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抱きしめたい 作者:真樹

第1回   1
抱きしめたい(1)
朝の満員電車に乗り込む一也は、「ホッ」とため息をついてみた。
毎日、仕事に明け暮れ自分の時間をまったく持つことができないでいる。
貯金はたまる一方でそれを使う時間がまったく、何のために生きているのだろうと考え、いつも胸の内ポケットに忍ばせている退職届をそっと触れてみた。

出社してみれば、書類の山。その山の上に上司の走り書きがあった。

―― 入社何年目になるんだ。こんな単純な間違えを繰り返しているようじゃ、お前の未来はもうないぞ ――

「口で言えよ」と、まるめてゴミ箱に叩き込んだ。

その日、残業をした。いつまでも照明は落とされることも無く、深夜になった。
「くっそったれー!!一人っきりでやらせやがって…。少しは手伝おうって思わないのか!」
怒りが沸いてきて、一也はもう今日はこの辺にして帰ろうとボールペンを投げ出した。
残された書類の一番上に内ポケットの退職届けをおいてみた。
なんと、気分が晴れる事だろう。

高校、大学はよかった。就職してから、よくないことに気づく。
大学時代の女友達や友人の顔を思い浮かべる。

「希望を持って就職した先がこのざまだ」

時計に表示されている日付の数字が針によって日付を変更されようとしている。
外で車が衝突する音がした。窓からその事故を覗いたりした。一也はそのことで、退職届けの事をすっかり忘れてしまった。

    *

次の日会社にやってくると、課長から呼び出され、昨日忘れて帰った退職届けを見せられた。

「今日は、ディスクの整理にやってきたようだな。これは、受理したぞ。しっかしと申し送りをしていってもらいたいもんだな」

課長は一也を引き止める言葉も無しに一方的に話をし、一也はその場の立ち尽くすのみだった。
会社の他の社員を見ても、自分の事を思いやるような顔をしている者は一人たりともいないように思えた。

帰ってどうする予定も無く会社を離れ、近くの公園で、コンビニで買ったアンパンを食べ、缶コーヒーを飲んだ。

「しくじった。でも、あんな薄情な会社辞められてよかったよ。誰も引き止めもしないし、一言の慰めの言葉も、送迎会の話も無いんだからな」

それだけ、自分の必要性の無い会社だったのだと、思い知らされた。自分が会社での立場など、会社を辞める時でなければ分からないものだ。あの書類の山は自分を辞めさせようとする手段で、誰も手伝わなかったのも、自分の退社を待っていたからに違いない。
ボーナスも貰える権利を取得していたし、貯金も2・3百万たまっている。

「一人旅にでもでようか」

一也はそう考え、今、住んでいるアパートを出る事にした。
それほどの荷物も無いから、引越しセンターに頼むほどの事も無い。

大きなものは実家に送り、小さなものは必要最低限を残し捨てた。
空っぽの部屋からリックサックを背負って、駅に向かうことにした。

「なんだか、清々しい。なるべく金を使わずに長期間の旅ができるといいな。それから、住み心地のいい町だったらそこで暮らそう」

そう、期待を持ち電車に乗った。

     *

車窓から景色を見ていたら、山肌の旅館が気になった。

「東京からまだそれほど来ていないのに、風情のある旅館だな」と、その場所を見てみたくて、一也は電車から降り、精算をしてもらうためにベンチに腰をかけていたら、なにやら話しかけられた。

「どっから来たんだい」
「東京から」と、そっけなく答えた。
「東京からのお客さんは多いけど、あんたはのんびりしているな」

東京から一時間ほどのこの町は、日帰りするお客が多いのだ。
だから、のんびりした客はいないのだろう。

「これから、どこへ行くんだい」
「あの山肌の温泉にさ」
「あそこは、気持ちいいぞ。見晴らしがよくって、こっちからもよくみえるけど、向こうからの眺めは最高だ。町を見下ろしているだけじゃなく富士山までよく見える。ここへ来るお客にはあそこをよく薦めるもんだ」

