「桂木さん、急いでください」 「ちょ、ちょっと待て」 桂木はすっかり疲れきって足を止めた。刑事として長く休みの日にはトレーニングなども行っているが、自分の足がそこまで遅くなっているとも思えなかった。 「お、お前、陸上か何かやっていたのか?」 「はい。高校時代に長距離走をやっていました」 「た、頼むからもう少しゆっくり走ってくれ。お前の速さについていけない」 「わ、わかりました」 本気で苦しそうにしている桂木の様子を見ては、唯もこれ以上は何も言えずに桂木の要求を呑むしかなかった。 「それだけ走っても息を切らさないのはたいしたものだな」 桂木は疲れを抜くかのようにゆっくりと歩きながら唯に言った。 「そうですか?」 「それだけの体力があれば犯人が逃走した際に追いかけて捕まえる事だって充分可能だ。少なくとも、それは立派な武器になる」 「あ、ありがとうございます」 唯は桂木から誉められたので何だか気恥ずかしいような嬉しいようなそんな気持ちが胸の中に生まれた。 「あそこか?」 すると、桂木が指差す方向には既に警官たちが到着していて現場に鑑識なども入っていて、立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。二人は野次馬を掻き分けて、立ち番をしている警官に警察手帳を提示して中に入ろうとした。 「ああ、そうそう。君、これを持っていてくれ」 桂木はさっき買ったジュースのパックを警官に渡してビニール袋は自分のポケットに入れた。 「桂木さん、こっちです」 「ああ」 唯が手招きをするので桂木も少し駆け足でドアに近寄って開けた。 「うっ……」 「ひどい臭いだな」 ドアを開いた瞬間、とてつもない異臭が漂ってきた。それがとても不快で、慣れていない唯は露骨に顔色を変えた。 「な、何でしょうか? この臭い……」 ハンカチで鼻と口を覆いながら唯は桂木に訊ねた。桂木はしばらく何も答えずに玄関から中をじっと見ていたが、やがてゆっくりと口を開いて唯に向かってこう言った。 「お前も運が悪いな」 「えっ? それはどういう……」 「すぐにわかる」 桂木はそれ以上何も言わずに玄関から家の中へと入っていった。唯も慌ててその後を追いかけて家の中へと入っていった。 家の中は玄関先よりも強い悪臭が漂っていた。それも、現場に近づけば近づくほどその臭いは強さを増していった。 「遅くなった」 「ご苦労様です」 桂木も相当の古株である上に、人望も厚いので部下も桂木には一目置いているし、信頼しきっていた。ある意味では課長の島津よりも人望がある。 「また厄介な仏さんみたいだな」 「ええ」 唯は会話の意味がよくわからなかったが何も問わずに静かにそれに耳を傾けていた。 「ところで、テツ。お前の相棒の柳沢はどうした?」 テツとは相田哲也のあだ名であり、このあだ名で呼ぶことができるのは課長の島津か桂木ぐらいなものである。相田もまた相当の古株だった。 「仏さんを見てギブアップ。まあ、気持ちはわからなくもないけどな」 「まだ二年目のあいつじゃさすがにそこまでの度胸を持ち合わせてはいないだろう」 「いや……それが、この仏さんはちょっと桂木さんの考えている以上でして……」 「どういうことだ?」 何やら言い渋っている相田に桂木は訊ねた。相田は桂木と唯を交互に見ていてなんとも煮え切らない態度を取っていたので、桂木が先に言った。 「とにかく、仏を見せろ。それから話を聞いてやる」 「は、はい。じゃあ、とりあえず桂木さんだけ見てください。茜沢はその後だ」 唯は仲間はずれにされたような気分になったが、相手が自分より上の先輩であるので何も言い返すことができなかった。桂木は別室に移された遺体を見るためにその部屋に入っていた。 「こちらが遺体です」 通された部屋には遺体とそれを見張る警官がいた。遺体には青いシートが掛けられていて中は見えなかったが、異臭の原因がその遺体からだと言うことだけははっきりとわかった。 「早速見せてくれ」 「はい。君」 「は、はい」 その警官は少し何かに怯えるような表情を見せながら、遺体をかぶせているシートに手をかけた。シートを持った警官の手が震えているのを見て、桂木がその警官に声をかけた。 「大丈夫か? 震えているぞ」 「は、はい。大丈夫です」 言葉こそ強がってはいるものの、体の震えはそれが嘘であることを証明していた。桂木は大きくため息を吐いてその警官に言った。 「君、今はいいから呼んだらここに戻ってきてくれ」 「は、はい」 警官はまるで桂木の言葉が天の助けであるかのようにすぐにこの部屋を出て行った。 「やれやれ……情けないな」 「まあ、気持ちはわからなくないですけどね」 「おいおい、テツ。お前までそんなこと言ってどうするんだ」 「まあ、とにかく仏さんを見ればわかりますよ」 いつもと様子の違うテツをおかしく思ったが、桂木はとりあえず死体を確認することにして、かぶせてあるシートをめくった。 「うっ……」 桂木は思わず言葉を失った。