しばらくは、あの夢のようなひとときに守られて、心穏やかに過ごしていたけれども、時がたつにつれ、その思い出がせつなさに変わり、思いが通じているにもかかわらず、会えないつらさが募って、私の心はまた、重い愛情に押しつぶされそうになってきていた。 凌ちゃんに会ったら、理性を失ってしまいそうな自分が怖くて、由美子の誘いを2、3度断って、あれ以来凌ちゃんとは会っていない。 私は、何もかもが憂鬱で、北岡君からの誘いも断っていた。 そんな矢先の日曜日、北岡くんから連絡があって、どうしてもつきあってほしい所があると言われて、私はしぶしぶ出かけることにした。 「どこ行くの?」 「兄貴の家」 「お兄さん・・・?」 私は、ハッとして、北岡君を見た。 「子供が生まれたんだ。行かなくちゃ行かなくちゃとは思っていたんだけど、なかなか行き出せなくてね・・・」 私は、北岡君の気持ちが痛いほどわかって、何も言えなかった。 お兄さんの家は、住宅街の一軒家で、庭先で洗濯物を干している女の人が見えた。 「彼女が、美里さんだよ」 私たちが近くまで行くと、彼女はいち早く私たちを見つけて、パァッと笑った。 「いらっしゃい。聡君、久しぶりじゃない?最近ちっとも来ないから、どうしたのかなと思ったら、こういうことね」 美里さんは、くったくのない笑顔を私に向けて、目で合図した。 「ちょっと待ってて、洗濯物干したら、すぐ行くから。あがって待ってて」 「ごめん、美里さん。今日はちょっと時間ないんだ。ちょっと通っただけだから。また近いうちに、かならず来るよ」 「あら、残念ね。聡君、まだうちのぼうや見てないでしょ。早く会いにいらっしゃいね」 北岡君は、黙って頷いた。 いつもは大人びて見える北岡君が、美里さんの前では、とても幼い子供のように見えた。 歩き出してしばらくすると、北岡君が、ごめんと謝った。 「本当は、あがって子供を見て行くつもりだったんだけど・・・、やっぱりダメだった。どんなに自分を偽っても、子供のことを考えると、思考がストップしてしまうんだ。兄貴と美里さんがどんなに仲良くしていても、俺はなんとか割り切ってここまできたけど、子供となるとどうしても割り切れなくて・・・。兄貴と美里さんの血を分けた人間がこの世に存在するということが、どうしても切なくてね。どうして俺の子供じゃないんだろう。たとえ2人が離婚しても、あの子はそんなことに関係なく大きくなって、俺じゃなく、兄貴と美里さんのDNAを持ったまま大きくなって、それは一生消えない現実で・・・。どこまでいってもあの子の父親は兄貴なんだと思うと、気が狂いそうになるんだ。今は小さくて、何もわからないかもしれないけど、すぐに大きくなって、美里さんをママと呼び、兄貴をパパと呼ぶ日がくるかと思うと、とてもやりきれないんだ。俺が独り占めしたかった。俺の子供であってほしかった・・・」 表情を変えずに静かに語る北岡君の横顔は、初めて見るような哀しみの色に満ち溢れていた。 「情けないね、俺。君に俺を利用しろよなんて言ってたけど、利用していたのは俺のほうだったのかもしれない。君の中にいる奴のことを利用して、俺に夢中にならずにすむ女の人を無意識に選んでいたのかもしれない。こんなことを言ったあとに、君のことは本気で好きかもと思ったことは事実だって伝えても、たかが子供のことでこんなに惑わされる自分のことを思うと、自分で自分がわからなくなってきちゃうんだ」 北岡君は、神妙な顔つきでそう言って、何度もごめんと謝った。
「いいよ、北岡君。私のほうこそこれでよかったのよ。今まで北岡君つらい気持ちなんか考えずに甘えてきたんだから。私だって、つきあおうって決めてから、あの人のことを考えない日はなかったし。北岡君に好きな人がいるって知ってたから、同じ傷を持つもの同士慰めあおう言ってくれたから、こうして一緒にいられたのよ。その軽い気持ちがとても救いだったんだから」 「ありがとう」 北岡君はそう言って、さみしそうに笑った。 「俺、時々思うんだ。こんなに後悔するなら、取り返しのつかなくなる前に思いきってぶつかってみればよかったって。ダメかもしれないとか、ただ2人を見てせつなくなってるだけじゃなく、自分の感情をぶつけてみればよかったって。そしたら何か変わっていたのかなって。真由美ちゃんもさ、本当に好きなら思いきってぶつかってみなよ。一緒にいるのに自分の感情を殺してさみしそうにしてる君をみてると、昔の自分を見てるようでつらいんだ。今のあいつなら遠慮せずにぶつかってみたら、間違いなく君を選ぶと思うよ」 私は聞き流してしまいそうなほどサラリと言った北岡君の言葉に驚いて、北岡君を見た。 「いつから?いつから私の相手が凌ちゃんだって気づいた?」 私は何も核心に触れてないのに凌ちゃんのことを口にしてしまってから、ハッとして口を押さえると、北岡君はやっぱりねというように口元に笑みを浮かべた。 「最初に4人で会った時にもしかしてとは思ったけど、まさかねと思って否定してた。確信をもったのは、最近4人で会うようになって、あいつの態度の変化に気づいてからわかったよ」 「そう・・・。私が友達の彼氏を横取りするような女で軽蔑した?」 「まさか。人のものはとったらいけないなんて言うけど、そんなことは関係ないと俺は思う。本当にすきだったら、自分の取った行動に責任が持てるのならいいと思うんだ。今の自分の気持ちを大切にしなよ。何もしないで後悔してちゃだめだよ」 北岡君はまるで、自分自身に言い聞かせるようにそう言って、笑った。 「だから、お芝居の俺たちのおつきあいは今日でおしまい。君は自分に正直になってあいつの胸に飛び込むんだ、いいね」 私が黙ってうなづくと、彼はさわやかに笑ってじゃ、と言って帰っていった。
|
|