この日、宮園邸に一本の電話が入った。 「もしもし」 「宮園さん……ですね?」 宮園はるかは電話をかけてきた相手は女だと思った。電話に出たときの相手の柔らかな態度と声の高さで何となくそう判断した。 「そうですが? どちらさまでしょうか?」 「失礼ですが、貴女の娘さんを誘拐させていただきました」 はるかはこの言葉に思わず我を忘れてしまい、そのまま硬直してしまった。頭の中では今の言葉が何度も反芻していた。 はるかが正気に戻ったのはそれからしばらくのことだった。 「も、もしもし! 悪い冗談じゃないでしょうね!?」 「疑われるのも無理はないですね。ならば、これならどうですか?」 相手がそう言ってからしばらくして 「ママぁ……」 「絵美!」 電話に出た愛娘の声をはるかが聞き間違えるはずもなく、そのまま受話器に向かって声を張り上げて娘に言葉を送った。 「絵美! どうしたの!?」 「私、今このお姉ちゃんと一緒にいるの。色々な所に連れて行ってくれるんだって」 「絵美、そこは何処なの!」 「あ、お姉ちゃんがお母さんに代わってって言うから代わるね」 すると、電話の相手が変わって再び犯人が電話に出た。 「どうですか? これで私が言っていることは冗談ではないとご理解いただけましたね」 「む、娘をどうするつもりですか!? 私の娘を返してください!」 はるかは涙声で犯人に向かって必死に訴えた。 しかし、犯人はうろたえもせずにはるかに向かって言った。 「残念ですけど、娘さんにはしばらく付き合っていただかなければなりませんのでお返しするわけには参りません」 「な、何が望みなんですか!? お金だったら何とか用意しますから……!」 「別に私はお金が望みというわけではないのですよ。安心してください、貴女さえ条件を飲んでくださればこの子は無事です」 「じょ、条件……?」 はるかは条件と言われて少し驚きと不安が頭をよぎったが、愛娘の無事を考えたらそんなことぐらいどうでもいいと思った。 「飲みます! どんな条件でも飲みますから子供だけは……子供だけは無事に帰して!」 はるかの返事を聞いた犯人は声色に少し喜びの色が混じった。はるかもそれを確実に感じ取っていた。 「ふふ……そう言ってくれると本当に助かりますわ」 「それで! 条件とは何なんですか?」 「こちらが貴女へ提示する最初の条件は“まず夫にこの旨を伝えて誰にも知らせさせずに家に帰させること”です」 「夫を家に……?」 「そうです。但し、誘拐のことを誰にも気づかせないようにすることです。それが最初の条件です。わかりましたね?」 妙な条件だとは思ったが愛娘の命には変えられないと判断したはるかはすぐに承諾の返事を犯人に送った。 「それでは今から三時間後の午後七時にまたお電話いたします。尚、警察にはご内密にお願いいたします。もし、お約束を破ると絵美ちゃんの命の保障はいたしません。尚、七時にはお二人揃っていてください」 「あの、もう一度絵美の声を……!」 はるかの言葉を聞かずに誘拐犯は一方的に電話を切った。 しばらくの間、はるかはその場から動くこともできなかったが、気が少しずつ落ち着いてくるとすぐに犯人の出した条件を実行しようと携帯電話を取り出し、そのまま夫の直弥に電話を入れた。 「もしもし」 「あ、あなた」 はるかの声を聞いて、直哉は少しおどけたような或いはからかうような口調ではるかに向かって話しかけてきた。 「どうしたんだよ? わざわざ仕事中に電話をかけてくるなんて」 「あ、あなた、大変なの!」 はるかの声が上ずっていたので、直哉は驚いて問い返した。 「ど、どうしたんだよ? 何かあったのか?」 「絵美が……絵美が……」 「絵美がどうかしたのか?」 「絵美が……誘拐されちゃったの……」 「ええっ!?」 電話の向こうから直哉の驚く声が聞こえてきた。それを聞いて慌ててはるかが直哉に向かって言った。 「周りに気づかせないで! 周りに誘拐のことを知られたら絵美が殺されちゃう!」 はるかの必死の訴えを聞いて、電話の向こうから直哉の声が聞こえなくなった。恐らくは、自分のように電話を耳に当てたまま硬直しているのだろうとはるかは思った。 「ちょ、ちょっと待ってろ!」 直哉がそう言うとしばらく声は聞こえてこなかった。