土曜日、意外に早く、その日はやってきて、もやもやする気持ちを残したまま、北岡君に会った。 待ち合わせは、わかりやすいように、こないだ4人で会った、地下のバージェイムスに、8時だった。 私が着いたとき、彼はもう、カウンターに座っていて、バーボンの入ったグラスをもてあそんで、カラカラと音をたてる氷をじっと見つめていた。 その冴え冴えとした端正な横顔に一瞬ドキリとして、少しだけ彼を見直した。 「こんばんわ、早かったのね」 そう言って隣に座ると、彼は私のほうを向いて、パッと笑顔になった。 「仕事帰り?」 「そう、直行。君は?」 「私も」 「じゃ、お互いにお疲れさま」 彼のバーボンと、私の頼んだトムコリンズが重なって、カチリと小さな音をたてた。 「一週間しかたってないのに、すごく久しぶりのような気がするのは、俺の気のせい?」 「うーん、私もそんな感じかな。でも、いろいろ大変だったわよー。由美子からは電話くるし・・・」 凌ちゃんはうちに来るし・・・と言いかけて、ハッとして、やめた。 「彼女、そうとう楽しんでるみたいだけど。北岡君のところには、凌ちゃんから電話とかきた?」 「いや、全然」 「そうよね、こんなことに興味もっておもしろがるのは、大抵、女の方だもんね」 「迷惑?」 「別に、迷惑じゃないけど。でも、北岡君のほうこそ迷惑なんじゃないの?由美子が言うには、あなたが私のこと好きだってことになってるけど」 「別に、そう思われても構わないけど。君に好意があることは事実だから」 そう言って、彼は意味ありげに笑った。 「ああ、そうってな顔してるね。そっか、君には好きな人がいたんだっけ」 今度はそう言ってから、少しおかしそうに、クスクス笑った。 私は一瞬ドキリとして、何で知ってるの?と言いかけて 「あなたもでしょ」と少しクールに言ってみた。 「うん・・・」 彼は素直に頷いて、少し淋しそうな顔をして、バーボンを飲みほした。 そして、マスターに同じものを注文して、彼はゆっくりと語りだした。 「僕はね、昔からずっとある人に憧れていたんだ。その人は6つ年上で、僕が物心ついてその人を見つめだした時には、その人は高校生で、僕から見たら、すでにお姉さんで、その人はずっと前から、僕の目の前でどんどんどんどん、とても素敵な大人の女性になっていって、そしてそのうち、僕の恋心はその人に通じることもなく、同じく6つ年上の兄貴のお嫁さんになってしまいました。僕がその人に会った時から、2人は付き合っていたわけで、いつかはこんな日がくるだろうとは覚悟していたし、結婚っていうのはある恋心の終着点というか、あきらめるための最大の武器になるんだろうと思っていたけど、それは大間違いだったよね。ずっと好きっていう気持ちはホントにずっと続くもので、それは僕自身の心の感情の問題なわけで、物事なんかでは動かせるものではなくて、結婚したからって僕の気持ちは全然変わらなかったんだ。それどころか、その結論が出てから、結婚がなんだっていう妙な悟りを開いちゃって、ますます思いは募る一方になっちゃったんだよね。それにさ、こんなに好きな人が、形は僕の望む全てじゃないけど、ずーっと近くにいてその人を見ていられるってのも、それだけでもいいかなと思えてきたりして・・・」 ずっと正面を向いて語っていた北岡君は、そこで一息ついて、私を見て、ニコッと笑った。 「これが、俺の女の人に夢中になれない理由かな。でも、かたくなにこの人だけって訳でもなくて、それなりに魅力的な女性には惹かれたりするんだよ、一応」 ああ、これが彼の異常なほど落ち着いて見える印象と、魅力的に見える原因かと私は思った。 ただ一途なだけではおもしろみのない人になってしまいがちのところを、彼は自分なりにその人に認めてもらおうと、夢中になって自分を磨く努力したり、一方で諦めて、他の人を愛そうとしながらも、どうしても忘れられずに戻ってしまう心の葛藤と戦ってきたのだ。 「つらい恋ね」 いろんなことを考えながら、とりあえず、そうとだけ言ってみた。 