「柊未冬が本当に犯人なのでしょうか?」 「犯人かどうかはわからないが、俺達が持っている手がかりは柊未冬以外に何もない。とりあえず、柊未冬の事件当日のアリバイを調べることが先決だ」 「わかりました」 車は柊未冬の住んでいるアパートに向かって走った。柊未冬のアパートはあの警察署からさほど遠くなく、車で十分ほどの場所にあり小学校からは歩いて五分ほどの場所にあった。 「ここですね」 「柊未冬はどの部屋だ?」 「えっと……」 唯は資料から写してきた住所を読んで、その部屋のプレートを探した。 「あの部屋ですね」 柊未冬の部屋はアパートの一階で、一番右奥の部屋だった。あまり日もあたらないくらい場所にある部屋だった。 「鬼が出るか蛇が出るか……」 「とにかく、行ってみましょう」 二人は車から降りて柊未冬の部屋へと向かった。アパートの敷地に踏み込んだときだった。 「ん?」 「どうしました?」 「見ろ」 桂木は柊未冬の部屋の前にあるポストを指差した。ドアとその脇にあるポストは新聞や郵便物でいっぱいになっていた。 「留守のようですね」 「それも相当長い間留守にしているようだ」 「出直しますか?」 「念のため……」 桂木は柊未冬の部屋の呼び鈴を数回鳴らしてみた。ベルの音は聞こえてくるものの、中から誰かが出てくるような気配はなかった。 「ふむ……」 桂木は軽く頭を掻いてから隣の家の呼び鈴を鳴らした。 「はーい!」 家の中から元気な声が聞こえてきてドアが開かれた。中から出てきたのは三十代前半ぐらいの女性。その背中に赤ん坊をおぶっていた。 「えっと……どちら様ですか?」 桂木と唯は警察手帳を見せて自分の身分を証明した。警察手帳を見せられてその女性は小さく「はい」と頷いて二人の顔色を伺った。 「私、警視庁の桂木と申します。ちょっと伺いたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」 「はあ……」 「お隣に住んでいる柊さんなんですが、いつから留守にしているかわかりますか?」 「あの人、また何かやったんですか?」 「また……と言いますと?」 「あの人、色々なところで問題を起こしているんですよ。ついこの間もテレビの音が問題であの人と大喧嘩したばかりなんですよ」 「じゃあ、住人との関係はあんまりよくはないということですか?」 「ここの住人どころか、近所でも評判が悪いですよ。あの妙な趣味で小学校ともけんかをしたって話ですしね」 「なるほど」 桂木が唯に目を向けると、唯は手帳にそのことを記していた。桂木は再び唯からこの女性に視線を戻した。 「えっと……話を戻しますが、いつから柊さんが留守にしているかわかりますか?」 「さあ……詳しくはわかりませんけど、もう二週間近くあの人の顔を見ていませんね」 「二週間ですか……」 「はい」 「他に何か気づいたことはありませんか?」 「何か……と言われても、あの人の場合はあちこちで色々と問題を起こしているし、あの人自体が相当の変わり者ですから」 「そうですか……お忙しい中、ご協力ありがとうございました」 桂木は礼の言葉を述べてアパートを後にした。 「決まりですね」 「まだ断定するには早すぎる。柊未冬本人を見つけ出さないことにはどうしようもない。本庁に戻って報告だ」 「はい」 車に戻ろうとした時、お腹が鳴る音が聞こえてきた。桂木はふと足を止めて振り返った。唯は恥ずかしさのあまり、顔を赤くして俯いてしまった。桂木は腕時計を見てみると、時間は午後十二時を回っていた。 「まあ、少し休むか。朝も何も食べていないからな」 「す、すいません」 「時間がないからドライブスルーを使うぞ。店に立ち寄っている暇はない」 「はい」 桂木は車を走らせて、警視庁へ戻る前にファーストフード店のドライブスルーに立ち寄った。そこでお昼を買って警視庁へ戻った。 「只今戻りました」 「お疲れ。で、柊未冬はどうだった?」 「留守でした。ここ二週間ほどアパートには帰ってきていないそうです」 「柊未冬はあのアパートの住人は勿論、近所からも評判が悪いようです。色々なところで問題を起こしているという証言を得ました」 「なるほど。