私は、食卓の上の水色のフリージアをぼんやり眺めながら、私の心をとらえて離さないあの人のことを、あの人との出会いのことを思い出していた。 上山君と出会ったのは、ほんの一月前、友人の結婚式でだった。 披露宴を終え、帰ろうとフロアを横切った時、一人の男性と目が合った。 その人は悪びれもせず、私の顔をじっと見て、ニコッと笑った。 そして、私のところに歩いて来て、もう一度笑顔で「2次会行きますよね?」と話し掛けてきた。 私は隣にいた友人の直子と顔を見合わせた。 さっきもこの話をしながら、気持ちは帰る方向に向いていたのである。 すぐに返事のない私達を見かねて、彼がまた言った。 「行きましょうよ、せっかくだし」 彼に積極的なものを感じて戸惑いながら、私達は曖昧な返事をした。 「絶対に来て下さいね」 そう言い残して、彼は2次会へ流れてゆく人ごみに紛れていった。 「あの人、典子のこと好きだよ」 彼の後姿を追いながら、直子がそう言った。 「まさか」 私が一笑に付すると 「絶対よ。私にはわかったわ、恋する顔をしてたね」 と、おもしろそうに言った。 「2次会どうする?」 直子にそう聞かれて、私はまだ迷っていた。 「直ちゃんは行きたい?」 「うーん、そんな気もするし、面倒臭い気もするし、見たところ、いい出会いはなさそうだよね」 直子の目的は、もっぱら男との出会いらしくて、相変わらずねと私は笑った。 「誰も気に入った人いなかったの?」 「いなかった」 つまらなそうに直子がつぶやくと、すぐ後ろで直子の肩をたたく男がいた。 「お疲れさん、2次会どうするの?」 振り向くと、偶然この披露宴で久しぶりに会った、高校時代の同級生の青山君だった。 「今、迷ってるところ」 「とりあえずおいでよ、俺たちも行くからさ」 軽く会釈して去ってゆく、青山君とその友達の福島君の後姿を見ながら、直子の目は光り輝いていた。 「典子、私2次会行きたい」 「どうしたの?急に」 突然の変化に驚いて尋ねると、目的はどうやら福島君らしかった。 散々迷って私達は、少し送れて、2次会の場所に着いた。
「もうおなかいっぱいなのに〜、食べるもの何もないよぉ。それに、福島君もあんな遠くにいるぅ〜」 2次会に参加したものの、直子はやっぱり不満そうである。 そして私もそうだった。 「あっ、典子のこと好きな人だ」 さっきの男の人を遠くに見つけて、直子がいたずらっぽい目で私を見た。 「違うって」 私が否定しても、全然耳に入っていない様子で、直子は一人でしゃべり出した。 「あの人、私達が遅れてきたから、来ないかもと思ってショック受けてたかもね。遅れてきた典子を見つけた時は、胸が踊り狂ったはずだよ。今頃こっちに来たくて、うずうずしてるかもねー」 直子はとても興味をもったらしく、それからずっと彼の行動を逐一私に報告してくれた。 福島君を見てたかと思うと、ふいに思い出して、あの人どこに行った?と私に尋ねてきて、また恋する顔の話を繰り返す。 おかげで、私も彼のことが気になってしまって、直子の気づいていない彼の行動まで、見てしまって、いつのまにか彼を目で追うようになっていた。
「結局、彼来なかったね。私も福島君と話せなかった」 2次会が終わって、お店の前で3次会の計画を立てている人たちを尻目に、直子は残念そうにつぶやいた。 「あっ、青山君、もう帰るの?」 直子は、青山君を見つけて、走り寄って行った。 もちろん、その隣には福島君がいた。 楽しそうに話をしている直子を横に、私はくるりと辺りを見回してみた。 ふいに、あの人と目が合った。 ニコッと笑って、私の方に近づいてくる。 私は少しだけ、胸がドキドキするのを覚えた。 でもそれは、彼のことを好きだからではなく、うぬぼれによるときめきのドキドキだった。 すっかり直子に洗脳され、この人は私のことを好きなんだという気持ちのよいうぬぼれが私の心をときめきにすりかえてゆく。 私も少し歩き出して、少し離れたところで2人になった。 「3次会は行きますか?」 「多分、行かないと思う」 「行けばいいのに」 また同じような会話が繰り返されて、自然と世間話にすりかわった。 少しだけ楽しくて、私はたくさん笑った。 直子が話を終えて、こっちに向かってくる頃には、だいぶうちとけて、彼は私に電話番号を教えた。 「3次会どうするの?」 直子が戻ってきて、そう言った。 「直ちゃんは行きたい?」 「私はどっちでもいい。福島君は行かないみたいだし、福島君と話せてもう満足したから」 「じゃあ、帰ろうか」 「そうだね」 私達はその辺の人たちにバイバイと言って、家に帰った。 「あの人に告白された?」 車の中で、直子にそう聞かれた。 「されてないよ。でも、電話番号はもらっちゃった」 「ほんとに!やっぱりね。今頃むくむくと恋心がつのりだして、今夜は眠れないかもよ〜。罪だよね〜、まさかあの人も、典子が人妻だとは夢にも思ってないかもね〜」 私達は、今日知り合った男の人たちの話で盛り上がりながら、家に着いた。 部屋に着いても、興奮は冷めず、コーヒーを飲みながら、今日の話でしばらく時間をつぶした。 「眠くなっちゃった。先に寝ていい?」 直子があくびをしながら、隣の部屋に行く。 「うん、私もすぐに行くから」 そう言って、私は、荷物の整理をしようと今日持ち歩いていたバックを開けた。 あ、忘れてた・・・。 パーティが終わった後、テーブルの上に飾ってあった花の中から、私は、水色のフリージアだけを選んで花束を作り、そっとバックの底に忍ばせていたのだ。 少ししおれかけている花を、慌てて水切りして花瓶に挿した。 透き通るようにせつない水色が私の中に染み込んできて、私はそのフリージアに、楽しかったひとときの思い出を閉じ込めた。 誰にもナイショの、一夜のアバンチュール。 人妻は見知らぬ男に声をかけられて、楽しい時間をもらう。 あー、楽しかった。 典子は心の中でそうつぶやいて、布団にもぐった。
