そして、その日の夜、タイミングよく凌ちゃんがうちに来た。 ドアを開けると、いつになく真剣な表情の凌ちゃんが立っていて、凌ちゃんは何も言わず、私の顔をじっと見つめて、私の胸はギュウッとしめつけられた。 とまどいを隠せず、私が奥の部屋に後ずさりしようとすると、腕をつかまれた。 「こんな風に会えなくなって、真由美のことがどんなに大切でどんなに好きかわかった。俺は真由美を選びたい。もう一度やり直そう」 私の胸はザワザワと波立って、私がどんなにこの言葉を待ち望んでいたかということに気づいた。 「俺はあの日、真由美に別れを告げられてから、会えない日々がとてもつらかった。ものすごく会いたくて仕方がなかった。それで、北岡に聞いたんだ。君とのことを。北岡の気持ちも、君の気持ちも。それで俺もよく考えて、自分に正直になるように覚悟を決めた。俺は真由美が好きだ。この先の一生を真由美と一緒に過ごしたい。だから、由美ちゃんとは別れるよ。今すぐってわけにはいかないけど、いつか必ず決着はつけるから。俺の気持ちは由美ちゃんより真由美のほうにあるから、真由美が一番好きだから。だから、もう少し時間が欲しい」 「ありがとう・・・」 私は、凌ちゃんの言葉にそういうのが精一杯だった。 いいの凌ちゃん。 強がってあなたを突き放してみたりしたけど、とてもつらかった。 あなたから別れるという言葉が聞けるなんて、こんなにうれしいことはない。 でも、今のままでもいいの。 このままでも、私は充分幸せ。 あなたがそう決断してくれただけでも私にはとてもうれしい。 今すぐでなくても、いつかという言葉があればいいの。
実際由美子とのことは、凌ちゃんの愛さえあればどうでもよかった。 凌ちゃんが私のことを好きでいてくれるという事実だけに満足できていた。 由美子との関係は、まだ終わっていなかったけれども、そのことは私にはどうでもよくなっていた。 私の体から、嫉妬と独占欲が抜け落ちて、私たちの関係は昔と変わらないおだやかな日々が続いた。 由美子と別れるという決心がついたせいか、生活の比重が私の方に傾いてきていて、凌ちゃんは毎日のように私の家へ来るようになり、夢のような生活が始まった。 ただいまと言って帰ってくる彼を、お帰りと言って迎える私・・・。 私の作った料理を、毎日おいしいと言って満足そうに食べ、ビールを飲んでテレビをつける。 会話などなくっても、2人が近い距離にいなくても2人の心は通じ合っていて、私は時計を気にすることも、2人の間に流れる沈黙を怖れることもなくなった。 彼の歯ブラシやパジャマ、彼の日用生活品が部屋のあちこちに存在していて、それがとても不思議で、でもうれしくて、毎日信じられないような気持ちで、毎日夢を見ているみたいだった。 何もかもが夢のようで、何もかもが私の心の中にずっと描きつづけてきた理想の世界で、毎朝起きるたびにそれらのものにひとつづつ視線を走らせて、恍惚な思いを抱きながら、全てのことに感謝し、凌ちゃんへの愛と、この生活への幸せをかみしめた。 私たちに訪れる夜で、セックスに結びつかない夜が存在することが、違った意味で、私の心を幸せにした。 腕枕をしてもらって寄り添う夜に、初めて安心という空気が生まれた。 好きだよと、臆面もなく言う凌ちゃんに、私もよと答えられる自分。 言葉の上でも、スキンシップの上でも、素直に愛情を表現できるようになったこの状況を、この上なく、幸せに思った。 ただひとつ、昼間の街を歩くことだけは、2人の間に沈黙のためらいがあり、それが実現されたことはなかった。 けれども、そのことが私に翳りをもたせることはなく、もし昼の街を歩いて誰かに会い、この生活を失うことのほうに、怯えを感じた。 私の数々の願望は、由美子との愛の比重による、私の嫉妬と羨望の上に成り立っていたもので、凌ちゃんの愛情を感じ、由美子より愛されているという私の安心が、凌ちゃんへの欲求が由美子と成された事柄ではなく、2人にとっての新しいことへと関心が移っていて、由美子との過去にこだわりがなくなっていた。 「昔は、真由美のほうが俺のことを好きだったと思うけど、今は俺が真由美を好きだと思う気持ちの方が強いと思う」 意味もなくじゃれ合いながら、凌ちゃんは何度もこのセリフを口にした。 そのたびに私は、まだ私のほうが上だと思うと言い、凌ちゃんは、いや、俺だと言い張って、ギュッと強く抱しめ合って、二人の愛情に酔いしれた。 私はこのセリフがとても好きだった。 どんな愛の言葉よりも、私の心に重く響いた。 これ以上に私の心を熱くするセリフはないとさえ思えるほど、好きだった。
どんなに一緒にいても、飽きることはなく、私の思いも、落ち着くどころかどこまでも上昇しているように思え、凌ちゃんに伝えてみた。 凌ちゃんは、私の言葉に笑って頷き、俺もだよと言った。 「毎日が楽しくて、毎日が新鮮で、いつもワクワクしている。こんなふうに誰かを好きになったのは、初めてかもしれない」 ベッドの中で、私たちは手をつないでいた。 その手に力を込める。 だけど、私の心の中は、少しだけ不安で、向きを変えて凌ちゃんの胸にしがみついた。 楽しいことは続かない・・・。 いつか終りがくるかもしれない・・・。 私は、不安をそのまま残した声で、そっとつぶやいてみた。 「ねぇ凌ちゃん、永遠の愛って、信じる?」 「信じるよ」 少しの間の後、私の不安を悟ったかのように、優しい声でそう言った。 私は、無言で、よかった・・・と胸をなでおろし、凌ちゃんの胸元の、にきびのような突起物を、無意識になでていた。 「人によっては、そんなものあるわけないって否定する人もいるだろうけど、俺はあると思う。中には惰性で続いている人達もいるだろうけど、ずっと愛情を持ちつづけて生活している人たちもいると思うよ。そして、俺の中にもきっと、それがあると思ってる」 「うん」 私はそっと、頷いた。 凌ちゃんは、ベッドの中でぼんやりと交わす人生論や、未来を語り合うことをとても好んだ。 そしてそれは、由美ちゃんとはなかった習慣だとも付け加えた。 真由美といると、どんどん自分が変わってゆくのがわかると。 その刺激が楽しくてたまらないと・・・。 だけど、私は、少しだけそのことに怯えてもいた。 あまりにも情熱が激しすぎると、冷めることも早いような気がして。 「でも、それがいつか、負担になったりしない?」 私がそう言うと、 「なるわけがない」 凌ちゃんは怒ったようにそう言った。 「でも男の人は、男女の間に、刺激よりも安定を求めるものでしょう」 「俺の場合は違う。それに、ここには刺激ばかりじゃなくて、安定もちゃんとある」 私は、自分で挑発しておきながら、求めていた答えにホッと胸をなでおろし、安堵のため息をついた。 そんな私に気づいたのか、凌ちゃんはわかってるよとでも言いたげに私の髪を何度も撫でた。 「いつもいつも、素直じゃないんだから、真由美は・・・」 頭の上で、くぐもった凌ちゃんの優しい声が響き、私の心はもっと安心に包まれた。
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