫婦に伝えておけ」
「わかりました」
 トゥルルルル……
 電話の音と共に現場の緊迫度は一気に高まった。電話の音を聞きつけた夫妻も慌てて電話の傍へと駆け寄ってきた。
 桂木は周りの状況を見てゆっくりと受話器を取った。
「もしもし?」
「おはようございます。ちゃんと電話に出てくれたようですね」
 電話の向こうの誘拐犯の声は相変わらず余裕に満ちていた。この声を聞くたびに、桂木はまるで全てを見透かされているような気持ちになっていた。
「さて、それじゃあ約束を確認していただきましょうか」
 すると、一瞬の間が空いて別の声が受話器から聞こえてきた。
「もしもし?」
 桂木はすぐに宮園夫妻に受話器を渡そうとしたが、夫妻はまだ喧嘩を続けているらしく互いに受話器を奪い合おうとしたので拡声モードにして全員に聞こえるようにした。
「ママ、パパ?」
 聞こえてくる絵美の声は何だか怯えているように思えた。犯人に何か脅されているのかと思ったが、その疑問は次に続けられた言葉で違うことが証明された。
「また喧嘩してるの?」
「えっ?」
「喧嘩するの嫌……」
 絵美が怯えたような声を出していたのは両親が喧嘩していたことが理由だった。その言葉が終わると再び犯人の声に変わった。
「やれやれ。喧嘩をしていてはゲームには勝てませんよ」
「喧嘩の原因もわからないなどとは言わないだろうな?」
「ええ。勿論、喧嘩の原因ぐらい察しはついていますよ」
 桂木は犯人が電話の向こうで薄っすらと笑みを浮かべたような気がした。声色に若干の変化が現れたのでそう思ったのだ。
「でも、今回の一件がなくてもよく喧嘩しているそうじゃないですか?」
「何?」
「この子から色々と聞きましたよ。いつも夫婦で喧嘩をしているそうじゃないですか。両親が喧嘩をするのが悲しいと言っていましたよ」
「……」
「ふふ。まあ、これは関係のないことでしたね。それより、私の名前はわかりましたか?」
「……まだだ」
「そうですか。では、また午後七時にお電話いたします。いい休日をとご両親にお伝えください」
 犯人からの電話はそこで切れた。室内に静寂が流れ、それを打ち破ったのは宮園はるかの泣き声だった。
「お、奥さん。落ち着いてください!」
 周りの刑事は泣き騒ぐはるかを必死でなだめていたが、夫である直哉はそれをしようとはせず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
「か、桂木さん」
 唯もすっかり動揺して桂木に助けを求めたが、桂木は何も語らずにただじっと電話を見つめていた。
「茜沢、行くぞ」
「えっ?」
 突然、桂木は立ち上がって唯に一声をかけると部屋を出て、車に乗り込んだ。桂木はそのまま車を発進させて警視庁に向かった。
「これから、どうするんです?」
「一度戻って捜査の建て直しだ。とりあえず、現場周辺の聞き込みに要点を置いて怪しい人物を片っ端から調べ上げる」
「ですが、あんまり無茶をすると事件のことを知られてしまうのでは?」
「既に昨日の聞き込みの時点で変質者の噂は出回っている。どうせなら、その噂に色を加えてしまえば誘拐が知られる心配はない」
「はあ……」
「とにかく、何としてもあの犯人を逮捕する。それ以外に考えるな」
「わ、わかりました」
 今までとは全く違う桂木の雰囲気に、唯もただ承諾の返事を返すしかなかった。今の桂木の雰囲気は常に緊張感が張り詰めていて、隣にいるだけでもその雰囲気に飲まれてしまうほどだった。
 それから車内では一言も会話は交わされなかった。唯は何か話しかけようとしたが、桂木の表情を見ると何もいえなくなってしまい、それがそのまま沈黙へと繋がった。
 警視庁に戻ると二人はすぐに捜査一課に戻り、桂木は島津に捜査の範囲を宮園邸周辺に絞るように提言した。
「それは確かなのか?」
「恐らく。犯人は我々の身近なところにいると思われます。ですので、捜査範囲をこの際広範囲から狭めて集中的にやっていくほうが効果的だと思います」
「それで犯人は捕まるのか?」
「わかりません。ですが、残り三日という期限が迫っていることは現実です。その限られた期間で犯人を見つけられなければ人質は殺されてしまいます。限られた期間で最大限の効果を上げるためには可能性があるところを徹底的に調べ上げるしかありません」
「……わかった」
 島津は席から立ち上がって大声でここにいる刑事全員に伝わるように告げた。
「いいか! 捜査範囲を宮園邸から小学校周辺までに狭める。その周辺で聞き込みを行い、怪しい人物を片っ端から調べ上げろ! 但し、絶対に誘拐の事実を周囲に知られるな!」
 刑事達は全員が威勢良く返事をして、そのまま捜査に出かけていった。
「では、私達も行きましょうか」
「待て。その前にやることがある」
「えっ?」
「あれを全部目に通すぞ」
 桂木が指差したのは昨日回収したあのアンケートだった。
