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抱きしめたい 作者:真樹

最終回   抱きしめたい(4)
抱きしめたい(4)

その後も客は騒ぎ続け、警察の厄介になる事となったようだ。珠音が心配そうに顔を覗き込んできた。
「怪我はしてない」
「ちょっと、口の中を切ったみたい」
確かに口から血が出ていた。
「まぁー」
珠音はハンカチを取り出し、一也の口を拭いた。
「わたしのせいで、ごめんなさい」と、珠音は謝った。
「いいんだ。珠音さんがあのお客と出ていったら、僕は珠音さんを軽蔑することになったと思う」
「えっ、わたしがそんな事する女だと思っていたの」
「そうじゃないけど、初めての夜の宴会の時の事を想い出してそう思ったんだ」
「わたしがお酌をした時のことね」
「なんで、僕にお酌をしてくれたんだろう」
「あなたが、何かを思いつめていたみたいだったから……」

確かに思いつめていた。人生に疲れ切っていた。でも、ここに来て人間の本当の姿を見たような気がする。なぜだか、芸者衆と一緒に行動するようになってから、世の中の裏表が見えて来たと感じるようになっていたのだ。

『負け犬の遠吠え』かもしれない。結婚もせずに、貯蓄ばかり増やし、大学卒業から就職し、朝から晩まで寝る暇を惜しんで働き続けてきた。見渡せば取り残されてきた。女子社員とのロマンスの噂どころかまともの目をあわすことも無く、付き合いの悪い自分がみんなから変わり者扱いされていた事は知っていた。ようするに、自分の会社員時代は人間の生きる道では無かった。成績を追うために、お得意さんを口でごまかし、無責任な商談をし、会社発展の悪行を重ねただけでは無かっただろうか。

それから、もう一つ分った事がある。そんな自分をすごい人間だと信じていたと言うこと。自分をエリートだと信じていた。大企業に勤めそれなりの地位について働いていた。同期の出世頭と言われいい気になっていた。何のことはない。それらはみんな、くだらない自分のプライドのために虚像を作り上げていたに違いない。企業で働いていた数十年間を振り返ってみて、何が残っていると言うのだろう。会社を辞めてしまった今、手元に残ったのは預金手帳の残高の数字だけではないか。趣味も無い。ギャンブルも酒もタバコも……。まして、浮いた話など、微塵も無かった。

先ほど自動販売機で買ったタバコの箱を取り出して眺めている。大学時代に無理矢理吸わされ、むせってから、絶対に吸わないと決めたタバコだ。ハードボックスの封を切り中の銀紙を解いて、タバコを口に咥えた。苦味のあるタバコの臭い匂いが鼻につく。禁断の香りとでも言うのだろうか。ジッポライターも買い揃え、重い蓋を親指を使って押し開けると、カシャと重厚な音が、新しい門出を祝っているように鳴り響いた。

ベンジンの匂いもいい香りとは思えない。火を点けるとメラメラと燃え上がる炎が、心をときめかせ何か別世界へと誘っているような錯覚に陥っていた。ゆっくりと、咥えたタバコに火を近づけていく。珠音の休日に自分の生まれた場所を見に行くと約束をし、今、珠音の指定した水上バス乗り場の待合室に来ていた。大きな窓ガラスの向こうに珠音の姿が見え、溢れる笑顔で手を振っている。指名ナンバーワンの売れっ子芸者さんの珠音だ。

お座敷で見る珠音とはまるで別人の普通のお嬢さん。しかし、自分が負け犬と呼ばれた事が昔の事のように自分にも彼女ができたように思えた。付き合って欲しいと言ったわけでもないが、でもデートをしている気分だ。

「きっと、付き合って欲しいと告白しよう」
それが、一也の今回の目的だ。珠音が入り口から入って来て隣に並んでベンチに腰掛ける。さきほどからの続きでタバコに火を点け煙が器官に流れ込んできた。タバコは珠音に取り上げられたが、それからがいけない。むせって咳き込んでしまった。涙目で隣の珠音を見ると、美味そうにタバコを吸っている。むせかえった目で、それを見ていた。

