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私の瞳とひとみ 作者:シグタク

第2回  
 次の日、昼の11時半という重役のような時間に出勤。確かに朝が弱い俺としてはありがたいが、その分いつもより給料は引かれてしまう。さて、事務室に上がると朝と違って閉散としていて何だか寂しい。

「おはよう」

 隣の班の班長さんが声を掛けてきた。長髪でメガネを掛けた班長さんの笑顔を見ると、何だか韓流ブームの火付け役であるあの人に似ている。言葉も落ち着いた感じで、雰囲気なんかもそっくりだ。

「今日からウチのコース担当だよね? 西田君の席ウチに移動してもらうから」

『そうか、コースが変わったから班も変わるんだ』

 まさしくこの時、思いもよらぬ俺の不器用な恋物語本題へのきっかけとなったのだ。これは神様のイタズラなのだろうか? はたまたただの偶然なのか?

「西田君、君の席はここだから」

「はい」

 席に座って一息ついていると、この時ふと気が付いた。

『・・・、!? ・・・あれっ!? もしかして・・・』

 案内された席は角にある席で、左隣の席はというと・・・。前の班の時から少し気になって、いつも後ろ姿を見ていた。

『・・・、これって彼女の隣の席じゃんか!?』

 後ろ姿しか見えなかったのに、いきなり隣の席。そして同じ班という事もあり、会話も出来るチャンスが生まれる。今まで違う班同士では普段会話するなんて機会はほとんど無かった。帰宅時間はその人のコースによってバラバラだし、あまり接点が無い。彼女の事が少し気になってきていても、会話するきっかけを作る事すら俺には難しかったんだ。
 偶然・・・。もちろん彼女が隣になるのを知っていて、わざとこのコースに移って来たんじゃない。目が悪くなってしまった事により今の状況になったが、考え方によっちゃ不運を逆に幸運にと考えればいいのだ。とにかく前に比べ、少し気になって遠くから後ろ姿を見ていた時とは違い、これでチャンスを沢山作っていく事が出来る。・・・この時はまだ楽だった。まだ真剣にはなっていなかったから。しかしこれで接点が近づいたこの先、彼女の事でどれ程苦しい思いをしただろうか。今は全く想像もしていなかったんだ。
 
 ふと机の下の隅に置いてあったボックスが視界に入った。集めてくる検体を入れておくボックスで、中にはドライアイス等のスペースも有り、持ち上げると重たいし結構な大きさだ。今までは車で移動していたのでほとんどトランクに入れっ放しだったが、今日から電車なので常に持ち歩いていかなければならず、こんなボックスを持って房総方面へ向かうのだから、ホームに居ると側から見たらスーツ姿で釣りに行く変な人に思われるかも知れないな。
 
 先輩と2人で会社から地下鉄で東京駅へと向かい、駅では地下鉄から房総地下ホームまでの乗り換えにまずビックリである。乗り換えの地下ホームまで距離にして700メートル。

『おいおい、これって本当に同じ駅なのか?』

 れっきとした同じ駅で、案内板には御丁寧にきちんと距離が表示されていたよ。この距離をこんなでかいボックスを持って歩くのだから参っちゃう。
 ホームの売店でジュースやつまみを買い込み、1編成に1輌しかない喫煙可能な自由席に座ると、特急「ビューはましお号」は14時の定刻通りに東京駅を出発した。まずは最初に遠い方の負浦の病院に行く事を教えて頂き、東京から1時間半かかる旅だと知る。車内はスーツを着たサラリーマンが沢山乗っているんで、自分達が乗っていても全く違和感は無かった。

『観光だけでなく、ビジネス路線でもあるんだなぁ』

 負浦到着までの1時間半、本を読もうが寝ていようが、どれだけくつろいでいてもその時間も時給に換算されているのでおいしい。車だとひたすら自分で運転していなけりゃならないからねぇ。10分程して電車は地上に出て東京湾を右手に見る頃には、先輩は座席を目いっぱい倒して眠りに就いてしまっていた。しかし丁度その時車内には車掌さんが検札に回って来ていて、すぐに叩き起こされてしまうのであった。