3週間ほどたった土曜日、切り出したのは私のほうからだった。 夫が出張になって、直子が遊びに来て、あの時知り合った上山君に電話してみようということになった。 いっとき、気になってはいたものの、きっかけがつかめずにいた。 だけど、初めは本当に軽い気持ちだけだった。 少しからかうつもりだった。 だって、私は人妻。 夫を愛している、少しだけ刺激の欲しい人妻なのだ。 直子と代わる代わる上山君をからかって、冗談半分に遊びに行くからねと言って、本気にされて、本気になって、遊びに行った。 話はつきることなく、本当に楽しかった。 時間はあっという間に過ぎて、私はこの頃味わったことのない満足感に支配されていた。 私の心がはっきり上山君に傾きだしたのは、その次に会った時のことだった。 あの日の楽しかったことが忘れられなくて、自然と私は、彼の家の電話番号を押していた。 うぬぼれが、どんどん恋にすりかわってゆく。 会うたびに惹かれてゆく自分の心を、どうすることもできなかった。
上山君は、私のことをどう思っているのだろう。 私は、夫のことを愛していて、上山君のことも愛し始めている。 こんな私を、上山君は、どう受け止めるのだろう。 夫がいると打ち明けても、動揺することもなく自然にふるまっている彼の心が私には見えなかった。 彼はそれほど真剣に、私のことを愛していない? 私の心をかき乱して、もてあそんで、クールに恋の駆け引きを楽しんでいるのだろうか。 ああ、上山君。 私の頭の中は、寝ても冷めても、あなたのことばかり。 上山君は、2回に一回、私を優しく受け入れて、2回に一回、冷たく突き放す。 その絶妙なアンバランスさが、私の気持ちをどんどん虜にしていった。 「上山君は、私の夫にやきもちやかないの?」 夫の目を盗んで上山君の家に遊びに行くようになって、もうどれくらいだろう。 でも、お互いの心はまだつかみ合えなくて、気持ちはあやふやなまま、平行線をたどっていた。 「やくよ」 上山君は、それほど感情も込めずに、そう言った。 「うそばっかり、だったらどうしてそんなに冷静でいられるの?本当は私のことなんか好きじゃないんでしょう」 「好きだよ」 「だったらもっと、態度で示してよ、甘い言葉でささやいて」 私は自分の感情を押さえきれなくなって、一気にまくしたてた。 上山君は、困ったような顔をしてうつむく。 私は、そんなせつないまなざしに、胸がキュンっとなって、もっと彼を困らせたくなった。 「私を好きなら、私を奪って。私を好きだと言って、私を愛していると言って、誰にも渡したくないと言って!」 だんだん感情が高ぶってきて、言いながら、どこまでが本気なのか自分でもよくわからない。 上山君は、私が言い終わるか終わらないかのうちに、顔をパッと上げ、真剣な瞳で私をじっと見据えた。 「僕はそう言いたいよ。典ちゃんに好きだと言いたい、愛してると言いたい、誰にも渡したくない。典ちゃんを抱しめたい。ずっと僕のそばにいて欲しい」 私は、上山君に抱しめられた。 「典ちゃん好きだ・・・、典ちゃん好きだ・・・」 せつないささやきが、耳元でうわごとのようにこだまする。 しばらく上山君に強く抱しめられて、私は身動きすることができなかった。
上山君の愛情を確かめて、満足したのかもしれない。 私は自分で触発しておきながら、急に怖くなった。 「今日は、帰る・・・」 私が彼から身を離して立ち上がると 「そうしたほうがいいよ」 彼は夢から覚めたみたいにあっさりとそう言った。 その冷たさが、私をまた不安にさせ、上山君への思いが募る。 「恋の駆け引きが上手ね」 「どうして?」 「あっさり引き下がれるなんて、やっぱり上山君は、私のことなんか本気で愛してないんでしょう」 私はまた座り直して、上山君を責めた。 「違うよ」 上山君は慌てて、切なさの濃い瞳で私を見つめた。 「僕は君に、帰るなと言いたいよ。ずっと抱しめて引き止めたい。でもこれっきりになってしまいたくないから、君を困らせたくないから、そのためなら僕はどんなにつらいことでも我慢する覚悟でいるよ。浮気だとか、不倫だとか、俺にはそんなことは関係ないんだ。君が望むなら、君の家庭を壊そうなんてこれっぽっちも思わない。君がこうしてココにいる時間を、僕だけの時間を大切にして生きていきたいんだ」 上山君がやさしく微笑む。 私もとても穏やかな気持ちになって、うなづいた。 私は上山君の言葉に安心して、今日は帰ることにした。 「上山君、おやすみ」 「おやすみ、愛してるよ」 私はそれには答えずに、静かに微笑んで、そっとドアを閉めた。
家に着くと、暗がりの食卓で、水色のフリージアが透明な輝きを放っていた。 あの日、水色のフリージアに、あの人の思い出が入り込んでから食卓にこの花をかかしたことはない。 私の恋は今、始まったばかり。 この花が枯れるまで・・・。 私の心の中で、水色のフリージアが、水色の輝きを失うまで、私はあなたを思い続ける。 私は今日買ったばかりの、みずみずしいフリージアを眺めながら、そう思った。
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