「只今戻りました」 桂木と唯は犯人との電話を終えた後、報告のために警視庁へと戻った。捜査一課に戻ると既に島津が苦い顔をしていた。 「してやられたそうだな、犯人に」 「申し訳ありません」 桂木は何をすることもなくただ謝罪の言葉を述べた。その言葉にいつもの桂木の堂々としていたものはなく、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 「さすがにこのミスはでかいぞ。犯人が学校へ行かせたというのにそれに気づかずにまた連れ去られてしまうのは上層部も相当問題視している」 「捜査から外れろ……ということですか」 捜査一課に緊張が走った。ここでもベテランでありとても優秀な刑事である桂木を捜査から外すのは痛手になると同時に、捜査員の士気にも影響することだからだ。 「……お前の処分は後回しだ。この事件で犯人が指定した唯一のパイプ役だからな。ここでお前を外して人質を殺されでもしたら警察の面子は丸つぶれだ。たとえ、後で犯人を逮捕できたとしても……だ」 島津の言葉で周りはとりあえず一安心したが、桂木の表情は一向に緩まず、じっと島津の顔を見ていた。 「お前ならわかっていると思うが、この失態は相当お前の出世の妨げになってくるぞ」 「今更出世などに未練はありません。ですが、このミスを挽回する術ぐらいは心得ているつもりです」 「……わかっているのならいい。もう一日目が終わる。残る期限は明日を含めた三日間だ。何としても犯人を逮捕してくれ。いいな?」 「はい」 「疲れただろう。少し仮眠を取れ」 「失礼します」 桂木は島津に一礼をして捜査一課を出た。唯もどうすればいいかわからなかったので、とりあえず桂木の後を追いかけて捜査一課を出た。 桂木が向かった場所は自動販売機があるスペースだった。そこで缶コーヒーを買って一気にそれを飲み干した。 「桂木さん……」 「茜沢、明日もう一度周辺を聞き込みに行くぞ」 「えっ?」 「犯人が被害者を学校へ連れて行ったり迎えに行ったりしたのなら必ず子供達の誰かに見られているはずだ」 「あっ……!」 「ミスを挽回するにはミスを上回る成功を収めるしかない。お前も警察で生きていくつもりならそれを覚えておけ。今回のミスは俺だけじゃない。パートナーのお前にも関わってくることだからな」 「はい……わかりました」 二人がしばらく何も語らずに休憩スペースにいると相田が見慣れぬ人間と一緒に目の前を歩いてきた。相田は二人がいることに気づいて、一緒に来た人間をその場に待たせて二人の傍に来た。 「桂木さん」 「何だ?」 「その……」 相田が何を伝えようとしているのか桂木にはわかった。ただ、それが非常に聞きにくいことだっただけだ。 「幸いと言うべきか……俺の処分は事件が終わるまで保留だそうだ」 「そ、そうですか」 相田はほっと胸を撫で下ろした。相田にとって桂木はよき先輩であり、心を許せる友人の一人でもあるのだ。それがとりあえずとは言え、お咎め無しと聞かされて少しだが気が楽になったのだ。 「まあ、いつ処分が下されるかわからないけどな」 「そんなもの、事件を解決してチャラにしてやりましょう!」 相田が明るく桂木を激励するので、桂木もチャラにすることなどできないとわかっていても、不思議とできるような気にさせられた。 「そうだな。ところで……」 桂木は相田から待たされているあの人物へ視線を移した。相田もそれを察してすぐに桂木の問いに答えた。 「あの人は昼間発見されたあの死体の身内の方です。娘さんがいたらしいんですけど、随分前に交通事故で亡くなっていて、残っている身内は孫にあたるあの人だけだそうです」 「確認はできたのか? 死体はあれだけ腐乱していたし、顔に至ってはぐちゃぐちゃに潰されていたからな」 「ええ。幸い、子供の頃に左肩に大きな痣を見たことを覚えていて、あの死体にもそれがあったので恐らくは間違いないと……」 「そうか……気の毒に……」 見た感じで二十代前半ぐらい、見た目は少し痩せこけているような印象を受けたが、別に顔色なども悪くなく健康な人だった。 「それじゃあ、俺は表までお送りしてきますので」 「ああ」 「ところで、あの死体の解剖所見は読みましたか?」 相田が突然そんな話題を振ってきたので驚いたが、唯がすぐに答えた。 「私達、今帰ってきたばかりでまだ読んでいないんです」 「だったら、目を通しておいたほうがいいですよ。ちょっと妙なことになっていますから」 「妙なこと?」 「読めばわかります。それじゃあ、また後で」 相田は詳しいことを何も話さないまま、被害者の孫を連れて行ってしまった。 「何か……あったのでしょうか?」 「さあな? まあ、読んでみればわかるのなら戻って読むぞ」 「はい」 二人は休憩スペースを出て捜査一課へと戻った。手近にいた刑事からあの老婆と思しき死体の解剖所見を見た。 「ほう……」 「これって……どういうことなんですか?」 「まあ、そこに書いてあるとおりだってことだろ? なかなか面白いことだがな」 その解剖所見を見て二人は思わず眉をひそめた。この解剖所見に書かれていることにいくつかの疑問と不可解な点を見つけることができ、それがさっき相田が二人に伝えようとしていたことだとすぐにわかった。 その解剖所見にはこう書かれていた。 死因、心筋梗塞 死亡推定時刻、死後三週間から四週間経過
