「いいですかぁ、人間の脳は前頭葉、頂頭葉、側頭葉、後頭葉、小脳の五つの部位にわかれ、特に大脳が司る前者四つのうちの一つである前頭葉は人の精神生活に大きくかかわりを持っています。 はい、ここテストに出ますよ。『前頭葉は精神生活に関わる』、この部分のメモは重要です」 黒板に文字を書きながら器用に良く喋る保険の先生、黒板には脳を脊髄の途中まで、左に前頭葉を向けたお馴染みの断面が描かれていた。いや、そんな事よりもなんで今日に限っていきなり脳の授業に飛ぶのだろうか。それにこの授業は保険じゃなくて、生物じゃないのかな。 「先生、なんで今日は脳なんですか?」 僕と同じ疑問を持った生徒が質問する。その質問は同感だと、周囲の生徒達も頷いたり同じ質問を聞いたりする。するとどうだろうか、先生はさも大儀があるかのような顔でいうのだった。 「実はこの間、面白い雑誌を目にしてねぇ。前頭葉についての内容で大変興味深いものだった、というわけでそのうち生物で習うであろう脳の仕組みをここで説明でもしてやろうかと思ってねぇ」 ああ、なるほど、と声があがる。いや、そこ違う、いまの絶対に上から発言だった。説明してやろうって・・・・・ 「でだ、話を戻すぞ。この前頭葉は人間に必要な感覚である、視、聴、触、味、嗅、とこれらの感覚を司り、それに体内情報とほとんどの外的、内的情報を司っている。それだけじゃなあない、この前頭葉はまさに人間が人間と言う確固たる真性を持つために必要な部分だ。 では、なぜこの部分がここまで人間にとって重要な部分だと判ったのかというと・・・・と、これは宿題にするか。これを説明すると偉く時間が掛かるしな、他にも説明することはある。だから、宿題だ」 えー、と周囲からブーイングの嵐が巻き起こる。好き勝手説明しておいて最後には宿題かぁ、なんとまあ身勝手な。下らないので僕は眠ろうと机にもたれかかった。 「そう文句を言うな。いろいろなことを調べて知識を増やすのはいいことだぞ。最近の子供は本も読まないからな、これを機会にちょっとした知識を増やすのも―――――こら、桐嶋。なにを一時間目から寝ているか」 「んっ・・・・あ、はぁ」 「なにが「はぁ」だ。宿題だ宿題、大脳の前頭葉は人間にとって重要な部分なんだ。この部分がいつ重要だと判ったのか、その年代と状況をレポートするんだ。いいな?」 この先生は、まあ普段はいい人なのだろうが自分を押し付けたり負けず嫌いな悪癖があって困る。だとしても、まあ僕に言わせればそれらはあまり気にするような問題ではない。光夜以外に他人に気を使う姿勢は持ち合わせていないからね。 周囲の人間は僕が注意されたことに笑いを堪えている。いや、笑っている人間もいる。光夜と同じで、僕は外れ者だからね、周囲からのコミュニケーションが取れていないのは自分でも良くわかっている。 「年代と状況、ですか?それってもしかして1950年代に世界で行われた『前頭葉ロボトミー手術』のことですよね」 僕が苦もなく答えると、周囲の笑いは消え去り、変わりに動揺の声が上がった。 「な、なんだ、知っているのか?」 「いえ、知っていると言うほどでもないですよ、概要だけです。昔は精神安定剤なんてありませんでしたし、精神病の患者に施す医療手段は皆無でした。しかし、無力と知っていても人間はそれをどうにかしたいと考え、あろうことかチンパンジーが前頭葉を取り除くと大変大人しくなったという動物実験を元に、精神病の人間に同じ手術を施しました。すると、それまで精神が不安定だった人間はとても大人しくなりました。 しかし、その代償としてその人は人間ではなくなります。手術後の患者達は例外なく、手術前には考えられない行動を取ります。いえ、むしろ何も行動しなくなりました。全ての物事への興味や執着がなくなり、消極的で内向的で、優しかった人間が暴力的になり、推理力も計画性もなくなり場を弁えない行動を取る。その時代、この手術を受けた人間は約五万人。これだけの人数を壊しておいて、ようやく前頭葉は人間が人間らしく生きるために必要な部位だと学ぶんです。で、いいですか、先生?」 僕が説明し終わるとその場が静寂に包まれた。ぽかーんと口を開けて先生は僕を見ていた。はて、僕はレポートが面倒だからこの場で説明しただけなのに、なんでそんな顔をされないといけないのだろうか? 「先生、聞いてますか?」 「あ、あ、ああ、聞いている。聞いているとも・・・・・」 聞いていると言う先生の顔は狼狽の色が隠せていない。どうも今の話はしてはならなかったらしい。おおかた、いい加減なレポートが多かったら自分が正しいことを教えてやろう的な感じで、そのうち説明するつもりだったのだろう。 「レポートもいいですけれど、それだけ興味深い内容でしたらビデオなどを借りてきたらいいと思いますよ。保険の授業は大体ビデオ鑑賞が多いじゃないですか、保険協会に言えば前頭葉の真性以外にもフィアネス・ゲージ氏の人生記録も借りられるかもしれませんよ。せっかくハーバードに実物の頭蓋骨があるんですから、写真でも説明できますよね」 「あ、ああ、そうだな・・・・そうしよう」 そういうと先生はどうしたものかと口をつぐんだ。そのさなかにフィアネス・ゲージって何だという言葉が漏れたことも僕は聞き逃さなかった。ありゃ、それを知らないでロボトミー手術を語ろうとしたんだ。よかった、先生が恥をかかないで。 「し、仕方がない、先生はちょっと席を外すがそのまま自習していなさい」 そういうと教材をまとめて慌てて教室を出て行く。しばらくして階段を豪快に転げる音が聞こえてきたのは、まあ愛嬌だと思う。 「自習、かぁ。この間の合同授業で教科書の一章分終わっているのに、何をしろって言うんだろうねぇ」 まあ自由時間だと思えばいいかな、僕はもう一度机に寄りかかる。いつもながらに朝は眠いねぇ。寝られるときに寝ないと、またあの大量の本と戦うことになるんだから。
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