「君は?と言いたいところだけど、君の場合はまだ、僕に話せる段階じゃないみたいだね」 私は、また驚いて、彼を見た。 「その通りよ。どうしてそんなに人の心がわかるの?もしかして、私の恋の相手が誰なのかもわかってる?」 「そこまではわからないけど、でも、その人のことを必死に隠そうというか、守ろうとしていることは感じるよ」 「そうなの、今は言えないの。でも、北岡君って、同じ歳なのに、お兄さんみたいね。私も、北岡君のことを好きになれたらよかったな・・・」 「俺も、何度もそう思ったことあるよ」 「そっか、もしかしたら私たち、似たもの同士なのかもね」 「そうだね」 「いつか話せる時が来たら、相談にのってもらうかもしれません。その時はよろしくお願いします」 「わかりました」 私たちは、大袈裟に、深々と頭を下げあった。
結局私達は、かなり意気投合して、かなりの時間を一緒に過ごした。 彼の物事に対する考え方は、私の感性にピタリと響いて、とても居心地がよかった。 「実は私、つい最近、その人とケンカじゃないんだけど、気まずい思いをして、落ち込んでたの。今日もそのせいで、あんまり乗り気じゃなかったんだけど、来てよかったわ。とっても楽しいみたい」 「そうだったんだ。その彼氏って、いくつの人?」 「同じ歳よ。それにしても今、彼氏って言葉に感動しちゃった。いいわねー」 「まだ、彼氏じゃないんだ。片思い?」 「そうね、たとえ両思いでも、今の私はその人のことを彼氏とは言えないの。その人を彼氏と言える人は私じゃないのよ。そして、その人が彼女と呼ぶ人も、私じゃないの。ただの単なる言葉の上でのことなんだろうけど、私が今一番手に入れたくて、でも、一番手に入れられないものよ」 「彼女がいるんだ。その人とはどのくらいつきあってるの?」 「知り合ってからだと、3年くらいたってるかな」 「けっこう長いんだ。もう気持ちは通じ合ってて、半分つきあってるようなものなんでしょ」 「私のうぬぼれでなければね」 「俺には、その男の気持ちがわからないな。俺だったら、3年も君を見ていたんだったら、とっくに彼女と別れて、君を選んでると思うけど」 「うれしいこと言ってくれるわね。スゴイ殺し文句で照れるけど、とりあえず、ありがとう。でもね、私みたいな女は、結局、甘え上手の女にはかなわないのよ」 「なるほど、その人は物事を素直に受け取る純粋な人なんだ」 「そ、悪く言えば、単純なのよ。北岡君も本当はそう言いたかったんでしょ」 「ハハ、ばれたか。君のこと気に入ってるからね。少しばかり相手の男に嫉妬しました」 「さっきの話を聞いてなかったら、もっと素直に受け止めたんだけど、でもとりあえず、北岡君ほどの人にそう言ってもらえるなんて、光栄です」 「あっ、冗談だと思ってるね」 「あたりまえじゃない」 「うーん、本気なんだけどな」 「ね、北岡君のお姉さんって、どんな人なの?」 「お姉さんか・・・、改めてそう言われると、耳が痛いな」 「そっか、本当は他人なのよね。ごめんなさい、余計なこと聞いちゃったみたいね」 「いやいや、それは別にいいんだよ。ただ少し感傷を伴っただけで、そのことに関しては、もうふっきれてるんだから。ただどうしても、本人に向って姉さんとは呼べないけどね。彼女の名前は、美里さんって言うんだ。彼女は俗に言う、純粋で素朴な人だよね。明るくて、優しくて、人なつっこくて。だから僕も、知り合った頃から、ずいぶんかわいがってもらったよ。でも悪く言えば鈍感な人で、他人の気持ちとかに全然気づかないで、見たまま、感じるままにしかとらえることも、行動することもできないタイプの人で、だから僕の気持ちにになんか全然気づくはずもなくて、その罪のない優しさに、ずいぶん傷ついたりしたんだよ。もしかして、俺のこと・・・って、若い頃は特に、僕も単純にしか物事をとらえられない時代もあって、彼女の無意識の優しさに、誤解してしまうようなこともあったけど、まぁでも、今思うと、彼女が鈍感な人でよかったと思うよね。