じゃあ、現時点で一番怪しい女か」 「容疑者である可能性は高いと思われます」 「わかった。それじゃ柊未冬をあの周辺で見た人間がいないか、捜してみよう」 島津は立ち上がり、覆面車の無線を使って捜査に出ている各刑事に連絡を取った。すぐに全刑事に柊未冬のことが伝わり、捜査方針が柊未冬の発見に変わったのはあっという間だった。 「それじゃ私達も行きましょうか」 「その前に食事させてくれ。俺は運転をしていて何も食べていないんだ」 桂木はさっき買ったファーストフードを袋から出して食べ始めた。唯は自分ひとりで食べていたことを思い出してまた恥ずかしくなって顔を赤くしてしまった。 「お前は赤面症か?」 「そ、そういうわけではないのですが……」 「じゃあいちいち顔を赤くするな。こっちが何か悪いことをしているような気になる」 「は、はい」 すると、島津が会話に加わってきた。 「何だ、茜沢は桂木に気でもあるのか?」 「課長、その発言はセクハラです」 さっきまでのとは打って変わって突き放すような冷淡な口調で唯は島津に向かって言った。 「わ、私と桂木で何でそんなに対応が違うんだ?」 「別にそういうつもりではありませんけど」 「課長、どうでもいいじゃないですか」 桂木はハンバーガーを食べながら言った。少し突き放されたような感じになったので、島津もそれ以上は何も言わずに捜査一課を出て何処かへ行ってしまった。 「いつも今のような毅然とした態度を取れ」 「はい」 「まあ、今のは上司に結果的には上司に喧嘩を売ったことになるけどな」 「セクハラは立派な犯罪です」 「そのとおりだが、軽いコミュニケーションぐらいなら我慢しろ。度を越すようになったらさすがに問題だがな」 桂木はハンバーガーを口の中に押し込んで、それをジュースで一気に喉の奥へと流し込んだ。 「今までセクハラで泣いている女性は多いんですよ。それを黙っていろと言うのですか?」 「そうは言わないよ。だが、縦社会である警察社会ではあんまり上司に噛み付かないほうがいい。俺が本庁の刑事でいるうちにそう言っておく」 「本庁の刑事でいるうちに……ってどういうことですか?」 「今回の事件を無事に解決したとしても、あの失態はそれでも完全に拭い去ることは出来ないだろう。免職……よくて島流しだろうな」 「そんな……!」 「だから、ここで長生きしたかったら少しは上司に気に入られるようにした方がいい。度を越さない限りは愛敬を振りまいてやれ。それも生き抜くための一つの手段だ」 「はあ……」 桂木は少し淋しそうな目をして遠くを見ながら唯に向かって語った。しばらくいい知れぬ沈黙が流れたが、それを打ち破ったのも桂木だった。 「さて、飯も食ったしそろそろ行くぞ」 「は、はい」 桂木が先頭を切って歩き出したので唯もその後について歩いていった。唯は桂木の真意を知ることができなかったが、それでも不思議と桂木の言葉をすんなりと受け入れられた。それはまるで父の言葉のように唯には聞こえていた。 だからこそ、唯は桂木の言葉に逆らうことが出来ず、顔を赤くしてしまうことがあるのだ。 二人は車に乗り込んで、今度は宮園邸に向かって走り出した。目的は宮園夫妻と柊未冬の接点がないかどうかを確認するためだった。 トゥルルルル すると、桂木の携帯電話が鳴った。桂木はそれを唯に渡して、唯を桂木の代わりに会話をさせた。 「もしもし」 「おっ、茜沢か?」 「はい。何かわかりましたか?」 「ああ。柊未冬なんだが、思わぬところで接点が出てきた」 「どういうことですか?」 「お前、芹沢トメって名前わかるか?」 「芹沢トメ?」 「あの顔を潰されて乳房を切り取られて発見された死体の名前だ」 運転をしながら桂木が横から口を挟んだ。視線は相変わらずずっと前を向いていた。 「お前も刑事なら複数の事件が起きようともその被害者の名前ぐらいは覚えておけ」 「す、すいません」 「で、その芹沢トメがどうしたんだ?」 「は、はい」 唯は再び受話器に耳を当ててそのことを電話の向こうにいる相田に尋ねた。 「柊未冬と芹沢トメは芹沢が亡くなる前に口論していたらしい」 「口論? 原因は何だったんですか?」 