「ギリシアの彫刻家のリーデルスと申します。今日は本当にこのような美しい月夜の元、我々を招待して頂き光栄です、ポアロ氏。では、ポアロ氏の挙げる美の最高傑作について私の考えを語りたいと思います。失礼ながら、ポアロ氏の言うことには矛盾が存在すると思います。今ここに来られている芸術家の皆さんは、少なくとも自分自身の中に確固とした芸術性を持っていると思います。つまり、個人個人がある作品を鑑賞しあうのに、各々の観念はまったく別のところに存在していて、同じ観念でその作品を鑑賞し、同じ感動を味わうことなどまず不可能なのです。人というものは一人一人が別々の感性の中で世の中に接している限り、完全なる最高の芸術作品というものは生まれることは無いと思うのですがいかがでしょう。」 リーデルスは言葉を切ると、月を見上げるように静かに席についた。再び、全員の目がポアロに向けられる。ポアロは目を閉じていた。彫りが深い顔立ちのため、月光が窪みに影を落とす。それが一層ポアロの感情を判りにくくしていた。 「リーデルス氏、貴重な意見を有難う御座います。」低く何処か海の静けさにも感じる声が部屋全体に響き渡った。「確かにリーデルス氏の言う通り、各々の中に潜んでいる感性は絶対的な美の完成には邪魔である。ということを私も感じていた。ラファエロ、レンブラント、ダヴィンチ、他にも諸々の芸術家が最高の美を追求し、絵画、彫刻、音楽と様々の表現方法で立ち向かって行ったが、未だかつてその境地にたどり着いたものは誰もいない。」そこでポアロは水を一口含んだ。「見ての通り、この宮殿は私の生涯の中で最高傑作と呼ぶに相応しい宮殿だと思うが、皆さんどう思うかね。」この質問には皆納得している様子だった。自分の感性を揺るがしてしまうほど、良く整えられた素晴らしい作品であることは間違いない。しかし、この宮殿もまた、自分が追い求める理想の美とは違うところにあった。「この宮殿を建てたのがちょうど1年前。私はこれこそ自分が追い求めていた美の傑作であると固く信じていた。また人々にとっても同じように感じてくれると。」 ポアロの瞳は自らが作る影で見えなかったが、暗い影を落としたように感じた。「しかし人々にとってはそうではなかった。私がそう感じてしまったのは、わが愛しき息子イリアスがこの宮殿に目もくれず、何処かの玩具屋が作ってきたただの木製の玩具に熱中している様子を眺めたときだった。」 誰もがテーブルを囲んで押し黙り、ポアロの話に耳を傾けている。本来なら笑い飛ばすところだが、ポアロの得も知れぬ迫力が私たちの口を閉ざす。「私はそこで一つ結論を出した。」誰かが喉を鳴らしたような気がする。世界が今ここを中心に動いているようだ。ポアロも同じように感じているのだろうか。ポアロを見ると何かを堪えているようだった。口元には苦しい笑みが浮かんでいる。頭を上げるとポアロは言い放った。 「世界を司る万事全てのものに美というものは存在する。」確かにその通りだ。究極の美をいくら求めようとも結局は、自分自身にとっての最高傑作でしかならない。悪く言えば独り善がりだということだ。ポアロはテーブルに手を伸ばし、コップに入っていた水をすべて飲み干した。その後にポアロが言った言葉は今でも忘れることができない。その言葉を言い放った直後のポアロは、暗く苦しく舌を噛み締めるような苦悶の表情をしていたような気がする。 「しかし私は我慢がならなかった。」 そう言うとポアロは持っていたコップを床に叩きつけた。ガラスの割れる音が部屋に木霊し、テーブルを囲んでいた芸術家たちは体を引き攣らしていた。誰もが感じていた。このポアロという男は芸術に潜む悪魔に取り付かれてしまったただの操り人形であると。そしてこの先には芸術という名を借りたとてつもなく危険な罠が我々を待っていると。しかし誰もがその場を動くことができなかった。例えこの身が滅んだとしても、最後にこの男が編み出したという究極の美というものをこの眼に焼き付けてみたい。どんな形でも究極の美というものを表現したというその甘い罠を味わってみたいと。ここにも芸術という名に憧れた愚者がいたのだ。誰も席を立たないことをポアロは確認すると、口元に笑みを浮かべ、こう言った。 「皆さん、僕がすることをお見通しのようですね。しかし誰も席を立たない・・・皆さんが本物の芸術家で良かった。」そう言うとポアロは手元にあるワインを一本取り出し、皆のグラスにワインを注いでいった。最後に自分自身のグラスを用意しそこにワインを注ぐとポアロは、グラスを高々と上げ、こう言った。 「皆さん、私はあとから皆さんが今から体験する究極の美を味わいたいと思います。でも、今私は皆さんと共に乾杯したい。」ポアロの乾杯に皆一斉にグラスを掲げた。その様子は愚かであったが同時に美しくもあった。
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