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真樹の短編集 作者:真樹

最終回   モーニング
モーニング

失恋で傷ついているはずなのに人間ってまた新しい恋に目覚めてしまうなんて、自分でもその気持ちの変化に戸惑っている。

 登場人物
 失恋した女
 喫茶店のマスター

  別れは急にやってきた。今朝、彼から電話があり、昨日デートしたばかりなのに、それは別れの言葉だった。これからオーストラリアに転勤すると言うのだ。まったくの寝耳に水の言葉だ。それも、3年間戻ってこないと言う。
「待っている」と、言うわたしに彼は3年間のうちに新しい恋だってできる。3年間誰とも浮気せずにいられないと言う。公然と浮気宣言して彼は電話を切った。
 彼の正直な気持ちなのだろうが、あまりにも突然で一方的な言い分に腹が立ってきた。 そんな事を思い出しながら、家を飛び出し、どこをどう歩いたのか、電車に乗ったりバスに飛び乗ったりとあてもなく歩いた。朝の出来事だ。朝食もとらずに家を飛び出したので空腹を思い出し、ふと目にとまったおしゃれな喫茶店に入りモーニングセットを注文した。トーストと卵焼きは三種類の焼き方から選べる。今朝の注文は半熟の目玉焼き。
 喫茶店は少し薄暗く土壁が冷りとしている。 蔦の飾り物やすすけたランタンなど雰囲気は凄く落ち着いている。テーブルの上にはまだ氷の入った水のコップと熱々の御絞りが置いてあるだけだ。
 手で持つこともできなそうな御絞りを目に当てた。凄く気持ちがよくてため息がでる。
「こんちくしょう…」
 小さく言った。
 ついでに涙が零れてくる。
 なんでこんな目にあわなけりゃならないの。 彼との数年間の記憶を思い起こしながら、今の自分の気持ちを整理していた。
「すみません。サイフォンを置きますのでよろしいでしょうか」
 それは、モーニングのコーヒーをサイフォンで入れてくれるサービスだ。
 ガラスのサイフォンにすでに熱せられているお湯が入っている。その下に可愛らしいアルコールランプが置かれ、ガラスの蓋が取られるとマスターの手で火が点けられ緑色の炎が輝きだした。
「沸騰したらサイフォンを入れますから少々お待ちください」と、マスターはカウンターに戻っていった。
 フラスコの中に無数の気泡が付き始めそれが次第に大きな泡となって浮かびあがってくる。それを見ていると心の中が空っぽになっていく、ボコボコと沸騰しだすとマスターはコーヒーミルでコーヒー豆を引き出した。
 店内中にその香りが溢れ出し心を落ち着かせる。コーヒーの香りは魔法の香り。嫌な事をみんなわすれさせてくれるから。外国へ行ってしまうと言う彼は今頃、成田空港に向かっているのだろう。そして取り残された自分。計画していた将来設計が皆台無しとなってしまった今、彼を見送りに行く事さえ許されないのだ。
 婚約破棄、結婚資金を貯め退職してしまっている。自分のキャリアもせっかく起動に乗ってきた仕事もみな失ってしまったのだ。
 また、一からやり直せというのだろうが、そう容易い事じゃない。
 テーブルの上には沸騰したフラスコに引き立てのコーヒー豆の入ったサイフォンが乗せられた。沸騰したお湯がガラスの筒を上り出しコーヒー豆を押し上げていく、マスターは竹ヘラを使ってその場でお湯とコーヒー豆を混ぜ合わせると、砂時計をコトリと目の前に置きまたテーブルを離れた。
 確かに香りも良く美味しいコーヒーなのだろうけど、どうしてこうも手間の掛かることをするのだろうと、ふと、不思議に思った。「コーヒーをひとつ飲むのにもなんでここまでまたなきゃならないのだろう」
 砂時計の砂が一粒一粒零れ落ちていく。
 それはほんの一時のことなのだろうが、長い月日が流れているようにも思える時間だ。 約一分ほどの時の流れなのになんて永く感じるのだろう。それに比べて彼と付き合った3年間の短かった事。時間をかけて付き合ってきたのに、何が残ったのだろうか、何も残っていないじゃないか。
 新しい恋が生まれるのか生まれないのかそれは分らないけど、それを、思い出として誰と分かち合えると言うのだろう。
 新しくできた彼に元彼の事を話せるはずもない。なら、一人っきりで心の中に残しておくしかないのだろう。
 砂粒の一個が落ちた頃、マスターはガラスの蓋を素早くアルコールランプにかぶせると、コーヒーはフラスコの中に一気に逆流していく。スーっと戻っていき最後には大きな音をたてながら、ボコボコボコと空気がガラスの筒からコーヒーの中に大きな気泡を立てた。
 心の中のモヤモヤもみんなその泡と一緒に出て行ったようだ。
 サイホンをはずして中のコーヒーの空をタバコの灰皿の中に入れてくれた。