「お客さん、・・・、お客さん、切符を拝見させて下さい」

「あっ、はいはい」

 眠い目を擦りながら切符を差し出していた。お疲れ様です。私は今日からほぼ毎日乗車する訳で、乗車券ではなく先程購入した乗車券と自由席特急券の定期を見せた。特急なんで2枚の定期が必要なんです。毎日買うなんて面倒だし、定期なら割り引きされるしで、会社から出る時に総務からお金を貰って来ていたんだ。しかしその金額に驚いたのは言うまでも無い。そんな訳で、検札でいつも車掌に定期を見せるのは少しリッチな気分を味わえたかな?
 ノンストップ30分で曽我(そが)に到着してサラリーがボツボツ降りて行くと、喫煙車が自由席のみに1輌しかないから座れなくて禁煙席にまわった人や指定席の喫煙者が一服しにやってくる。みんなニコチンが切れた中毒者のように席に座ってあたふたとタバコに火を点けて、気持ちよさそうになっていた。こりゃ、やっぱり病気だ。吸いたいと思わなければこんな苦労しなくたっていいのに・・・。こんな光景を見ていてそう思ってしまう。

『タバコか・・・、いい加減止めてぇなぁ』

 といいつつ、自分の手には火を点けたタバコを持っていた。・・・近藤さんは喫煙者をどう思っているのかなぁ? やっぱタバコは嫌なんだろうなぁ。
 曽我を過ぎるといきなり田園地帯が広がっていき、もうここからは段々人口の少ない千葉の田舎へと入っていく。次に小網駅に停車したが、ここは負浦の帰りに寄るから周りを良く見ておいた。・・・そういえば、東京からずっと車内には車掌さんが頻繁にまわってくる。そして警察官の2人組まで巡回してきた時にはビックリであった。駅を発車する度に流れる車内アナウンスをよく聞いてみると、なるほどなぁとようやく理解できた。

「お客様にお知らせいたします。只今、鉄道では警戒を強化しております。電車内の網棚、足元等に不審物を見かけましたら、直ちに駅係員または警備員にお知らせ下さい。お客様の御協力をお願い致します」
 
 そういえばどこかで戦争やっていて、テロの報復を受けるかもなんて噂が流れているっていうのを思い出した。鉄道もテロの標的になり得るって事か。そんな事を考えていると、ふと自分の頭の上の網棚の上に目が行った。銀色の大きい自分の検体ボックスが置いてあるではないか。

『・・・、こ、こうやって見てみると、いかにも危しいって感じだな。そういえば車掌さんが検札している時、気のせいかやけにボックスをジロッと見られていたような・・・』

 この不安はこれから1人でまわる時も続くのだ。帰りなんか電車内で検体の整理をするのにボックスの中をいじくっているんで、いつ声を掛けられても不思議じゃない。でもまぁほぼ毎日乗り続けて行くのだから、こんな目立つボックスを持っていれば車掌さんも俺の顔を覚えてくれるかも知れないな。

『乗客のみなさーん、私は不審者ではありませんからねー? 安心してくつろいで下さいね?』

 房総半島の中核都市、藻原(もばら)に到着すると乗客の半数以上はここで降りていってしまい、車内はガラ−ンと空いてきて車内販売のお姉さんも持て余していそうな感じ。あの町には大手電気メーカーの工場があるらしく、あんだけ乗っていたスーツ姿のサラリーもほとんど我々だけになってしまったようだ。
 さて、次の上総三ノ宮(かずささんのみや)から路線は単線区間になったりでローカル色を濃くしていく。もう半島の東海岸沿いを走っているんで、そろそろ海が見えてきてもおかしくはないはずだが、結局は2箇所程の山の間からわずかに見えるだけにしか過ぎなかった。
 15時半前、負浦駅に到着。音宿(おんじゅく)から無数のトンネルを越えてすぐの所だった。外へ出てすぐに感じるのがほんのり潮の香りが混ざった空気の味で、気分は何か旅行している感じであり、ちょっとのほほんとなっていた俺。そこへ先輩が水を差してきた。

