安定した生活が3ヶ月ほど続いたある日、一本の電話によって、私の幸せはかき乱された。 「真由美、あたし」 暗く沈んだ由美子の声だった。 私は、息を飲んで、由美子の次の言葉を待った。 「どうしよう真由美、凌ちゃんが浮気してるみたいなの」 私は心臓をギュッと掴まれたような気持ちになり、うろたえた。 「どうしたそう思うの?」 「最近の凌ちゃん、おかしいの。私といても、ずっと上の空なの」 「大丈夫よ、どうせ一種の熱病みたいなものでしょ。どうせ心は由美子にあるんだから、ほっといたらそのうち戻ってくるわよ」 私は白々しいと自分を嘲笑しながら、そう言うしかなかった。 「でも、今度のはいつもと違うのよ」 「いつもとって?」 「いつもは、浮気してても、私のこともちゃんと見てくれてたのに、今度は違う。私にはわかるの。今度のは本気かもしれない」 「いつもはって・・・、由美子、凌ちゃんが浮気してるの知ってたの?知ってて知らんぷりして見逃してたの?どうして?どうして問い詰めて咎めなかったの?」 「だって、昔から凌ちゃんの浮気は病気みたいなものだったし、浮気しても私に戻ってくるなら、それでもいいと思ってたの」 「信じられない・・・。そんなに凌ちゃんのことが好きなの?」 「そうよ。私、凌ちゃんなしでは生きていけないもの。凌ちゃんを失う人生なんて考えられない。どうしよう、真由美、どうしたらいいの?」 由美子は涙声で訴え、その取り乱した様子に私は打ちのめされた。 由美子はずっと、どうしたらいいの?と繰り返し、私はそれらの言葉にじっと耳を傾けて、でたらめなことを言って、由美子を落ち着かせるしかなかった。 大丈夫よ・・・、何度となく繰り返したこの言葉が罪悪感をもって、私の心を暗く沈ませ、電話を切る頃には、ものすごく疲れていた。
その晩、凌ちゃんがうちに来た時、このことを言おうかいうまいか迷った。 けれども、何も言わなくても、私の悲愴な顔は、すぐに凌ちゃんに伝わったらしい。 「どうしたの?」 凌ちゃんに顔を覗き込まれて、私は思わず、打ち明けてしまった。 「さっき、由美子から電話がきたの」 「由美ちゃんから?」 少しだけ凌ちゃんの表情に緊張感が走り、それから、「由美ちゃんはなんて?」と聞かれた。 「凌ちゃんが浮気してるって。この頃冷たいって」 「そうか・・・」 凌ちゃんがそうつぶやいて、表情を硬くしたので、私は言わなければよかったと後悔した。 私との関係を清算して、由美子の元へ戻っていくのではないかと不安になった。 どうするの?そう問い掛けたくても、その先の答えが怖くて、何も言えない。 「最近、由美ちゃんには会ってなかったからなぁ」 凌ちゃんが、考え込むように、ぽつりとそうつぶやいた。 その言葉が、私に安心と勇気をもたらす。 「由美子の所に帰るの?」 「そんなつもりはないよ」 きっぱりと言い切る強い口調に、私はホッと、胸をなでおろした。 「結局、今までうやむやにしてきたけど、はっきりさせなきゃいけない時がきたんだよね」 凌ちゃんは決心したというような強い視線で、私を見た。 「由美ちゃんに、ちゃんと言うよ。真由美もそれでいいね?」 でも、私は、即答できなかった。 凌ちゃんは愛しい。 由美子から、奪ってしまいたい。 でも、今まで、友達のふりをしてきて、散々裏切りつづけてきた私を、由美子はどう思うだろう。 私はずるいけれども、由美子に非難されるのが怖かった。 知らない人ならいい。 でも、今さら、どんな顔をして、由美子に凌ちゃんが好きだと言うのだ? 凌ちゃんが好きだから、凌ちゃんと別れて欲しいと。 でも、答えは決まっているのも、事実だった。 私は、凌ちゃんが好き。 凌ちゃんを、愛している。 世界中を敵にまわしても、凌ちゃんと一緒にいたい。 しばらく、ためらったあと、私は、そっとうなずいた。