「ありがとう」
「ごゆっくりとどうぞ」
 コーヒーのコップはお湯で温めてあったらしく、湯気が立っている。コーヒーソーサーの上に底を上にして乗せてあるコーヒーカップは可愛らしい。このカップに何杯でもおかわりができそうなくらいコーヒーはフラスコの中になみなみと入っている。
 タバコの紫の煙はひっそしとした店内の天井に消えていく。
 カップの中にコーヒーーをつぎ込んだ頃、ちゃんと、半熟の目玉焼きと熱々のこんがり焼かれたトースト二枚が届いた。
 バターとジャム、マーマレードなどの入れられた容器は品があって、おしゃれだ。
 近頃では、こんなおしゃれな喫茶店は無い。 みんな紙コップであっさりとモーニングコーヒーなどは終わらせてしまうのだ。こんなに時間と手間暇をかけてモーニングコーヒーをいただくなんてしなくなってしまったのだ。このお店だって、自分以外にお客なんて誰もいない。コーヒーとトーストと目玉焼きこれだけで、千円くらいだ。でも、この時間と空間を提供してくれるのにそれだけの料金ですむのだと思うと安い買い物なのじゃないかと思うのはわたしだけなのだろう。
「ねー、マスター。このお店っていつからあるの」
「いつからでしょう」
 愛想のないマスターに話をかけたのは間違えだったようだ。
 お店の時計は大きな古時計。時を刻むのも大仕事のようにカチカチと大変そうだ。振り子も大きく窓も磨かれていていぶかしく輝いている。時計版の針も大げさで今の時刻を強調している。
「十一時、二十三分。これはもうモーニングじゃないわね」
 その時間は彼が成田空港からオーストラリアへ旅立つ時刻でもあった。
 小さな声で、彼に別れを告げた。
「さよなら、わたしの思い出」
 時間の止まっている空間で彼に別れを告げた。それは、コーヒーを一杯飲む間の事だ。
 夢や幻は、一杯のコーヒーと等しいのだ。
 何もかも無くしてしまった女に残された一杯のコーヒーカップ。
 薄暗の店内から外の景色が輝いている。
 その光の中に誰かがいるようだ。
 まだ、あったことの無い人だ。
 逆光でシルエットしか見えないが男性であることはわかった。
 眩しくて手でサンバイザーを作って、その人影を見ていた。
 その彼がこちらを見ているように見えた。
 なぜか、胸のあたりがキュンとなる。
 鼓動が早くなり、何かの運命を感じるのだった。
 遅い朝食。早いブランチ。
 とにかく、痛めつけられた心を癒すために、たっぷりと時間をかけた朝食をお昼までかけて食べていたわけである。
 彼は自分とは一番離れた場所のテーブルについた。なぜか、避けられているようにも思えたが、今日のところは気にせずに料金を払って店を後にする事にした。
「あのー、どこかでお会いしましたっけ」
 彼が声をかけてきた。会ったことは無いはずである。この喫茶店に来たのも初めてだし、彼のことを知る由も無い。
 でも、どこかで会ったことのある人みたいだ。
「お住まいはどちらでしょう」
「えっ、ちょっとそんな事」
「あっ、失礼しました。僕は、このマンションに住んでいるんです」
 喫茶店はマンションの1階部分にあり、その上は集合住宅になっていて、彼は同じマンションの住人だと思ったのだった。
「いいえ、わたしは二三駅隣町に住んでいるんです」
「明菜ちゃん?そう」
「なんで名前を知って…翔ちゃん?」
「そうだよ。浜野翔だよ。三田明菜ちゃんだよね」
「なんて、偶然なの」
 幼い頃、引っ越して行ったお隣さんの翔ちゃんが、初めて入った喫茶店の上のマンションに住んでいた。それも、永い永い時間をかけて食べていたモーニングセットのために出会う事ができたのだ。
 あっと言う間に出された食べるためだけのトーストセットだったら、彼に会う事は無かっただろう。この店に入ったのも偶然じゃなかったのかもしれない。
 そのまま、彼のテーブルに席を移して、居心地のいい喫茶店に半日以上いる事となるのだった。
 そして今、彼の部屋に案内されている。
 彼はご両親と一緒に住んでいた。
 もちろん、独身で彼女もいない。
「いるわけないでしょう。あなたのことが忘れられ無くってずっと思い続けていたんだもの」と、彼のお母さんに言われた。
 ずっと、子供の頃から自分を思い続けていてくれた人がいた。
 3年間海外で暮らすと別れを告げられたばかりだというのに、十数年間も思い続けていた人がいたなんて、明菜は感動してしまった。

(おわり)

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Novel Editor by BS CGI Rental
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