「珠音ちゃんって、タバコ吸うんだ」
「ええ、ヘビースモーカーなのよ」と、笑う。
自分が世間知らずなのだろう。タバコを吸う女性は大変増えている。女がタバコを吸わないというのは過去になりつつあった。

「でも、水上バスで行くなんてよく考えたね」
「昔は、あたりまえの事だったわ。10年、20年前までは、漁師の沢山いる場所で浦安の漁師達もよく出入りしていたのよ」
「えっ、珠音ちゃんって年いくつ?」
「女性にそんな事聞いちゃ駄目だわ。一也さんより年上かもよ」

情報は留さんから聞いていたから、そこら辺はそっとしておくことにした。それにしても謎の多い女性だ。いっきにいろいろな事を聞く事もできないから、どこで、生まれてどこで育って、いくつなのか位は聞き出したかった。
「着いたわよ。乗りましょう」

陸のバス同様、水上バスは停泊した。タンクトップと白のGパンの珠音は若さが光っている。ムチムチしたお尻に胸の鼓動を早めながら、後を追う。船着き場と言うよりは、駅のホームのような感覚がある。チケットを渡し席に着くと、窓の外は水面ギリギリだ。水上バスの定員は50名。ゆっくりと波に乗り羽田沖へ出発して行く。

「東京を東京湾側から見るのって初めてだ」
「うふふ、東京の再発見ね」
それ以上にビックリしたのは、東京湾で漁をしている人が沢山いる事だ。ヘドロで汚れた東京湾だと思っていたが、人々の生活の匂いがプンプンしてくる。羽田に着陸する機体を間近で見て、感動した。高層ビル街も東京湾から見るとまた違ったように見えた。

「あれが、僕が働いていたところ」
「どう、自分の働いていた場所を違った角度から見てどう感じる」
「同じだって思う」
「何と?」
「漁師さんや、珠音さん達芸子さんと、オフィスで働く会社員もみんな働くと言う事に違いなんか無いって」
「そうね。エリート意識を持っている人たちって、井の中の蛙よね」
「まったくその通りだよ。なんでそんな事に気が付かなかったんだろう」
「うふっ、一也さんも井戸の中にいたって事ね。今、井戸の外から見ているって訳なのよ」

感動している。あの中でもがいていた自分が見えてきた。そうだ。今なら言える。
「珠音さん。僕と付き合ってください」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
そう、神妙に珠音は言った。夢のような一時だ。一也は、もう一つ理解した。彼女を作る
事は、自分を見つめなおすところから始まることを。

海風は潮の香りがする。東京湾は埋め立てが続けられていて、浦安には東京ディズニーランドが建設中。お台場や、海浜公園なども、ガランとした埋め立て地だ。現在では、レインボーブリッジがかかっている。水上バスは羽田空港を左手に見て水路に向かって行く。
あれは、浜松町だろう。東京港の手前から入り江に向かう。東京湾にもカモメが飛んでいるのだなと、感心する。ビルの谷間にぽっかりと明いた空は小さく、その空は真っ青だ。
真っ黒のビル郡とは対照的にその部分だけはリゾートの空の色だ。岸が目前に近づいて来た。どこに停泊するのだろうか、見慣れた都会の風景が水上からだと別世界のようだ。川に入っていく。晴海埠頭、お台場、夢の島、はっきりとどこがどこなのかは見当がつかない。入り江から水上バスは川をさかのぼって入っていく。頭上は、橋が幾重にも重なり、車や電車が綱なっている。低い位置の橋が見えてきた。小名木川橋と欄干に書かれているのが見えた。それを潜ると、水上バスは停泊した。珠音の手を取り、船から陸に上がると、近代的なスポーツクラブの前だ。自分の記憶にはまったくない。よく遊びに行った丸太の上を歩いていた人たちが沢山いたのは辺だったのだろうか。見渡しても大きなビルは無かった。今はビルの谷間になっている。東京港と錦糸町の間あたりに住んでいたと思う。
珠音を連れて歩き出した。平井、門前仲町、水天宮、などの標識がある。フェンス越しに見た、ずーと続いていた空き地は、夢の島だったのだろうか。

