厠の帰り、妙なことで足止めを食った。部室から厠までは遠くても歩いて十分程度。行き帰りでもそこまで時間は掛かることはない。しかし、無駄に広い廊下だ。普通に考えれば、厠まで十分の距離というのはどういうことだろうと思う。 「で、何が目的だ」 とりあえず、行き帰りの時間の面倒くささはどうでもいいとして、目前のよく判らない者をどうにかする必要があった。 部室まで戻るとき、もちろん廊下には人影すらない。だが、俺は途中から歩みを止める羽目になってしまった。進むと危険、というわけではない、だが進むわけにはいかない気もした。結果が立ち往生だ。 そして、そんな事に感づいた事もあったのか、そいつは俺の目の前に薄っすらと現れた。それは、まさに不定形の気体のようなシルエット。人間なのか、動物なのか、男か女かも判断できない。人型に形を変えているところを見ると、人間の残留体か、それとも本体か・・・・ 「・・・・・・・」 当然だが、連中は物は口に出来ない。言葉など、残留した存在には備わっていないらしい。その理論は、俺にもわからない。だが、死人に口なしということなのだろうか。 「喋れないのは、まあ仕方がないが、だとしても・・・・あ?」 不意に、その残留体は方向を変えた。180度ではなく、90度。それは二年の教室だ。・・・・二年? 「あんた、横山の父親か」 すぅ、とその残留体はこちらへ向いた。横山、今回の依頼主の名前だ。そして依頼内容は、父親の遺灰の入った壺を取り返す事。彼女の父親はつまりは死んでいる。 そして、この残留体は反応した。 「ヨ・・・コ・・・・、・・・マ・・・・・?」 「―――――っ」 声を、発した?まさか、これは残留体、いや声を発したという事は本体かその一部。だとしても、俺は声を出す『記憶』など、見た事がない。だが俺が見てきたものが全てではないのも確かだ。声を出す、そういう想念レベルの記憶がいたとしても、別段おかしくはない。 「ヨコ・・・ヤマ?アア、そうか」 静かに、そのシルエットは確かに形を作っていた。それは、俺よりも背が高く、体躯も顔の骨格も、壮年のそれだった。 「あんたは、横山の死んだ父親、だな」 「・・・・」 小さく、その男は頷いた。なら、そうなのだろう、疑う理由はない。連中は記憶、自分たちが積み重ねてきた生前の記憶を媒介に行動する。ここに現れたということは、この校舎が僅かにこの男のことを記憶していたに違いない。たぶん、授業参観のときか、何かだろう。 「娘に、会いたい」 「悪いが、それは出来ない」 「何故」 「いま、横山は病院にいる。部活動中に怪我をした。理由は知らないがたぶん、あんたの事で怪我をしたんだろう。心此処に在らずの状態だったらしい」 「・・・・そう、ですか」 もちろん、嘘だ。だが、真実を説いたところで、この男にはどうにも出来ない。この男が、あの病院に行ったことがない以上、無理でしかない。受肉をすることも出来ないしな。 「横山に会って、どうするつもりだ」 「・・・・・一言、謝りたい」 「謝る?」 「私は、家族不幸な父親だ。勝手に死んで、家族を悲しませた。私の姿が見えなくてもいい、一言、謝りたい・・・・」 「だが、それは無理だ。あんたは、横山の運ばれた病院、駅前の総合病院に行ったことはあるのか?」 「ない」 「ならば、不可能だ。あんたの状態は不安定な状態だ。説明するだけ無意味だろう、記憶は記録が出来ないからな。だが、一つだけいえることは、行ったことのない所へ、道を教えても、あんたは絶対にたどり着けない」 男は、残念そうにそうかと頷いた。悪いが、人間にも死人にも、情けをかける趣味はない。真実は真実だ、材料を視認しなければ、料理は作れないのが常識。可能性を潰すのは、思い込み、真実だけを視認しなければ、いつまで経っても打開策は見出せない。 「一つだけ、あんたを娘のところへ行かせる方法はある」 「・・・それは」 俺は、当たり前のように横山の父親を指差した。そう、この男を横山のところへ連れて行く方法は、一つしかない。 「あんたを、俺が連れて行けばいい。ただし、今のあんたじゃない、本物のあんただった物だ。それさえあれば、あんたを娘のところへ連れて行けることが出来る。だが、あんただったものは、今誰かの手の内にある。そうだろう」 「・・・・・」 それは真実だ。この男の骨は、今はどこの誰とも知らない人間のところにある。だが、はてな、どうしてかこの男、その事には触れて欲しくないように見える。どういうことだ? 「あんた、なんでそんな困った顔をする。こう言うのもなんだが、あんたは自分の骨の居所を知っているはずだ。少なくとも、此処から、骨のある位置まで、それを教えてくれれば、その骨を取り戻して娘のところへ持っていける。 それは、なにか不都合なのか」 「それは・・・・ああ、八方詰まり、私は・・・・私は・・・・」 八方詰まり、だと? 「すまない、君は私に協力できる人間かもしれない、だが、それでも迷惑は掛けられない」 「まて、答えになっていない。なぜ、自分の居場所を教えることがあんたの不都合になる。あんたは、娘に会いたいだけじゃないのか、盗まれた骨の居所をいえない理由は―――――おいっ!」 「すまない、だが、君にはまた会えそうだ・・・・」 そういうと、男の体がどんどん薄くなっていく。まずい、此処への執着が薄れている証拠だ。一度興味の薄れた記憶は、ここへもう一度戻ってくる意思を弱くさせる。最悪、この男と会えるのは、これで最後に――――― 「まて、逃げるなっ、あんたは何を隠しているっ!」 「すなまい、友よ。しかし、かならず君の元へ・・・・・」 そうして、無音。よみがえるのは、運動部の喧騒と声。最初にして最後の手がかりを、逃した。いや、それよりも、どういう意味だ。友だと? 「くそっ、とりあえず明のところだ」 悔し紛れに、壁を殴りつける。案外脆い校舎の壁は、それだけで穴が開いてしまった。 「ひっ、わああああああああああああああ」 その現場を通りがかった生徒に見られてしまい、恐怖の形相で逃げられてしまった。こんなのばかりだ、くだらねぇ。
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