これらだけを見れば普通の病死だった。この解剖所見に何の疑問も抱くこともなかった。他に記述されていることもこの死因が心筋梗塞によるものだと確定付けるものばかりだった。 問題なのは最後に記述されていることだった。
備考、死体の両乳房は死後切り取られたものである。尚、死体の顔も死後潰されたものである。
この記述が二人に疑問を抱かせた。この記述に間違いがないとすれば、誰かが死んでいるあの老婆を見つけてその両乳房を切り取ったということになる。 そうなると当然のように思い浮かぶ疑問が出てくる。それは一番事件の鍵となりうる疑問……どうして死体から両乳房を切り取ったのか、その疑問が浮かんでくる。 「わざわざ死体から乳房を切り取ったってことですよね?」 「まあな。検死に間違いが無ければそういうことになる」 「どうして、わざわざ病気で死んだ人の顔を潰して両乳房を切り取ったのでしょうか?」 「さあな? それこそ俺達の知ったことじゃない。今の俺達にはこっちの事件に首を突っ込むほどの余裕など無い。俺達はあの誘拐事件を解決することのほうが優先だ」 「は、はい」 桂木は解剖所見を自分のデスクの引き出しの中に放り込んで、しばらくそのまま考え込むような仕草を見せて全く動かなかった。唯は何となく声をかけにくくなって、そのまま何も言わずに自分のデスクで同じように考え込むような仕草をした。 ――何故、奴は誘拐した子供を学校へ通わせたのか?―― 桂木は今日一日のことを頭の中で思い出していた。その中で一番の疑問はやはり誘拐された絵美を学校へ行かせたことだった。 誘拐と言うのは相当罪が重い上に色々と制限を負ってしまう割に合わない犯罪の一つなのだ。誘拐が背負うリスクの一つは誘拐した者の家族との通信や接触である。営利誘拐の場合、過程がどうであれ最終的な目的は金なのでそれを手に入れるためには直接その家族に会わなければならない。そこで警察などに包囲されていたらどうしようもなくなる。誘拐は他突発的な犯罪と違って継続的な犯罪なので、誘拐した者の家族との取引などもしなければならないのである意味では忍耐を必要とする犯罪なのである。 そのため、誘拐犯は警察に知られないように家族に対して脅しをかけるのだが、今回は全てその反対の道を進んでいた。自ら警察へ事件を通報するように仕向け、ゲームと称してそれを楽しむというケースは今回が初めてだった。 最初はただの愉快犯かと思っていた桂木も、犯人が行う大胆不敵なあの行動にはさすがに驚くしかなかったし、盲点を突かれたと思った。普通に考えれば苦労して誘拐した人間をわざわざ一時でも解放するなど有り得ないと誰もが思っていた。ましてや、宮園絵美が通っている小学校へいつも通り通わすことなど思いもしなかった。 まだその全体像が全く浮かんでこない犯人がただの愉快犯ではなく、非常に頭の切れる人物ではないかと桂木は考えを改め始めていた。あまりにも馬鹿げた行動で何も考えていないように思えるが、桂木はそれが単なる馬鹿で仕業でないことを直感的だがわかっていた。 その理由は犯人との電話での会話だった。桂木が聞いた犯人の声は常に余裕に満ち溢れていた。ふとしたことで自分の正体がわかりかねないような状況下で、犯人は状況を純粋に楽しんでいた。それは、自分が絶対に相手にわからないという確固たる自信を持ち合わせているからに他ならない。 かつて、桂木はこれほど余裕を持っている誘拐犯とは一度たりとも出会ったことは無かった。今まで担当した誘拐事件の犯人はいつも余裕がなかった。人質と言う鍵を握り締めているのにもかかわらず、常に精神的に追い詰められていた。そんな状況を楽しむような奴など今までいなかった。それゆえに、桂木は犯人の行動がとても恐ろしく思えていた。こんな緊迫した状況すらゲームと言ってしまうような相手を軽蔑や侮蔑などと言うような言葉を超越して一種の恐怖すら与えられる存在になっていた。 今日一日で得た収穫など何もない。むしろ、警察は完全に犯人に遊ばれているようにすら思えてしまう。そのことを考えるだけで頭が痛くなってきた。今回のミスに対する自分の処分云々より、犯人の手のひらの上で踊っている自分がいると言う事実のほうがより桂木を苛立たせ悩ませる要因になっていた。 桂木はふと時計を見た。時刻は午後十一時を回っていて、今日一日の終わりをもうすぐ告げようとしていた。 「はあ……」 今日一日を振り返るとため息しか出てこなかった。今日に限って言えば完全に犯人の勝利に終わる。警察は完璧な敗北を喫したと言うしかないだろう。
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