「みんなの夢が埋まっているのよ」と、母に聞いた覚えがある。
海辺町はこの辺じゃないだろうか。珠音は、通行人に聞いてみることにした。
「あのー、海辺町って知ってます」
「ああ、この辺が海辺町なんだよ」
2人でぐるりと見渡した。そこは、下町の風景が広がっている。
「昔はね。海辺町って言うと大きかったんだけど、今じゃ、ほんの一部が残っているだけなんだよ」
「あっ、一也さん。あれ」と、珠音が指差す。
一目に付き添うも無い変電施設と植え込みの間の窪地に標識が立っている。
「海辺」と書いてある。
どこが、海辺なのだろうかと思うほどの内陸だ。江戸時代に埋め立てられた清澄、白河、扇橋あたりまで海辺町と呼ばれていた。今の深川地区がそれに代わっている。小さな頃の事で、それほどの記憶も無い。住んでいた場所の前はくず鉄屋さん。そのくず鉄屋さんでよく遊んでもらった。通りの一番角に同じ年の男の子がいてよく遊んだ。でも、想い出すのは、遊んでもらえなかった時の事ばかりで、仲良く遊んだ覚えはあまりない。

我が家の前は舗装されていなくて、道に穴を掘ってそこでゴミを燃やしていた。今の東京都内で考えられない事だが、土はまだあちこちに存在した。我が家には、外風呂があり波トタンで建てたほったて小屋ではあるが、当時、内風呂を持っている人も少なく、近所の人が入りに来たものだった。固形石鹸で頭も洗う。シャンプーなどが登場したのは、小学校に入ってからだ。角には材木屋さんで、通りの向かい側にパン屋さん。その隣は駄菓子屋さんで、少年サンデーが創刊された年の事、定価が40円だった。薄い本だった。

通りのまた向こうに大通りがあり、そこにはパチンコ屋さんが開店し、チンドン屋さんが練り歩き、それを、おっかけて迷子になった。もんじゃ焼き屋さんや、ソース菓子屋さん。石焼き芋屋さんに、金魚と風鈴屋さん。紙芝居屋さんも来た。

我が家からどっちに向かうのか覚えていないが、大きな公園があった。それが、小名木公園だったのかは記憶に無い。自転車で連れて行かれた錦糸町駅には汽車が沢山停車していて、真っ黒な煙を吐き出していた。線路には土手を登ると行けて、土手の向うに東京タワーが聳え立っていた。怪傑ハリマオや少年ジェットなどが白黒で放映されていたのだ。

珠音さんと、そんな事を話ながら町をぶらついていた。
「ねぇー、ここって車の通りが少ないわ」
「東京って、路地に一つ入り込むと一方通行、一方通行で、どうにもならなくなるんだ。
だから、車は大通りから抜け道を通ることはできないんだ。万一入り込んでくるのは迷ってしまった人だろうね」
「あはは、あたしたちみたいだわ」
区画整理された町に自分の生まれた場所の面影は無かった。路地に入り込んだ。そこは、また別世界だ。手を広げたら隣と隣の玄関に手がとどいてしまいそうなくらいの狭さだ。
縁台将棋をしているおじいさんもいる。道にチョークで絵を描いている子供。立ち話の奥さん達。タイムスリップしてしまったような景色だ。

「ねーねーこれ見て」と、珠音が言う。

それは、家の土台だ。新しい土台の下に古い土台がある。その下にまだ古い土台が隠されている。

「家を建て替える度に土台の上に土台を作ったようだ」
「これよ。これ」
「そこには、色の違いがくっきりとしるされた何かが残っていた」
縁台で将棋をしている老人が言う。
「それは、水が出た時のなごりだよ」
「そうそう、そこまで、水にしたされたって事なんだ」
「ここらは、海抜が低いからね。ちょくちょく水が出たもんなんだよ」
「元はといえば、すぐそこまで海だったんだからね」
「海辺町だったんでしょう」
「今も海辺だけどね。もう、昔のなごりのあるのはここだけだよ」
「実は、僕は海辺町で生まれたんです」
「へー。産婆さんなんかもう誰も残っていないぞ」
「そりゃーそうだ。昭和の30年代でいなくなったな」
「もう、20年も前の事さ」
「東京の10年は田舎の30年以上に相当するんじゃないだろうか」
「って事は、もう60年以上もたったのと同じって事になるんですね」
「俺たち生き証人がまだのさばっているがね」と、老人たちは笑った。