数日後、凌ちゃんは、疲れきった表情でやってきた。 「ごめん。由美ちゃんがあまりにも取り乱していて、何も言うことができなかった。その女を連れてきてって。その人を殺して、あたしも死ぬって。正直言って参ったよ。あんなに取り乱した由美ちゃんを見たのは初めてだったから」 凌ちゃんは、うんざりというように肩で大きくため息をつくと、煙草に火をつけて、天井に向って大きく吐き出した。 「由美子が少し落ち着くまで、何も言わないほうがいいんじゃない?私は、このままでも構わないから。凌ちゃんがここにいてくれるのなら、それだけで、満足だから」 「本当に大丈夫?」 私がうなずくと「俺の気持ちはもう、まゆみだけに向ってるから」そう言って、抱しめられた。 私は少しだけ、由美子の怒りの矛先が自分に向けられることを避けられたことに、安堵を感じていた。 このままではいけないこともわかっているけれども。
でも、2人の変わらぬはずの暮らしは、そう長くは続かなかった。 「由美ちゃんの監視がひどくて、あんまりここには来れなくなりそうだよ」 凌ちゃんがうちにきて、困ったようにそう言った。 「浮気をしてるってことがばれてしまってるから、その人の所に行かせないようにって、ひっきりなしに見張ってるんだ」 そういう端から、携帯が鳴る。 「由美ちゃんだよ」 凌ちゃんは、大きくため息をついた。 「もしもし?まだ仕事中だよ。ダメだよ。あんまり仕事中に電話してきちゃ」 静かに話す凌ちゃんの隣で、私は息をひそめていた。 「由美子はなんて?」 「終わったら電話してって。いいよ。ほっとこう」 でも、その晩は、何度も何度も、由美子からの電話がひっきりなしにかかってきて、私達は落ち着いて話をする暇もなかった。 「今日はもう、終わったらまっすぐ帰るよ。そんなことしなくていいよ。大丈夫だから。本当に大丈夫だから」 凌ちゃんの声は、優しい。 私のことが好きなら、もう少し冷たくしてもいいのにと、心の中で毒付く。 「職場まで迎えに行くって。ホント、参るよ」 「行っちゃうの?」 「行かないよ。ずっと、ここにいるよ」 でも、私は、凌ちゃんの心が、ここにあらずになっていることにも気付いていた。 電源切っちゃえば?その言葉を言えずに、飲み込む。 そんな夜は、凌ちゃんと抱き合っていても、なんだかせつない。 もしも、これが、逆の立場なら、私はどう感じるのだろう。 愛されていなくても、凌ちゃんがいるだけでいいと思うのだろうか。 なにがなんでも、凌ちゃんを手に入れたいと、なんでもするのだろうか。 答えは、決まっている。 なんでもする。 愛されてなどいなくても。 ここにいてくれる道を選ぶ。
「由美ちゃんが一人暮らしをすることになった」 私の部屋に来て、彼は参ったというように両手を広げて、肩をすくめた。 「由美ちゃんは実家だし、俺も寮だから、会える時間が少ないって。もっと長く一緒にいたいって。なにを今さら・・・」 凌ちゃんの顔が少し険しい。 「そうなると、ここにはあんまり、来れなくなるのね」 「でも大丈夫だよ。俺はちゃんと、ここに帰ってくるよ」
でも、実際は、そう簡単にはいかなかった。 由美子の監視はそれはもうひどいもので、凌ちゃんは私の部屋にいる間に、何度も今から来て攻撃にあい、ため息をつきつつ出て行くことが多くなった。 凌ちゃんがそうやって去っていった夜は淋しくて。 自分で選んだ道とはいえ、愛されてるからとはいえ、引き止める力もない自分の立場の弱さに打ちのめされた。 凌ちゃんを引き止められるのは、まだやっぱり、表向きの彼女である、由美子。 行かずにいてくれる強さを、凌ちゃんはまだ持ってくれない・・・。 どんなに嫌な顔をしていてもいい。 そばにいてくれるだけでうれしいはず。 今頃2人は、どんな会話を交わし、何を見、何を聞き、過ごしているのだろう。