「昨日は色々あって目を通していなかったが、何らかのヒントがあるかもしれない。全部目を通してそれから行くぞ」
「わ、わかりました」
 桂木と唯はすぐにその作業に取り掛かった。クラス別に分けられているアンケートを一つ一つ目を皿にして手がかりを捜した。
「どうだ?」
「駄目ですね。色々と書いてはありますが共通の意見がなかなか……それに事件に容疑者と思われる女に該当するような答えは何処にも載っていません」
「それは何年生のだ?」
「私が今見ているのは、被害者と同じ三年生ですが?」
「高学年のほうから見ていけ。高学年のほうが色々と知っていることは多い」
「わかりました」
 唯は今見ているアンケートをひとまず脇に置いておいて、六年生のアンケートを手にとって目を通し始めた。六年生のアンケートは低学年のアンケートとは違って、色々と細かいことが記してあった。
 ただ、それがちゃんとしたことかどうかと聞かれればそれは定かではなかった。真面目に書いている生徒は真面目に書いているのだが、白紙のまま提出されているのもかなりあれば全く無関係なことを書いてあるのも少なくはなかった。
「あの……これ、どうでしょうか?」
「ん?」
 唯は一枚のアンケートを桂木に渡した。それにはこう書かれていた。
『時々、妙な女の人が道路脇のフェンスからじっと学校内を見つめている。それも時にはカメラまで持ってきていることもあった』
「ほう……」
「これなら一応は今回の事件の容疑者像に該当すると思いますが……」
「……全部のアンケートからこれと一致するような回答があるものを全て探し出すぞ」
「はい」
 二人はすぐに同じことの書かれているアンケートを探すために、不審者の項目だけを見てそれを分類していった。アンケートには一番の重要点である不審者の他にも、カモフラージュとして授業のことや先生のことなど色々と書かせていた。 
「あった!」
「こっちもありました!」
 二人は次々とアンケートの中からその女のことが書かれているものを見つけ出して、それをどんどん積み重ねていった。
「各学年を通じて知られているようだな。それに、一時は警察沙汰にもなったらしい」
「警察沙汰ってことはそのときの資料があるってことですよね?」
「そうだ。だから、今からその事件を扱った所轄へ行くぞ」
 桂木と唯はアンケートを片手に持って部屋を出た。そのまま車に乗り込むと、あの一帯を管轄としている所轄の警察署に向かって車を走らせた。
「でも、かつて警察沙汰になったのに同じ人が来ていることに教師が気づかなかったのでしょうか?」
「気づかなかったのかもしれなかったし、気づいていても警察に通報されるようなことを何一つしていなければ通報する必要がない」
「だけど、アンケートの中に教師といい争いをしていたとも書いてありましたから、それなりに警戒をしていたのでは?」
「色々と推理を並べたところで想像の域を脱することはできない。俺達はただ事実を知ったうえで動くしかできないんだよ」
「そ、そうですね」
 唯が答えると桂木は大きくため息をついた。まるで、何かに呆れているような感じだったので唯は思わず尋ねてしまった。
「どうかしたんですか?」
「お前さ、もう少し堂々とすることはできないのか?」
「えっ?」
「俺がちょっと何かに突っ込むたびにそんな風に動揺しているが、それでは駄目だ」
「そう……でしょうか?」
「他の仕事ならいざ知らず、刑事をやるのならその性格は直せ。常に堂々としていないとあっという間にボロボロに壊れちまうからな」
「壊れる……何がですか?」
「人間だよ。こちとら人殺しを筆頭にした犯罪者を相手にしてもう二十年以上になる。その二十年の間に何人もの刑事がこの仕事の重圧に耐えかねてやめていった。特にキャリア組と呼ばれている連中がな」
「はあ……」
「キャリア組の中でも出世欲が強く、自身の出世のために頑張れる奴は案外強くて残れるものだが、正義感だけでこの仕事に飛び込んできた奴は現実に耐えかねて辞めていってしまった。お前もそういう類じゃないのか?」
「そ、それは……」
 唯は桂木の言っていることが自分にも当てはまることなので何も言い返すことができなかった。
「本気でこの仕事を長く続けたかったらもっと自分を強く持て。何事にも揺るがない精神力、それがこの仕事で一番必要とされるものだ」
「……肝に銘じておきます」
「よろしい」
 車はそのまま所轄の警察署に向かって走り続けた。車が走り続けている間、唯は桂木の言った言葉の意味を考えていた。
 唯自身、警察に入った動機は父親が警察官だったと言うことだった。ただ、父親は普通の地方公務員だったので交番勤務の巡査だったが、唯はそれではなくて警察の上層部を目指すためにキャリア組に入った。国家公務員一種を取り、大学も一流の国立を出た。
 唯がキャリアにこだわった理由は特にない。大学も自分で行きたいところを選んで入学して、国家公務員一種も地方公務員よりは待遇がいいと知っていたから勉強してその資格を取得したに過ぎない。