「何でも柊未冬があの付近にタバコのポイ捨てをして、それで口論になったらしい。些細なことだが、近所中に響き渡るような大声で口論していたらしい」 「じゃあ、そのことの恨みで死体の乳房を切り取ったと……?」 「可能性だがありえない話じゃない。元々、相当の変わり者だったらしいからな」 「なるほど」 「じゃあ、そういうことだから桂木さんにも伝えてくれ」 「わかりました」 電話はそこで切れて、唯は桂木に携帯電話を返して今の会話の内容を桂木にできる限り正確に伝えた。 「タバコのポイ捨てか、そんなことであそこまでやるとは思えないが……」 「それはわかりませんが、可能性としては考慮してもいいと思います」 「それもそうだが、そもそもあの一件と今回の誘拐事件は同一犯によるものなのかもはっきりとしてはいない。接点があったからといって二つを結びつけるのは余りにも安直過ぎる」 桂木はそう言い切って車を止めた。車は宮園邸から少し離れた場所に止めて、人目を気にしながら宮園邸の中へと入った。 中では相変わらず夫婦喧嘩が続いているようで、お互いに顔を合わせようともしなかった。 「さっきより険悪になってますね……」 「やれやれ……」 迂闊に近寄るとこっちにまで夫婦喧嘩の火の粉が降りかかってきそうだが、桂木はなるべく刺激しないように注意を払いながら二人に話しかけた。 「お二人とも、この人物に心当たりはありませんか?」 話しかけた瞬間に鋭い視線をぶつけられたが、宮園はるかの方はその写真を見て顔色を変えた。 「この人……!」 「ご存知ですか?」 「は、はい。以前に学校でこの人のことが問題になってPTAでこの人に抗議をしたことがあります」 「その時、何か問題は?」 「ありました。この人、聞くに堪えない悪口雑言を私達に向かって言い放つもので、私を含めて何人かのPTAの役員と口論になったことがありました」 「なるほど」 「刑事さん、この女が犯人なんですか?」 直哉が桂木の肩を掴んでその目をまっすぐ見つめて尋ねた。桂木もその目から瞳を逸らさずに率直に答えた。 「それはまだ断定できませんが、可能性として挙げられる人物であることだけは確かです」 「そう……ですか」 「我々も目下全力でこの柊未冬を捜索しておりますのでどうかもうしばらくご辛抱ください。では、我々も捜査に出ますので失礼します」 桂木は二人に軽く頭を下げて宮園邸を後にした。そのまま二人でしばらく近所の聞き込みをすることにして、写真を片手にあちこちの家を歩いて回った。 「桂木さん、どうしてわざわざ宮園邸を出たんですか? 別にこの辺りなら既に他の方々が聞き込みをしたと思いますが……?」 「お前、あんな雰囲気の中にずっといたいと思うか?」 「あっ……」 「まあ、自分の耳で直接聞いたほうがいいというのもあるけどな。それじゃ、もたもたしないで聞き込みを始めるぞ」 「はい」 二人は一軒ずつ聞き込みを開始した。既に何度も刑事が尋ねてきている家はさすがにうんざりしているようだったが、相手が警察となると断ることもできないので渋々同じことをまた喋ってくれた。 柊未冬についての証言は大抵同じようなものだった。暗い印象、回りに迷惑を掛ける、時にはそれに腹を立てて嫌がらせをされるなどと言った風にこの近所でも柊未冬は悪名ではあるが有名だった。 そして、証言を得ていくごとに桂木の表情が段々曇っていくことに唯は気づき始めた。 「どうかしましたか? 桂木さん」 「えっ?」 「さっきから、何かを気にしているようですけど……」 「……いや、何でもない」 「そろそろ七時です。宮園邸に戻りましょう。そして、犯人の名前を暴いて驚かせてやりましょう」 「ああ……そうだな」 桂木の表情は相変わらず翳がさしたままだった。唯はやはりそれが気になってはいたが、とりあえず約束の七時が近づいていたので宮園邸へと桂木と共に戻った。 トゥルルルル…… 桂木が宮園邸に戻ってすぐに電話が鳴り始めた。無駄とはわかっていながらも逆探知を仕掛けて桂木は受話器を取った。 「もしもし」 「どうも」 犯人はもはや桂木をまるで友人に話しかけるかのように気軽な感じで話してきた。