もし三角関係にでもなって、美里さんの揺れ動く感情を知ってしまったら、僕は必死になって、彼女を兄貴から奪おうとしたかもしれない。人間って、初めから勝敗の決まっている勝負には、そんなに真剣になれなくて、ついつい諦めてしまうものなんだよ。その分、閉じ込めてしまった思いは、不完全燃焼で、細く長くいつまでもくすぶって続いてしまっているけどね・・・」 「話を聞いてると、会ってみたくなるわね。でも、美里さんと私じゃ、正反対だと思うけど。私は、物事の裏の裏まで考え込んでしまうような人間よ」 「うん、わかってる。俺の場合、女性の好みに一貫性はないんだ。何か感じるものがあれば、恋が始まる」 私は、ナルホドねと思いながら、何度も頷いた。 こんなふうに、積極的に言葉を並べ立てられても、彼の思う美里さんの存在を知っているせいか、恋が始まる前にありがちな相手の重い感情に嫌悪を抱くこともなく、それどころか、少し心地よい、いい夢を見させてもらってるような優しい快楽の中に、私はいた。
「もう少し飲む?それとも出る?」 私のグラスが空いたのを見計らって、北岡君がそう言った。 「出ましょうか」 私たちは、ジェイムスを出て、次に行くとも、帰るとも言わず、ぼんやりと歩いていた。 いろんなことを考えながら、でも心はほんのりあたたかくて、いい夜だなぁと思った。 「真由美ちゃん」 北岡君に腕をつかまれて、ハッとすると、私達に行く手を遮られて、右往左往していたらしい自転車が、私の横をすり抜けていった。 「ごめんなさい。ボーっとしてて」 私がそう言うと、北岡君は、ううんと、少し笑った。 「なんか急に、真由美ちゃんなんて呼ばれると、照れるわね」 「だって、それ以外に呼びようがないよ」 「でも、今まではずっと、君だったじゃないの。なんか耳慣れなくて戸惑っちゃった」 「君で通じる時はよかったけど、名前呼ばないといけない時だったからさ。でも、いつまでも君じゃ失礼かなとは、ずっと思ってたんだよ」 「ま、一度きっかけを逃すと、なかなか呼べなくなっちゃうときってあるもんね」 「そうそう」 「まゆみちゃんなんて、ちゃん付けで呼ばれたのなんて久しぶりだったから、なんか変な感じなんだけど、でもそれ以外に呼び方はないわね・・・。まっ、いっか」 「そういえば、石崎は君のこと呼び捨てにしてるよね」 「そうなのよ」 「あれは、なんで?」 「由美子が呼び捨てにしてるからよ」 「そっか、ただ単につられたのか。単純なとこあるからね、あいつも」 「そうそう」 私は、一瞬、その単純という言葉で、北岡君がさっきの話を思い出しはしないかと、ドキリとした。 私は、彼が思い出さないようにと、次の言葉を急いだ。 「北岡君も、呼び捨てにしていいわよ」 「いやいや、もう呼べません。きっかけ逃しちゃったから」 「そうよね、タイミング逃すと難しいわよね。仕方ない、名前の件は真由美ちゃんで手を打つことにしますか」 「そうしといてください。ま、でもいつか、呼び捨てにするかもしれないよ」 「どうぞ、その時は、ご自由に」 「でも、当分はまだ、君だろうなぁ」 「そうかもね」 北岡君が肩をすくめて、舌を出したので、その仕草がとてもおかしかった。 結局私たちは、どうする?と言いながら、ぶらぶらと歩いて、今日は帰ろうということになって、それぞれタクシーに乗った。 「おやすみなさい、また今度」 私を先にタクシーに乗せて、ドア越しにそう言って見送ってくれた。 今夜は、とても楽しかったけど、満たされたのは、表面上の優越感だけで、深いところの私は、楽しかった分だけ完全に満たされていない飢えている愛情の痛いところをつかれて、帰り着く頃には、心にぽっかり穴があいて、激しく凌ちゃんの存在を求めていた。 とてもとても会いたくて、好きだという気持ちを、凌ちゃんを抱しめることでぶつけてしまいたかった。 他の人では癒すことのできない、私の胸の痛みを・・・。
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