「どう? これからこの距離を毎日だからね? 今の俺みたいにたまに行くならいいんだけどさ」

「はは、確かに遠いですね。でもまぁ、やるしかないっす!!」

 病院までは駅から歩いて10分程の所。途中、歩行者専用の長い長いトンネルを越え国道に出て、しばらく歩くと沿道に建物が見えてくる。結構大きな病院で救急もあり、この町の医療を担っている感じがする。検査室に入り、職員さんに挨拶をして早々と検体を回収していく。実は、次に小網方面へと戻るのに乗車する電車は16時20分発の特急で、1時間も無いからあまり余裕をこいていると乗り遅れてしまう可能性が高い。この先1人になった時、色んなアクシデントが起こって何度か乗り遅れてしまったが、その次の電車は16時30分発の普通電車になってしまうのだ。その時点でただでさえ10分もロスするのに、鈍行でずっと小網まで戻る事になり、特急なら30分ちょっとで行く所を1時間以上もかかってしまい、そうなると再び帰りの電車の時間も大幅にずれてしまって帰社時間が遅くなっちゃう。何せこっちのほうはダイヤが少ないから、乗り遅れたらどうしようもなくなるんだよ。
 普通にスムーズに進めば遅れるなんて事は滅多に無い訳で、乗車15分前には負浦駅の改札を通り過ぎることが出来ていた。この時間は丁度電車が来る時間で、待合室では下校途中の高校生が沢山待っていた。やはりスーツ姿で釣りをしに来たと思われているのか、何か笑われているような気がする。

『くっ!! しょうがない、これも仕事だ・・・』

 戻りの車内では空いている時間に少しでも事務作業をしておかなければならない。電車の揺れに耐えながらボールペンを走らせるが、小網まで戻る時の車輌は設計の古い電車で特に揺れが激しい。電車の名前の頭に「ビュー」が付いている特急は新しい方で、ただの「はましお号」だと古いやつだと先輩に教えてもらった。
 小網に到着すると再び10分程歩いた所に目的の医院があり、負浦の病院とは対照的に雑居ビルの中にある小さな個人の医院だった。しかし中に入ってみてビックリ!! 待合室は患者さんで一杯で、我々が移動するスペースもあまり無い程だ。そして小さい医院だが看護師さんや受付の人が数人居て、しかもみんな若い!! なるほど、確かにナース天国である。さっきそうやって先輩が言っていた。
 検体の量は負浦の病院よりも多かった。しかも負浦の方はその日に持って行く検体の数はあらかじめ置いてある分だけなのだが、小網は次から次へと新たな患者さんの検体が出来上がる場合があったので待ち時間が発生するのだ。採りたてなのでまだホットな血液やら尿ばかりである。そんな訳でここも次の帰りの特急の時間までは1時間も無く、乗り遅れてしまう事は多々あった。まぁそれでも看護師さん達可愛いから許せちゃうけどね。
 この日は無事にいつもの特急に乗車する事が出来て、後は会社へと帰社するだけであった。小網発は17時48発で、この時間でここからだと車内は混雑していて座れる可能性が低くなってしまい、最悪はデッキで事務作業をしなければならないのだ。無事に先輩と着席出来て、優雅に東京湾岸の夜景を楽しみながら会社へと戻っていった。しかし本当にこれは毎日出張で、俺にとっては覚悟を決めた始まりだったんだ。

 彼女を本気で意識し始めたのはいつからだろうか。実は今のコースに変わってからは、今までのように毎日彼女と顔を会わす事が出来なくなってしまったのだ。昼出社なんで帰りしか時間が合わないから。それでも今までとは違い近付いたからだろうか帰りに隣同士で席に座っていると、彼女の姿や雰囲気を真近で感じ取る事が出来たので、この時俺の体の中を「ビビッ!」と電気が走ったんだろう。もうこうなってしまうと彼女を見かける度に心がドキドキの気持ちでいっぱいになり、今まで付き合ってきた時の何となくっていう気持ちとは違って、俺は本当に真剣に彼女に恋をしてしまったようだ。

