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悲しいことがあった日は。 作者:藤本麻衣子

最終回   1
 サクラさんの部屋はいま時珍しいたたみ張りで、とろとろと眠そうな光ばかりが差し込んでくる。朝日が拝める東向きの部屋で午前中はうだるような暑さらしいけれど、私が訪れるのはいつだって午後なので、やわらかいお湯のような光しかしらない。
 サクラさんは切れ長の目をふとこちら――玄関に突っ立っている私――に向けて、めんどくさそうに立ち上がる。いつだって取り出すのは赤い包みのティーバッグで、本当はコーヒー党なのだけれど「面倒だから」と言って私と一緒にミルクティーを飲む。
 サクラさんはずっとずっと年上で、本当はかなり年下だ。茶色の混じった鏡みたいにまっすぐな髪を背中の途中まで伸ばしていて、動くたびさらさらとゆれる。細い体に生成りのカットソーとジーンズを合わせていて、金色の小さなロケットが首にかけられている。
「それ、なあに?」って前にきいたら、口元で微笑んだだけで何も教えてくれなかった。私も、もうきかなかった。
サクラさんの部屋にはチョコチップクッキーが常備されていて、お湯を沸かしている間一つ一つ包みを取ってはお皿に並べていく。白木のちゃぶ台はクッキーも西洋のお皿も受け入れて、それでも下には座布団を敷くことを強要する。
私はほろ布に包まれた座布団に座って、ピンク色のビーズクッションを抱きしめる。クッションはマシュマロみたいにふわふわで、とても不安定だ。きつくきつく抱きしめないと、その存在をつかみきれない。
こと。
サクラさんが私の前にマグカップを置いた。クッキーのお皿と自分のマグカップを持って、私の斜め前に座る。
紅茶を少しと、たっぷりのミルク。サクラさんはブラック派なのに紅茶が本当に苦手で、ミルクティーと言うより紅茶風味のミルクといったほうがいいようなものを飲む。クッキーがあるから、お砂糖はいれない。
ミルクティーを一口飲むと、全身から疲れが抜けるような気がした。冷たいミルクで冷まされた紅茶が心地いい温度になっている。
熱すぎる飲み物はのどのあたりだけ集中的に温めて、胃へと流れる。その間胸元を内側からなぞられているような気になって、悪寒が走る。
私はクッキーを取って、口に入れた。しっとりとした歯ざわりといっしょに、チョコレートの味が下の上に広がっていく。
甘いものは、どうして心にしみこんでくるのだろう。いつのまにか、私はぽろぽろと泣き出していた。一粒こぼれると後はもう止められなくて、涙で視界が何度もゆがんだ。温かいマグカップの中にも、ビーズクッションの上にも、私の雫がいくつも落ちた。ああ、しょっぱくなっちゃうな。頭の片隅で冷静にそんなことを考えながら、涙の止まらない私は黙々とクッキーを食べるサクラさんを見ていた。

 私が泣きやんだ頃にはクッキーはもうなくなっていて、サクラさんはマグカップとお皿を洗って片付けていた。なき疲れた私はビーズクッションを抱えたまま横になって、午後の光の中でうつらうつらしていた。
 コーヒーを仕掛けたサクラさんは私の顔をのぞきこむと、何かつぶやいて薄いふとんを取ってきた。世話が焼けるとか、なんとか。そう言った気がした。
 ほおをなでる風はとても気持ちよくて、時計の針はかめのようにゆるゆると進んでいて、私は座布団に頭を乗せたままぼんやりのどかな気分に浸っていた。
 ただ癒すために流れていく時間。
 強制されるものなんて何もない開放感。
 ――生身では味わえなかった、感覚。

 サクラさんは、気づいているんだろうか。
 私が、幽霊に近いものだってことに。
 背中についた、一対の白い翼に。

 この空の果てを飛んでいても、悲しいことは降り積もって、泣き出したいのに涙が出なくて。だから心の滓がたまって、何も感じなくなってしまう。
 そんな時、私は気がつくとサクラさんの部屋の玄関にいて、サクラさんはめんどくさそうに立ち上がる。いつだって取り出すのは赤い包みのティーバッグで、本当はコーヒー党なのだけれど「面倒だから」と言って私と一緒にミルクティーを飲む。
 サクラさんは何もきかない。慰めもしない。ただミルクをたくさん入れた紅茶とほとんど自分で食べてしまうチョコチップクッキーを出して、私が一人泣いているのを黙って受け入れてくれる。
 サクラさんの部屋はいま時珍しいたたみ張りで、とろとろと眠そうな光ばかりが差し込んでくる。ほおをなでる風はとても気持ちよくて、時計の針はかめのようにゆるゆると進んでいて、泣き疲れた私は座布団に頭を乗せたままぼんやりのどかな気分に浸る。
 ただ癒すために流れていく時間。
 強制されるものなんて何もない開放感。
 誰もが、生身の間に手に入れる感覚。
 ――たたんだ翼を傷めないように、私はうつ伏せに寝返りを打った。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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