いつ聞いてもその余裕だけは決して失われてはいなかった。 「さて、そろそろ私の名前がわかりましたか?」 現場にいる全員に緊張が走った。全員が桂木がその名前を口にする瞬間を固唾を呑んで見守った。 「……柊未冬」 一瞬の沈黙、そして―― 「ふふふ。残念ですがはずれです」 まるでこっちの答えを予想していたかのように犯人は楽しそうに不正解であることを告げた。桂木は何も言わずにただ沈黙を守り続けていた。 「おや? 驚かないと言うことは私が柊未冬ではないことをわかっていたようですね?」 「……俺達が聞き込みで聞いて回った柊未冬とお前とではその人間像が明らかに違うからな。どんなに疑わしい要素があっても犯人であるとは思えなかった」 「へえ……それでもその名前を口にしたと言うことは周りの圧力に負けてと言うところでしょうね。でも、貴方は私が思っている以上の人のようだ。それだからこそ、このゲームは楽しくなります」 「じゃあ、今度は俺から質問だ」 桂木からこんなことを切り出すのは今回が初めてなので、電話の向こうにいる犯人は少し沈黙したが、その後、楽しそうに訊ねた。 「いいですよ。で、どのようなことでしょうか?」 「今の口ぶりだと柊未冬を知っているようだな?」 「ああ、そのことですか。ええ、知っていますよ。あの人は有名でしたから」 「ほう……」 桂木は小さく声を漏らした。周りはそれが気になったが、周り以上に気になっていたのは犯人だった。 「何か?」 「一つだけわかったよ。お前は既に柊未冬を殺しているな?」 その一言は周りに控えている刑事達に衝撃を与えた。 だが、犯人は全く動揺せずに言葉を続けた。 「その根拠は?」 「お前は今、柊未冬のことを『有名でした』と言った。どうして過去形なんだ?」 「……」 「考えられることは二つ。柊未冬が既にこの土地を離れて何処かへ行ってしまったか、あるいは既にこの世から去っているかのどちらかだ。だが、近所の住人誰一人として柊未冬の行方を知らないのにお前だけが何処へ行ったかを知っている可能性はかなり低い。そうなると、必然的に後者のほうが可能性は高くなる」 「……本当に貴方は私が思った以上のことをやってのける。私の人選に間違いはなかったようですね」 「どうして柊未冬を殺した?」 「……あの人は色々とゲームをするに当たって邪魔な存在になっていましたからね。せっかくの催し物を台無しにされたくない。それだけですよ」 「……そうか」 「まあ、これで期限は後二日。私の名前を早く見つけて絵美ちゃんを助けてあげることですね」 「待て。最後に子供の声を聞かせろ」 「明日の朝、お聞かせしますよ」 そこで犯人からの電話は途切れた。桂木は受話器を置いて少し考え込んだ。少なくとも、今回の犯人との会話は今までとは明らかに違うものだった。犯人の意図しないことを次から次へと桂木が聞いてきたその返答に若干の間ができることがしばしばあった。 そして、極めつけは子供のことを聞くと慌てて電話を切ってしまったこと。単純に考えれば、今は子供の声を聞かせることができないということになる。 その理由があるとすれば子供の声を聞かせられる状態ではないということか、既に子供が死んでいるということだ。但し、犯人は明日の朝に子供の声を聞かせると約束しているので後者の可能性はこれでなくなった。つまり、今は子供の声が聞かせられない状態であるということだ。今まで一度も動揺を見せたことのない犯人がここに来て初めて動揺を見せたことは大きな意味を持っていた。 ――動揺はミスを誘いやすい―― 桂木の経験上、誘拐事件において犯人の動揺はミスを誘いやすかったのだ。今回の犯人との会話でも柊未冬のことで犯人はミスを犯している。つまり、これからは犯人との交渉をもっとやりやすくなる可能性が大きくなったわけなのだ。 「茜沢」 「はい」 「柊未冬の身辺を徹底的に調べるぞ。絶対に何処かで柊未冬と犯人との接点が存在するはずだ」 「わかりました」 やっと見えた一筋の光明……桂木は我知らずと薄っすらと笑みを浮かべ、これからのことを考えていた。
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