帰りに富岡八幡宮や清澄庭園、芭蕉庵や水天宮などを見て、水上バスに乗船し珠音の住む町、扇町に戻る事にした。東京の下町はまだまだ人情が溢れている。初めて出会う人々だったが、昔からずっと知っていたよう錯覚する。縁台将棋に路地裏。なんだか懐かしい光景だ。自分のルーツを見てここが出発点だったんだって思えた。

「ねー、どうだった」
「なにが?」
「自分の生まれた場所を見て、何か変わったことある」
「そうだな。僕もあの町の生き証人の一人だって事かな」
「生き証人?」
「僕がいなくなったら、あの町の昔話をできる人がまた一人いなくなるって事かもしれない」
「そうね。一也さんにとってあの町は生まれ故郷なんですものね。都会と言う水に飲み込まれ水没した村のようだわ」

ネオンに輝く東京湾を見ながら潮風に吹かれ、二人は肩を抱き寄せあった。

「珠音さん。僕と付き合ってくれませんか」
「わたしなんかでよかったら……」
「いいんですね。良かった」

一也は、ほっとした。そして、ふたりは抱きしめ合った。そして、唇を重ねていた。珠音の胸の膨らみと腰のまろやかさを味わいながら、船はゆっくりと波間を漂うようにゆっくりと進んでいく。

三味の音を聞きながら、舞台袖で珠音たち桔梗屋の芸者たちの舞を見物している。珠音の黄色い着物は一段と目立ち舞台の中央で舞う一輪の花を思わせる。珠音にいろいろの事を聞いたけど、珠音は何も語らない。自分の生い立ちや、建築会社を経営していると言う自宅の事なども、何も教えて貰っていない。珠音にしてみたら、もう、捨てた過去の事なのだろう。ご両親や兄弟は心配していないのだろうか。もし、珠音と結婚するとしたら、やっぱり親類も気になる。

ちょっと、飛躍しすぎる事を模索しながら、見物していた。町で建てられたホールで芸者衆の本格的な舞を見ることができると、芸者会館は連日満員だ。おかげさまで、一也の仕事は大忙しとなり、早朝から深夜まで文句も言わず働き続ける一也だった。

お座敷芸などは庶民の見るものではない雲の上のことのように感じていたが、このホールのおかげでみんなで楽しむことができるようになった。あの関西弁のおばちゃんもちょくちょく足を運んでくる。ホームページなども作って、芸者会館は大盛況になっていた。

「珠音さんって本当に可愛いね」
そう声を掛けてきたのは、留蔵さんだ。
「なんだ、留蔵さん。お目当ては鶴穂姐さんでしょう。珠音さんを狙ったら承知しないよ」
「かっちゃん。それはないだろう。俺が何か悪いことを企んでいるようないいかたしないでくれよ」
「鶴穂姐さんをよく連れ込んでいるじゃないですか」
「待ってくれよ。ずいぶな言い様だな」
「芸者さんたちは、遊女じゃないんですから当たり前です」
「かっちゃん。よしてくれよ。珠ちゃんといい仲なのはそっちの方だろう。もう、行くところまでいっちゃってんでしょう。できちゃった結婚なんて、止めてくれよな。珠ちゃんは、人気者なんだし、お腹が大きくなっちゃ、この芸者会館だって大打撃だ」
「止めてくださいよ。そんな言い方は、僕たちは、ちゃんとした交際です」
「それじゃ、俺たちはちゃんとしていないとでも言うのかよ」
「その通りですよ。留さんがそんな人だなんて、見損ないました」
「なにかい。鶴穂ちゃんと俺とじゃ、合わないって事かい」
「そうですよ。留蔵さんは、体だけが目当てなんでしょう」
「じょ、冗談じゃないよ。鶴穂ちゃんに指一本触れてねーよ」
「う、嘘でしょう。宴会の後、二人してどこかに行ったじゃないですか」
「置屋まで送って行っただけだ」
「それに、次の日、朝帰りしたでしょう」
「馬鹿こけ、早起きしたんだ」