ばれないように、電話が鳴るたびに息をひそめて、由美子中心の生活が始まった。 ほんの数時間の逢瀬を楽しんで、彼は由美子の元へ帰ってゆく。 軽い抱擁のあと、凌ちゃんははぐったりして、眠りそうと言って、ソファーにもたれ、私はそんな彼に抱きついて、じっとしている。 凌ちゃんの呼吸が規則正しくなって、私も気持ちよいくらいに彼の胸に身を任せていて・・・。 このまま眠ってしまって朝が来たらいいのにと思う。 由美子のところになんか、帰らずに。 このまま朝まで一緒にいたかった。 凌ちゃんの匂いに包まれて。。 でも、凌ちゃんは、しばらくすると、むくっと起き出して、帰っていく。 そして、今までと変わらぬ、由美子比重の、夜だけしか会えない2人の関係が続いた。 その夜の中にも、電話の通じない日もあって、電話の通じない夜は、由美子と一緒だという証だった。 電話を待つ日々。 かけた先の不在による憂鬱が怖くて、受け身な生活が続いた。 そうこうしているうちに、回数が減っていくことにも慣れ、会わない期間がどんどん長くなっていった。
それからしばらく、ぱったりと、凌ちゃんの音沙汰がなくなった。 いろんなことがありすぎた私には、心の余裕が生まれて、たまに連絡が来て会える、その状況だけで満足できていた。 そして、気が付いたら、連絡もないまま、4ヶ月が過ぎたある日のことだった。 衝動的にかけた電話の向こう。 私が何気なく言った言葉に返ってきたセリフ。 「元気?何か変わったことがあったんじゃない?」 本当に、何気なく言った言葉だった。 しばらく連絡をよこさない彼に対する、皮肉交じりの。 「うん」 少しためらいがちにそうつぶやく凌ちゃんの声に、まさかそんなはずはないと心のどこかで確信を抱きながら・・・。 「もしかして、結婚したとか?」 「うん・・・」 少し笑いを含んでいた私の声が、凍りつく。 息をのんで、心臓の鼓動が激しくなるのを必死に抑え、やっとのことで、声を出した。 「そうなんだ・・・。なんとなく、そんな気がしてた」 そう、つぶやいていた。 あまりにも突然のことで、胸の痛みがついてこない私の心は、まだ落ち着いていた。 「真由美、今から、出てこれる?」 「大丈夫だけど」 「じゃ、すぐ、迎えに行くから」
4ヵ月後の再会だった。 凌ちゃんは、あたりまえだけど、ちっとも変わっていなくて・・・。 私達の関係も、ちっとも変わっていなくて。 まだ冷静だった私の心は、凌ちゃんから、いろんなことを聞きだした。 結婚に至るまでの、いきさつの全てを・・・。 由美子の家族や親戚の間で、どうにもならないくらい話が進んでしまっていて、とりあえずの入籍だったようだった。 「今、由美子は?」 「家にいるよ」 家に・・・。 その言葉が、ずしりと響いて、2人の結婚が、どんどん現実として、私の中に刻み込まれる。 あなたの家。 凌ちゃんと、由美子の家。 「よく、出てこれたわね」 「うん。煙草を買ってくるって言って、出てきた」 「じゃ、早く帰らないといけないんじゃない?」 「大丈夫だよ」
凌ちゃんが、煙草を買うといって、コンビニに寄った。 私は、車の中で待っていた。 店の中で、凌ちゃんの頭が見え隠れしている。 私はその姿にいいようのないせつなさを感じて、そっとため息をつくと、目を閉じてシートに深くもたれた。 戻ってきた凌ちゃんの手に、大きな袋があって、ホイと手渡された。 「花火しに行こう」 袋一杯の花火を抱え、私達は思い出の港に行った。 季節はまだ5月で、少し肌寒い夜の空に、いくつもの光の玉が飛び交っていた。 その鮮やかな光の緑を見つめながら、さっきかわした会話を思い出していた。 温泉に行こうねと言いつつ、果たされなかった約束。 「温泉に行こうねって言ってたのに、もう、行けなくなっちゃったね」 「そんなことないよ。俺達は何があってもこのままなんだから」 このまま・・・。 何があっても、このままなのね。 私達の関係は、このまま続いてゆくのね。 私が、やめる日がくるまでは・・・。
どんなに優しくても、こんなに近くに感じていても、あなたは、由美子のもの。 でも、心のどこかでまだ、手に入るのだと信じて。 いつかまた、上手く行く日を信じて、花火を打ち上げた。 空高く打ち上げられた光の玉を、いつまでもいつまでもみつめていた
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