「こ、こんな思いになったのは初めてだ・・・」

 でも、今の俺の状況は最悪なわけで、目はどうなるか分からないし、仕事は給料も少ない期限付き。恋なんてしている場合ではない。・・・だけど、・・・それでもこの思いはもう止まらなかったんだよ。だから、契約の約4ヶ月間の間で何とかどうにかしたいと考えていたんだ。・・・とにかく彼女と会話しなければ。
 しかし肝心の彼女とは逆に、いつも仕事で接点のある電話受けのお姉さんとしか話す事が出来ない。その人は中ノ沢(なかのさわ)さんといい、見るからに俺よりは年上でお姉さんと言われる年齢かどうかは微妙である。そんなことを言ったら絞められてしまうので内緒ですが。とても明るい方で我々バイトからしてみれば、仕事で困った時に頼りになる姉さんだ。しかし後で知ったのだが、実はただの電話受けのお姉さんではなく、勤続十年以上の役職に就いている人。でもそんな人柄なんで、そんなことは関係無しに仲良くなっていく事が出来たんだ。・・・彼女とも、そうやって自然に仲良くなっていけたらなぁ。
 俺は血液型はA型の、どちらかといえば少し内気なんだよ。そんな性格だからいろいろ考えすぎちゃう面もあったりで、このような状況では気軽に誘ってみたりなんて出来ない。もちろんナンパなんてのはした事がないし、この性格じゃあ絶対に無理だと思う。それでも言う時は言えたから今まで少しだけど恋愛経験があるんだけど、最初に知り合った状態でいきなり積極的に誘っていくって事は無くて、ほとんど友人の助けを借りていたりしてたからなぁ。
 だが今回は違う。俺は初めて真剣になれたから、自然とこれからの行動を積極的に攻めていく事が出来たんだ。というか、彼女に対しての思いが強くなるにつれて自然と体が行動を起こしていたんだよ。自分でもビックリで、俺がこんな事出来るなんて思ってもいなかった。普通の人からすりゃ大した事はないんだろうけど、これからのこの俺の彼女に対してのアプローチを暖かく見守っていてほしい。やきもきするかも知れない、・・・不器用なやり方かも知れないけど、このどんどん熱くなっていく思いを。
 
 土曜日、この曜日だけは俺のコースも朝から出発なので出勤はみんなと一緒になり、出発前の事務処理や掃除、ミューティングにも参加する。横にはもちろん彼女の姿があり、唯一この時間だけが一番長く一緒に居られる時間なのだ。

「西田です。よろしくお願いします。」

 ミューティングでみんなに紹介された。社員の人しか俺がこの班に移動してきた理由はまだ詳しくは知らないんで、いきなり移動した俺の事をみんなはどう思っているのだろうか。この時は他の人達とは何気ない会話を少し出来たが、隣の彼女とは一言も会話出来なくて、出発前の事務作業を急ぎながら隣から聞こえてくる彼女の話し声を聞いているだけだった。なんか可愛らしい声でおしとやかな感じの印象を受ける。年はいくつなんだろうか。恥ずかしくて面と向かって顔も見てないけど、この様子だと多分年下になるんだろう。そんな事を考えながら出発準備をし、みんなよりひと足先に会社を後にした。いつもは昼出勤の俺が一番最後だが、土曜だと一番早く出発する。

「行って来ます!!」

「行ってらっしゃい」

「気を付けて」

 当然みんなからそう返ってくるし、彼女もそう言って送ってくれていた。それからは彼女と挨拶程度は交わせるようになったが、まだちゃんとした会話というものはすぐには出来なかったんだ。

『あーあ、もっと誰とでもすぐに気軽に話せるような性格になりたいなぁ』

 少し内面的な性格の俺を悔やんでしまうのである。
 
 平日の昼間出勤すると、もちろん居るはずのない隣の彼女の席についつい目線が自然といってしまう。そういえばまだ名前も知らないので、前に貰った座席表の名前と照らし合わせて調べてみる。

『近藤(こんどう)・・・ひとみ・・・、近藤 ひとみさんか・・・』

 座席表には個人の入社年月も書いてあり、彼女は3年以上も続けている先輩であった。そうなると年下の先輩に対してどうやってアプローチを開始していくかだ。そう・・・、この時俺の心は真剣にアタックする事を決めていた。この少し内気で消極的な性格の俺が。どうやら本当に彼女に対してひと目惚れしてしまったようで、会社では彼女に関するものすべてが気になりだしてきてしまったのだ。彼女の座席、月2回の休日届け表、仕事で乗っている車。
 そんなある日の平日の夜、俺が帰社して机で日報を書いていると、彼女も帰ってきて隣の席に座った。