なんだか混乱してきた。留蔵はてっきり芸子さんといい仲になって、どこかのラブホテルに行って朝までチョメチョメしていたのだと思っていた。だから、珠音と付き合うのにも慎重になったのだ。ところが、留蔵は違うと言う実に混乱している。

「それにな、そんな目的だったら芸者さんじゃなくてな。キャバレーに連れてかー」
「キャバレー……ですか」
「俺は芸の無い女はただの肉の塊にしか見えないたちでね。キャバレーのホステス相手なら目がまっ黄色になるまで、腰を使ってやるってもんだ」
「ふーん。そんなもんですか」
「つまらんことで悩んでないで、舞台を見ようじゃないかい」

舞台ではちゃっきり節を踊っていた。早代わりで、黄色の着物から赤と薄紅色の茶摘みのいでたちで軽快に踊る。珠音の黄色い着物も綺麗だったが、茶摘みの衣装も若々しい。時折、珠音は舞台から舞台袖を横目で見る。その時の笑顔ははじけんばかりだ。

「いい女だねぇー。珠音ちゃん」
「まったくです。ぎゅーっと抱きしめたくなります」
「かっちゃん。あんたは幸せ者だよ。あんなに可愛い芸子さんを本当に抱きしめる事ができるんだからな。日本中の誰よりも幸せ者だよ」

芸も取り得もないこんな自分を受け入れてくれる女がいた。それだけでも有難い事なのに、その女性がみんなの人気者で、綺麗で賢くて芸達者ときたら、何も言う事がない。ただ、自分を相手側が受け入れてくれるかは別問題だ。

「しっかりしろよ。かっちゃん。あれだけの人を射止めようと言うのだから、ぼんやりしていられないぞ」

人生に目的みたいなものが出現した。
『男はつらいよ』の寅さんなら、マドンナには恋人がいてとそうなるところだろう。そうならないように、自分を磨かなければならない。珠音さんに相応しい男にならなければと思うのだった。

舞台は幕引きとなる。一也はそれらの舞台の裏方としてしっかりと仕事をこなしていた。この町にぶらりとやってきたのはいつの事だったのだろう。留蔵と出逢ってドンチャン騒ぎをしなかったら、今の一也は存在していない。何が縁でこうなったのか、人生とは不思議なものだと思うのだった。

芸者さんたちのお世話も、楽しい。何より珠音と一緒にいられることは、夢のように思える。あの社内虐めに近い会社を辞めてほんとうに良かったと思うのだった。これが、人間の生きた生活なのかもしれない。

芸者衆は二の舞に備え、化粧直しやいろいろと忙しい。着物は一人じゃ脱ぐことも着ることもできない。三人がかりで珠音たちの衣装を揃え、忙しく働いた。そして、二の舞の舞台の幕が開かれ、拍手の渦の中に躍り出ていくのだ。

「いいじゃないか。みんなに拍手されて、お座敷でドンチャン騒ぎを一握りの人間に見せるより、こうやって大勢の人に見せた方が、何百倍も嬉しいだろう」
「留さんは、内心寂しいんじゃないですか? 今までみたいに芸者衆を一人締めできなくなって、自慢できなくなりますよ」
「なぁー、かっちゃん。心が狭いねぇー。俺がそんな男に見えるかい」
「えっ、ただ、留蔵さんの仕事をしている姿を見た事がないですからね」
「そ、そうだったな。今日、家に来い。俺はかっちゃんを見込んだ男だぜ。俺がどんな仕事をしているか見せたる」

