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まほうの時間 作者:晶子

第1回   1
 4月6日の土曜の夜、突然電話のベルが鳴った。
「もしもし、松嶋?」
 その声は力強くてさりげなくてさわやかで、知らない人の声だったにもかかわらずどこかで聞いたことのある声で、私はとても懐かしい気持ちになって何かの予感に胸の奥がざわめくのを覚えた。
「えっ?」
 私がためらって一瞬の沈黙が流れると、またその声の人が言った。
「桐生ですけど」
 まさかと思った。
 少しだけそんな気がしてて、でもそんなはずはないと躊躇して息をのんでいた矢先のことだったから。
 私は名前を聞き終わるか終わらないかのうちにドキンと心臓が高鳴って、体中が上気して顔や手がジーンとしてボーッとしてきた。
 桐生ですけど・・・桐生ですけど・・・。
 信じられないこの名前を、頭の中で何度も反芻する。
 私が二の句をつげないでいると、相手がまた言った。
「松嶋だよね?」
「は、はい」
 慌てて返事する。
「こんばんわ」
「こんばんわ」
 礼儀正しいこの言葉が、何度も頭の中に駆け巡った。
「突然電話なんかしてごめん。元気だった?」
「はい」
 私はどうして気の利いた言葉を返せないのだろう。
 はいしか言えなくて、その次の言葉を言い出せないでいる自分がもどかしい。
 何か言おうと考えている一瞬のうちにも時間は動き出していて、長い沈黙のように思える。
「今までいろいろとありがとう。BDカードとかクリスマスカードとか、全部ロスに送られてきて、全部読んだよ」
 少し照れたような口調で御礼を言う俊一朗さまの声をとても不思議な気持ちで聞いていた。
「今何処にいるんですか?」
「鹿児島」
「帰ってきてるんですか?」
「そう」
「いつ帰ってきたんですか?」
「3日前」
 私のいつものクセで質問攻めが始まりそうだ。
 いろいろ聞きたいことがあったけど、ここで少し一呼吸おいた。
「手紙に、連絡くださいって書いてあったでしょ?だからかけたんだよ」
 私は思わず息をのんで、受話器を握りしめた。
「俊一朗さまですよね?」
 私は信じられない気持ちで相手の名前を確認した。
「そうだよ」
 俊一朗さまは私のそういう反応に予想がついていたかのように、少し冷静に笑いを含んだ声でそう言った。
「もうずっと、鹿児島にいらっしゃるんですか?」
「ううん、一ヶ月」
「一ヶ月・・・」
 私はがっかりした声でつぶやいた。
「そう、一ヶ月。だから、その俺の一ヶ月を、松嶋にあげるよ」
「えっ?」
 さっきから私は何度信じられない言葉を耳にしただろう。
 私は俊一朗さまの言っている意味がわからない。
 わかってはいても、俊一朗さまの言っていることがあまりにも自分にとって都合のいい解釈で、そんなはずはないと疑って否定している。
「俺は一ヶ月しかこっちにいないけど、その一ヶ月の俺を、松嶋の思う通りにしていいよ。それが俺からの松嶋へのプレゼントのお返し」
「じゃあ、一ヶ月間、私の彼氏になってくださいって言ったら?」
「いいよ」
 私はそのセリフを遠いところで感じていた。
 自分自身の心が今ここにないようだ。
 体中がふわふわと落ち着かない。
「それじゃ、さっそく明日の・・・そうだね、11時くらいに迎えに行くから、準備しとくんだよ」
 俊一朗さまは少し冗談っぽく命令口調でそう言った。

「昼ご飯まだだよね」
 本当に11時に俊一朗さまが迎えに来て、私達は3号線を天文館に向かって走っていた。
「まだです」
「じゃあ、どこかへ食べに行こう。何が食べたい?」
 こういうときは本当に困ってしまう。
 即答しなければと気ばかりあせってしまって、何も思いつかない。
「俊一朗さまのおすすめのところでいいです」
「う〜ん、俺はあんまり鹿児島知らないからねー。松嶋のおすすめってどっかないの?」
 私はまたもや深く悩んでしまった。
 こういうときに限って思い出せない。
 日頃あれほど食べ歩きを楽しんでいるのに、なぜどこも思いつかないんだろう。
 俊一朗さまにふさわしくて、そこまで気負わなくて、おいしくて、満足できて・・・、気に入ってもらえるところ。
「城山のスカイラウンジなんてどうですか?日曜もランチやってるんですよ」
「うん、いいんじゃない?」
 ちょうど3号線の途中から城山に上った。
 私達はホルトの駐車場に車を止めて、本館の方へと向かった。
 車を降りて、駐車場の道を通り抜け、ホテルの中を歩いている自分がとても信じられなかった。
 エレベーターに乗って最上階で降りると、私達は窓際の席に案内された。
 天気がとても良くて、空が青々としてて、遠くまで景色が見える。
「きれいだね」
 俊一朗さまがそう言って、私はとてもうれしかった。
 私はつい2・3週間前に友達とランチを食べに来て、この景色を見ながら俊一朗さまのことを考えていた。
 この景色と、この雰囲気の似合う人は俊一朗さま以外あてはまらないと。
 俊一朗さまとこの景色を下に向かい合えたら、どんなに素敵だろうと・・・。
 フルコースの料理が次々に運ばれてきて、私は俊一朗さまのナイフとフォークを優雅に扱う仕草に見とれた。
 細い指先がとても綺麗で素敵だった。

 
 城山の坂を下りきったところで、俊一朗さまに「右に行く?左に行く?」と聞かれて、とっさに「右」と言って目的地もなく車を走らせていた。
 ドライブといえば指宿が妥当だし、どこか自然の綺麗なところで景色を見ながら思い出が作れればいいなと思っていた。
 だけど途中で、それだったら高千穂牧場に行けばよかったと後悔した。
 あの、行った!という気分になれる目的地の名称と、景色のよさと、ソフトクリーム。
 あそこに行ければ、かなり強烈な思い出が作れるに違いない。
 私は思い切って言ってみた。
「私、俊一朗さまと行ってみたい所があったんです」
「どこ?」
「でも、逆方向なんです。もう一度来た道引き返すの面倒くさいですよね?」
「そんなことはないけど・・・、でもそんなに今日いっぺんにまわらなくても、来週も再来週もあるんだから、ひとつずつ行ってみればいいよ」
「来週も、再来週もあるんですか?」
「そうだよ。一ヶ月間俺達は付き合ってるんだから、明日も明後日もその次も、いつだってあるんだよ」
 そう言って俊一朗さまは私を見てニッコリ笑った。
 明日もあさっても、いつだって・・・。
 俊一朗さまからその言葉を聞いてとてもうれしくなった。
「一ヶ月間を松嶋にあげる」という言葉が現実になって、私の中におりてきた。
 私はとても安心して、これから先の時間を、今日限りではないかという不安に怯え、今日限りという切なさに悲観しておどおどビクビクせずにのびのびと接することができるんじゃないかと思えた。
 指宿に向かう海ぞいの車道を走りながら遠くを見ると、水面がキラキラと輝いていて、楽しい一ヶ月の始まりを予期していた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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