さっきからの周りの反応もこれを見ればさすがに納得せざるを得なかった。 「これはひどいな……」 「どうするんです? 桂木さん」 「何が?」 「茜沢ですよ」 桂木はまた言葉を失った。ある程度のことは予想してここに来ていて唯にも当然経験を積ませるつもりだが、さすがにこの死体は長年刑事をしている桂木でも思わず言葉を失ってしまうものだった。 「……刑事が死体を見ないでどうする? 俺が連れてくる」 桂木は死体にシートをかぶせて部屋を出て、唯がいる部屋へ行った。唯がいる遺体の見つかった部屋へ戻った。 「茜沢、こっちへ来い」 「はい」 初めての現場で何をしていいかわからずにその場に立ち尽くしていた唯はすぐに桂木のところへ行った。 「お前、この臭いが何だかわかっているか?」 「はい。恐らくは腐敗臭ではないかと思います」 「正解だ。つまり、したいがどんな状況になっているかはわかっているな?」 「はい」 「覚悟を決めておけよ」 「お言葉ですが、私だって一応それなりの覚悟をして刑事をやっています」 「ただ腐敗が始まっている死体なら俺もそんなことなど聞かないよ」 「それはどういうことですか?」 「言葉で聞くより直接見たほうがいい。もっとも、最初の事件であの死体を見ても平静を保てたら誉めてやる」 桂木の意味ありげな言葉に唯は疑問を感じたが、質問する間もなく死体の安置してある部屋に連れてこられた。 「これを持っておけ」 桂木はさっきのファーストフード店のビニール袋を唯に渡した。唯はそのことに腹を立てたが、反論をする前に桂木に行動を起こされた。 「テツ、もう一度シートをどけて見せてくれ」 「茜沢、気分が悪くなったらすぐに外へ出ろ。現場を荒らしたくはないからな」 相田は前もってそう言ってから死体にかぶせていたシートをどけた。 「うっ!!」 唯はその死体を見た瞬間、思わず口を押さえた。そして、強烈な吐き気を催してきたが、何とか必死になってそれをこらえていた。 「無理をするな。気分が悪くなったのなら現場を出ろ」 「だ、大丈夫です」 唯の顔色はどんどん青くなっていったが、何とか嘔吐することだけは必死になってこらえていた。 でも、それが長続きするわけもなくそれからすぐにビニール袋を手にして唯は現場を飛び出て行った。 「思っていた以上に長持ちしたな」 「当分うなされるんじゃないですか?」 「……そんじょそこらの警官より根性はあるようだ。すぐに立ち直ってくれるだろう」 「またそんな根拠のないことを言って……」 「人間の心理にいちいち根拠のある説明ができるのなら、そいつは天才だよ」 桂木は死体を見ながら相田に向かって話していた。 「それにしても、何を考えて死体の顔を潰したんでしょうか?」 相田は死体を見ながら桂木に聞いたが、桂木にそんなことがわかることもないので返事もしなかった。 「死体の顔を潰したこともそうだが、どうして両乳房を切り取っているんだ?」 更にこの死体には両乳房を切り取られていて胸の部分が真っ赤に染まっていて、そこが腐敗していて蛆もわいていた。 「何らかのメッセージですかね……?」 「乳房か……何を意味しているんだ?」 「さあ?」 すると、唯が再びこの部屋に戻ってきた。さっきまで血色の良かった唯の顔が、今では真っ青になっていた。 「どうだ? 少しはましになったか?」 「は、はい……」 「ところで、お前はこういう服を着るか?」 死体に着せられている服を見て唯に訊ねた。顔は潰されているから相手がどんな顔だったかはわからないが、肌の皺や髪が白髪になっていることから、相手はこの家の主人である老婆であった可能性は高い。 但し、奇妙なのはその着ている服装だった。年をとった人が着る服と言うよりは若い娘が切るような少し露出の多い服だった。 「私は……着ませんね。こういう服は私よりももっと若い世代、十代ぐらいの子達が着ていることのほうが多いですね」 「そう……だよな」 「この人、こう言う服を好む人だったのかしら?」 「だが、相当歳を食っているぞ。いくらなんでも六十ぐらいの女がこんな服を日常で着るとは思えないぞ」 「わからないですよ。母親が若い子供の服を借りて自宅で着ていたりするらしいですよ。私も自宅で母が着ているところを一度だけ見たことがあります」 「この人の場合は娘どころか孫がいてもおかしくないだろう。孫の服を借りるとは思えないし、娘の服にしても若すぎる」 「……ですよね」 「まあ、あとは検死の結果を待つしかない。俺達はここを任せて小学校へ行くぞ。ただでさえ時間がなさ過ぎるんだ。俺達は急いで情報をかき集めるんだ。窓口が俺となっている以上は、パートナーのお前にも一緒に来てもらうぞ」 「は、はい」 「じゃあテツ、後は任せたぞ」 「わかりました」 桂木は相田に現場を任せて、唯と一緒にあの小学校へ向かった。腕時計を見ると時間は既に三時を大きく過ぎていて五時になっていた。
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