競馬、パチンコ、芸者遊び。いつも遊んでいる所ばっかりを見ていた留蔵さんの仕事ってなんだろうと、ワクワクしていた。舞台が終った珠音も、留蔵の仕事が何か知らないと、一緒に付いて来た。

「ここが、俺の家だ」
「作り酒屋……」

意外や意外。留蔵は作り酒屋の主なのだ。すでに引退していて、九代目になる息子へと代を譲っている。一也と珠音は、黒塗りの土蔵へと案内された。土蔵作りの作り酒屋は冷んやりとしている。

「お帰りなさいませ。大旦那様」と、頭を下げる職人さんたちだ。
「留さんって、偉い人なんだね」
「一也さん、留さんなんて呼んで大丈夫なの?」
「いいんだよ。今まで通りに呼んでくれ、年は離れているけど、気の合った友達みたいなもんなんだしよ」

人は見かけによらないって本当だと、一也は感じた。これくらいの大金持ちだから、他人にいくらでもお金をかけられるわけだと、一也は思った。それにしても、留蔵の気さくさには頭が下がる。全然、偉ぶった所が無い。みんな頭を下げるが、その下げた頭よりまだ頭が低いのじゃないかと感じる。できた人はこうなんだろうなと、改めて関心するのだった。そして、中庭に案内された。

「これを、見せたかったんだ。珠ちゃんにここで踊ってもらえたらなぁーってな」

一也と珠音は、作り酒屋の中庭にある舞台を見て感動した。真っ白な玉砂利の敷かれた庭の中央に黒檀の柱の立つ舞台が作られていた。

「これを、見せるのは二人が始めてなんだけどな。ここで、芸者衆の踊りを踊ってもらうのが、俺の夢なんだ」

留蔵は、舞台の柱を撫ぜながら、続けて言った。

「この舞台を作った人は、いったい誰だと思う?」

その日、この舞台の最後の仕上げのためにやってきていた人物がいた。珠音はその人物の後ろ姿を見て、驚愕した。

「パパ……」
「留さん! これはどう言う事」
「かっちゃん。こっちに来な、父娘の再会だ」

留蔵は、珠音の父親を探し出し、いろいろな話をしているうちに舞台を中庭に作る話を珠音の父にしたのだった。それから、一年をかけてここに舞台を作ったのだ。芸者会館の大出資者として、留蔵は芸者衆の踊りを芸術としても確立させたいと思っていたのだ。いつも卑猥なことばかりを言って、あまり信用できない人と思っていたけれど、なかなか立派な人だったと言う事かもしれない。

「珠音……。わしを許して欲しい」
「……」珠音は無言でうなずいた。

この父娘の間に何があったのか、一言では言表わせないが、父は大きな手で我が娘の肩を抱きしめるのだった。それから、四人で舞台に上がり、襖を開けるとそこには、数百万円はするであろう舞台の着物が袖を通されていた。

「これは、俺からのプレゼントだ」

留蔵は、珠音に着物を用意していた。この舞台で踊ってもらうためのプレゼントで、袖を通してさわりだけでもと、言うので、珠音は着物を羽織って見た。

「なんて、綺麗なんだ」

着物は珠音を引き立たせ、化粧をしていないのに、なんとも言えない気品さえ感じさせるのだった。留蔵は家の者を呼び、酒を用意させた。

「僕は、下戸なんです」
「口を付けるだけでもいいですから、舞台の落成式のようなもんなんですから……」
珠音の父に言われ、真似事だけですませようと、思っていた。
そこへ、しっかりと着物を着付けた珠音が舞台に現れ、舞を披露してくれる。数年も喧嘩別れをしていた父娘だが、父は娘のために唄を歌った。

「なんて、素晴らしいことをしたもんだ。なぁー、かっちゃん」

一也は、珠音の父に無理矢理酒を飲まされ、気を失っていた。珠音はビックリして、父のしたことを謝り続けるのだった。

「ごめんなさい。一也さん……」と、神妙な顔をし、父を睨むのだった。

おわり

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Novel Editor by BS CGI Rental
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