「お疲れ様です」

「お疲れ様」

 そして彼女も日報を書き始めながら、逆隣の人とお喋りし始めた。

『おおっ、チャンス! この輪の中に入り込めれば自然に彼女とも話せるじゃんか』

 ・・・だがそこは俺の性格。そううまい具合になれるわけもなく、ただひたすら日報を書きながら横から聞こえてくる会話を聞いているだけだった。日報を書き終えると仕事は終了だが、俺はこの後事前に班長から目の事で話を聞きたいと言われていたので、その後もしばらく缶コーヒーでも飲みながら、そのまま席に座って待機していた。

『ふぅー、仕事の後のコーヒーはうめぇなぁ』

 何にもする事がないと彼女の事や目の事、仕事やこれからの事について等を考え込んでしまい、両手でを頭を抱え込みながら班長が来るのを待っていた。それからしばらくして飲み終えた缶を捨てに行こうと席を立とうと思った瞬間、突然隣から天使の癒しのささやきが聞こえてきた。

「西田さん、お疲れですか?」

 彼女がそう言ってきてくれたのだ。しかし俺はまさかの出来事で混乱していたのと恥ずかしさで、そのまま立ち上がって少し照れくさそうに笑いながら一言返して缶を捨てに行ってしまった。

「・・・そうですねー、疲れてますよー」

 これで彼女との初めての会話は終了。ていうか、こんなんで会話と言えるのか分からんが。しかし彼女から声を掛けてきてくれるなんて。考え事をしていただけなのに、俺の様子を見て相当に疲れているのかなぁなんて心配してくれたんだろうね。まぁ確かに考え事がありすぎて疲れてはいるけど。
 席に戻ると班長に呼ばれてそのまま話し合いに入り、結局その日はこれで終わってしまった。後で考えると、どうしてあの時立ち止まって会話を進展させる事が出来なかったのだろうかと悔やんでも悔やみきれない俺であった。

「くそー!! 何やってんだよ俺は? 缶なんかどうだっていいだろうに・・・」

 みすみす自分からチャンスを潰してしまったのである。それからはこの缶コーヒーのメーカーは2度と買わなかった。でも缶のせいにしちゃいけませんな。
 こんな事もあった。これも夜、一日の仕事を終えて帰宅しようと1階の会社の玄関へ下りた俺。すると玄関の外で、彼女が1人でしゃがんで何かと戯れていた。





 会社にはいつも野良猫が住み着いていて、いつもお昼には缶詰のエサを貰っている姿を何度も見かけていた。とても人懐っこい猫ちゃんだが、まだ新人の俺の顔は覚えてくれていないようで、少し近付くとちょっと警戒した感じになってしまう。しかし今のように彼女に対しては尻尾を上げて安心して身を任せているのだ。彼女は猫ちゃんの頭を優しくなでなでしていて、後ろからその姿を見ていた俺は非常に哀愁を感じてしまった。

『あの猫絶対オスだな。スケベな奴。・・・くっ、俺も猫になりてぇ』

 一瞬ふとバカな事を考えてしまう。

『そんな事より彼女1人だし、お話出来るチャンスじゃないか?』

 そう思いながら玄関の外へと出た。

「お疲れ様です」

「あっ、お疲れ様」

 いつものように猫ちゃんは俺が近づくと警戒して、さっきまでの甘ったれていた表情はなくなった。

『ちっ!! 邪魔が入ったか』

 何か猫にそんな事を言われたような感じである。それでか分からないが俺は猫に遠慮してしまったのか、挨拶をしてそのまま駅へと歩いて行ってしまう。ひと言も会話せずに。彼女からの視界が見える内はきちんとした所を見せたいので動揺を隠して背筋を伸ばしてピンと歩いていたが、死角に入ったと同時に俺の背中はミルミル丸くなっていった。
 
「・・・情けない、・・・せっかくのチャンスを・・・また自分で潰した・・・」

 今のコースになってからそう頻繁に顔を合わせられないのに・・・。こんなチャンスは滅多にないのに・・・。いつもこのような感じで過ぎた後になって後悔していた。
 それから数日は案の定時間が折り合わずにこんなチャンスはやって来なかったし、ひと目顔を合わせる事も出来なかった。

「く、苦しい・・・」

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Novel Editor by BS CGI Rental
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