かわりに、今まで聞こえていたざわめきや電話の音などがどんどん遠のいていった。誰にも聞かれないように場所を変えている、はるかもそれを直感した。 「よし、ここなら誰にも聞かれない」 直哉の声が聞こえてくると、周りの音はほとんど聞こえなくなりより鮮明に声を聞き取ることができた。 「そ、それより、本当に絵美は誘拐されたのか!?」 「ええ……誘拐犯と名乗る人から絵美の声を聞かされたわ」 「え、絵美は無事なのか!?」 「声を大きくしないで! 誰かに知られたら絵美が殺されちゃう!」 はるかの訴えで直哉も気を取り直して、声のトーンを低くして話し始めた。 「は、犯人は何を要求してきたんだ?」 「あなたに午後七時までに誘拐のことを伝えて家に戻させることが最初の条件って言っていたわ」 「午後七時までに俺を家に戻させる? 他には?」 「今はそれだけ。午後七時に二人揃っていることを条件にしていて、七時にまた電話をかけるって言っていたわ」 「け、警察には訴えたのか?」 「訴えられるわけないでしょ! 警察に訴えたら絵美を殺すって言っているのよ!」 受話器越しに飛び込んでくるはるかの怒鳴り声に直弥は思わず受話器を遠のけ、耳を塞いだ。 「わ、わかった。とりあえず、今日は五時には上がれるからそれから家に帰っても七時には間に合う。出来るだけ周りに気づかせないようにするんだったら、いつもどおりの時間に帰ったほうがいい」 「ええ……。でも、早く帰ってきてね」 「ああ。早く帰るから気をしっかりもつんだぞ」 「ええ」 「じゃあ、一度切るからな」 直哉ははるかに向かってそう言って携帯電話を切った。はるかとの通話を切った後に直弥の頭に重くのしかかったのは愛娘の誘拐という事実だった。 ――絵美が誘拐された―― はるかから直接伝えられたとはいえ、まだ信じられない……信じたくない気持ちが直哉の中にあった。 直哉の心の中に絶望と不安の二文字が刻み込まれた。それと同時に、早く家に戻って詳しいことを知りたいという焦燥感にも駆られた。 混乱する頭の中を無理やり整理させて、直哉は仕事場へと戻った。仕事などとても手につきはしなかったが、それでも絵美を救うためなら、と必死になって耐えた。誰にも気づかれないように極力平静を装い、静かに五時になるのを待った。 「直哉、仕事が終わった後、飲みにいかないか?」 誘いをかけてきたのは同期の楠田だった。直哉が高校生だったときに知り合い、今も長い付き合いが続いている。 「悪い。今日は妻と娘に早く帰ると約束しているからな」 「家族サービスか……相変わらず仲がいいな」 「お前だってあんなに可愛い奥さんに子供がいるんだからたまには早く帰ってやったらどうだ?」 「そうだな……捨てられないようにたまには家族のために早く帰ってみるか」 「そうしろ」 いつもなら自然に笑いながら交わせる軽口なのだが、今はそんな余裕などなく笑顔も必死で作っているものだった。 そんな軽口を交わしている間に五時を告げる鐘の音が仕事場の中に響いた。直哉はそれを聞くと同時に帰る準備をして、すぐさまタイムカードを機械に記入させて仕事場を出た。 今の直哉の心の中にあるのは絵美が無事であるか否か、それだけだった。 仕事場を出ると脇目も振らずに駅へと向かい、ホームへと駆け込んで電車の到着を今や遅しと待った。待っている間に気持ちがいらつき、腕時計と時刻表を何度も見合わせていた。 電車がホームに到着すると一番に乗り込んで、そのまま自宅のある駅まで乗り続けた。まだ終業してから間もないので電車の中はまだ混雑していなかった。会社から家まではたった二駅程度の距離なのだが、その二駅すらも今の直弥には非常に遠く感じた。 流れ行く景色を見ながら、直哉は絵美の無事を祈り続けた。詳しい事情などわからないが、絵美が誘拐されたのなら無事を祈ることしかできないことを直弥は知っていた。 ――どうか無事でいてくれ―― その一言を心の中で何度も何度も繰り返した。 電車が駅に着くと、そのままホームへと走った。改札を抜けると、そのまま走り続け、家までまっすぐ帰った。
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