 だから、唯が警察社会で望むものなど特になかった。ただ、それは出世とかそういうものの話で、唯自身は父親のように警察官として正義を貫ければいい。ただ漠然とそれだけをもって警察に入ってきた。
 そして、自分が貫く正義と言うものを知るために警察に入ってきた。警察官という仕事も全てが自分の正しいと思うとおりにいくわけではない。自分が正しいと思っても、それが違うと周りに言われ、自分の思った道とは違う方向に行ってしまうこともしばしばある。唯の父は、唯が警察に入る前に色々な話をしていた。自分の経験や警察組織のこと、その中で自分がどんな風に今日まで警察官として過ごしてきたかを唯に語っていた。
 唯の中で父の語ってくれた経験談は、自分の中に強く息づくものになっていた。その経験を自分も知ってみたい。それが唯を警察官たらしめているものになっていた。
「着いたぞ」
 考え事をしている間に車は所轄の警察署に到着していた。唯は慌てて桂木の後を追いかけて車を出た。
 警察署の中に入るとすぐに事情を説明して、資料室へ行きその一件の資料を出してもらえることになった。
「えっと……これですね」
「失礼」
 桂木はその資料を受け取ると机の上に広げた。その資料に書かれている容疑は傷害だった。
「この傷害と言うのは?」
「学校の教師と口論になってついカッとなって殴ってしまったんですよ。暴れているところを無理やり取り押さえて現行犯逮捕ということになりました」
「じゃあ、今は拘置所の中ですか……」
「いえ、それが被害者の教師が被害届けを取り下げたので釈放と言うことになっています。その代わりに警備を強化してくれとの依頼は受けましたが」
「具体的にはどうしたんですか?」
「あの地域の巡回を増やしました。まあ、この女も懲りたわけではなくまだあの学校に通い続けていたようです。巡回をしていた警官も何度か注意したと言っておりました」
「なら、今もあの学校に姿を現しているということですね?」
「ええ。ただ、さすがにもう警察沙汰にされるのは嫌のようで、警官に注意されたり教師が寄ってきたりするとすぐに逃げるように去っていくそうですが」
「そうですか……」
 桂木が資料に目を通している間、唯が代わりにその担当警官に質問をしていた。
「ところで、どうしてこの女は小学校によく足を運ぶんですか?」
「その……何と言うんでしょうか……」
 その警官は何だか言い難そうにしていたが、唯がそこをしっかりと突っ込んだ。
「はっきりとお願いします」
「何でも若い連中に言わせると、ショタコンという奴らしいです」
「ショタコン?」
 今まで資料にしか目を向けていなかった桂木がその単語を聞いて思わず目を資料から離して会話に参加した。
「ショタコンとは何だ?」
「そうですね……ロリータコンプレックスが幼女などを対象にしたものなら、ショタコンはその対照で幼い男の子を性愛の対象にしたものです」
「ええ。事情聴取のときもそのようなことを仄めかしていました。それで、若い連中がその女性のことをショタコンと呼んでいるんです」
 その警官は自分の理解の範疇を超えたことだからか、何とも不思議そうな顔をしていた。それは桂木も同じでそういうタイプの人間に関わることはこれが初めてだった。
「それでカメラを持って学校に行っていたわけか」
「供述でもそう言っていました」
「ところで、その女の写真か何かありますか?」
「ちょっと待っていてください」
 その警官はしばらく資料室から席をはずした。桂木と唯はその間ずっとそのときの調書を読んでいた。調書に書かれている供述では、この傷害の容疑者である柊未冬という女がショタコンであったということを裏付けるような供述を所々で見つけることができた。
「お待たせしました」
 警官が柊未冬の写真を持って戻ってきた。柊未冬は年齢三十五、痩せ型でその髪に白髪が多く目立っていて、表情が暗めで右目の目元に泣き黒子があった。写真で見た印象ではあまり社交的ではない人物のように二人には思えた。
「この写真、お借りしていいですか?」
「ええ。構いませんよ」
「どうもありがとうございます。行くぞ、茜沢」
「はい。それでは失礼します」
 二人は写真を受け取るとすぐに車の中に戻った。車に戻ると、桂木はすぐに島津に携帯電話で報告をいれた。
「本当だな?」
「ええ。柊未冬、かつてあの学校で問題を起こして生徒達からもあんまりよくは思われていなかったようです。これからその柊未冬の住んでいる住所に行ってみます」
「わかった。俺から他の連中には連絡を入れておく」
「よろしくお願いします」
 桂木は携帯電話を切って懐にしまった。そのままハンドルを握り所轄の警察署を後にした。

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