都内のマンションのとある一室でのこと。
余計な物の一切無いシンプルな部屋には、室内の照明が仄かに点す程度。 後はパソコンから漏れる人工的な光だけだった。 室音は限りなく無音に近い状態で、聞こえるのはパソコンが放つ機械音、時計が刻む一定のリズム、それに室内にいる人間の吐息だけだった。
・・・カタカタカタ・・・ パソコンの前には一人の作家が居座っていた。 見開かれた両眼は画面から動かず、カーソルは点滅を繰り返しているだけ。 キーボードに置かれた指は、まるで動いていない。 手のひらにかいた汗は、指を伝ってキーボードを濡らしていた。
・・・カタカタカタ・・・ 「指・・・動いてないよ。」 作家の斜め後ろにあるベッドには背広姿の男が座っていた。 ネクタイは解け、髪はクシャクシャ。 目の下には黒ずんだクマができている。 「部屋暗くして・・・こうしたらいいアイデアが浮かんでくるっていうから」 そう言うと男は机に乗っていたミネラルウォーターを口に含んだ。
・・・ 思えばこの作家ほど悲惨な目に遭っている作家は、今現時点ではいないだろう。 一作目のヒットから一転、文章力の無さと当人のエログロ嗜好から来る独特の表現技法が仇となり、作品を出すごとに辛口批評の数は多くなる反面、売り上げは確実に落ち続けていた。 編集部はこの作家を切るか、方向転換で狙ってみるか2つの案でもめることとなった。 そして出た結論は、この次の一作で切るか否かを決めるという案にまとまった。 だが、この作家には元来の文章力がない。 行き詰まり、袋小路に惑いつつ、パソコンの前で悶え苦しむこの作家の姿もすでに一月。 未だに何も書けずにいる。 そしてここ3日は寝ることもせず、食事も口を付けるのみでパソコンの前に佇むだけだった。
・・・カタカタカタ・・・ こいつもよくやるよな・・・ 男は作家の後ろ姿に目を凝らしながら持っていたミネラルウォーターをまた一口飲んだ。 水が酷く温い。 この作家が喋ったのは、もう6時間前のことだ。 「・・・部屋の・・・明かりを・・・消してください。・・・何か・・・生まれそうなんです。・・・何かが・・・」 そう言った作家の顔は疲労による土色を通り越し、すでに青白く変色し、窪んだ目からはただならぬ光を発していた。 男は顔を引きつらせた。 ・・・幽霊 狼狽えた男の脳裏には瞬間その言葉が過ぎった。 この作家の顔はその表現が一番的を射ているように感じたのだ。 作家は再びパソコンの画面に吸い込まれるように体を元に戻した。 あれは・・・恐ろしかった・・・ 何となくコーヒーが飲みたい気分になってきた。
・・・カタカタカタ・・・ さっきからしているこの「カタカタカタ」という物音。 ・・・いったい何だろう。 目の前にいる作家の指は、キーボードを動くどころか押してもいない。 しかし、その音は確かに、目の前の作家の方から聞こえていた。 よく見ると、顎の辺りが小刻みに震えている。 歯の鳴らす音か。 男は薄い膜が張ったような視界の中、その光景をぼんやりと眺めていた。
・・・いつの間にか寝てしまっていたようだ。 男はベッドから身を起こし、作家の方に目を向けた。 キーボードの打つ音は相変わらず聞こえない。 ・・・これは・・・駄目だな・・・ 男はベッドを立ち上がった。 「・・・もう、・・・止めよう。」 男は作家の側に行く。 「もうどうにもならないよ。」 相変わらず作家の上半身は震えていた。 慰めの言葉でもと男は考えたが、今は何を言っても無駄なような気がした。 「ちょっとコーヒー買ってくるから。」 そう言い残すと男は、息詰まりしそうな部屋から出て行った。
男は部屋を出て自販機の前で、小銭を取り出した。 ・・・思えば、アイツとも付き合い長かったな。 作家がデビューして以来ずっと編集者として接してきた。 プライベートでも色々とサポートした。 ・・・長かったな・・・ 男はコーヒーを2つ持って部屋に戻っていった。
作家は相変わらずパソコンに向かったまま、動かぬまま。 男は、コーヒーを机に置くと自分の分を飲み始めた。 「・・・色々・・・あったな・・・」 作家はまだパソコンに向かっている。 男はふと思ったことを口に出した。 「・・・なんでこんなにまでして作家にしがみつく・・・」 男ははっとした。 こんなことを今訊くのは、あまりにも無神経すぎだ。 今ここで一番言ってはいけないことかもしれない。 男は気を取り直して、違う話題でも振った。 「・・・そういえば、前行った旅行楽しかったな。」 作家は何も語らない。 男はその後努めて明るく、2,3度言葉を口にしたが、作家は椅子に座ったまま、身動き一つしなかった。
・・・こいつは様子が変だ。 男は自分の心に恐怖が芽生え始めていることに気づいた。 座っている作家の後ろ姿からは、もう異様だった空気が消えていた。 そして、人としての暖かみさえも失われているように感じた。 ・・・そういえば さっきまでしていた「・・・カタカタカタ・・・」という音。 いつ頃からか聞こえていなかったような気がする。 男は作家の後ろ姿をしばらく見続けていた。 やがて決心したのか、男は重い腰を上げ、作家の元へ歩み寄った。
・・・やはり・・・か・・・ 作家は椅子に座ったままの状態で亡くなっていた。 見開いていた目は、静かに閉じられ、小刻みに震えていた口元は閉じられたままになっていた。 「・・・ふー」 男はため息をついた。 ・・・これはどうしよう・・・ ふと、パソコンの画面に目が行った。 画面にはしっかりとした量の文章が載っている。 男はマウスを手に取り、文章を読み始めた。
「○○○○の遺作、初の恋愛小説・・・10万部突破」 覗いた書店でそう書いてある作家の本が平積みされている。 男はその本を一つ手に取りレジの前に立った。 あの時パソコンに書かれていたことは、今でもはっきりと覚えている。 作家・・・留香がパソコンに打ち込んでいた文章は、小説という代物ではなかった。 心に感じていたことをそのままに、ただ打ち込んでいたに過ぎなかった。 しかし、その気持ちは男には伝わっていた。 男がその後2日掛けてまとめた文章は、今こうして書店で売られている。 彼女の遺作として。 ただ、心の中に残った彼女の気持ちと自分の気持ちはこの本の中には書かれていない。 それは留香が心の中に秘めていた恋と、それに気づかなかった馬鹿な自分。 そして、気づいて初めて感じた留香への愛情の始まり。
|
|