まだ、精算も終わらないようで、男の様子を伺っていた。
声をかけてきた男はよくしゃべる。
見ると、競馬新聞に赤ペンで沢山しるしをして、耳にはイヤホンをつけてラジオを聴いている。メインレースが始まったようだ。だんだん、手に力を込めて、顔を真っ赤にしだした。ついに、ぶつぶつ言い始めた。

「そうだ!行け!行くんだ!」
その声に力を込めだし、大声になっていた。
「や、やったーーー!」
どうやら、競馬が当たったらしい。
近くに競馬場があるわけでもなし、どうやって、換金するのか、競馬をやらないから分からないが、男の話によると、けっこうな大金を掴んだらしい。

「よし、パーーッと行くか!」

男は、一也を誘ってどこかで祝杯をあげようと言うらしい。精算窓口でお金を受け取ると、男は一也をどこかに連れて行こうとしている。駅前には軽トラックが止まっていた。彼は駅に競馬で当たった場合、それを換金するために来ていたようだ。競馬が当たってもいないのにだ。しかし、まんまと当たったのだ。大金を手にしてご満悦の様子。

「名前を聞いてなかった」

やっと落ち着いたのか、ふたりは自己紹介し合い。男が由枝留蔵と分かった。
一也と名前を聞くなり「かっちゃんでいいかい」と聞いてきたから、それでいいと言った。一也が気になった旅館に向った。

     *

旅館につくなり、留蔵は女将に前金で宴会の相談をしている。芸者や綺麗どころをそろえてのドンチャン騒ぎを希望しているようだ。
一也はここまで軽トラックに乗せてきてもらったことに感謝して、宿帳に名前を記入した。

「あっ、かっちゃん!一緒に飲もうよ」
「留さん。僕はお酒飲めないし……」
「芸者さんの踊りとか、お座敷遊戯って面白いぞ」
「でも、留さんにご馳走してもらう理由もないし……」
「そっちがなくても、こっちにはあるんだ」

留蔵の言うには、どうせ泡銭だ。その泡銭をこの旅館でパーっと使うことは、この旅館にも芸子さんにも仕事を与えることになる。
たかだか200万円ほどのお金だが、そのお金で自分も楽しむが、いろいろな人にお裾分けすることで、自分の事を良く思って貰うことができると言うのだ。

「そうだろう。一生恨まれているより、感謝される人が一人でも多ければ、自分の徳になるんだよ。だからさぁー、かっちゃんにおごるけど、それは俺のためなんだから遠慮しなくっていいんだ」

僕はそんなものかと、思った。会社でも人に気にして貰うことの少ない僕は、もしかして、人に留さんのようなお裾分けをほどこしてこなかったから、人からもあまり思われないのじゃないだろうかと感じた。
そんな話を二人でしていると、女将がそろばんを持って、留蔵に見せた。

「こんなんでましたけど…」
「ウシシ、流石女将だ。俺の睨んだ通りのやり手だ」
「まぁー、留さんってば、なんだかやり手婆みたいでいい気しないわよ。おーほほほほ」と、豪快に笑った。

留蔵の当初の予定よりすこぶる安かったようだ。
一人でも多くの人に感謝される事で徳を積む…か。僕にはそんな泡銭を手にする業を持っていないし、どうやったら、人に感謝される徳を積めるのだろうと、自分を情けなく思う。

田舎町のお座敷にこれほど若くて美人の芸者さんがいるなんて信じられなかった。
しなやかに舞うその姿。大きなぱっちりとした目。文金高島田と言うのだろう。
日本髪を結った女性をこんなに美しいと思ったことはなかった。横を見ると留さんは三人の芸子さんに囲まれ、まるでお殿様だ。豪華な食事は実に美味かった。海の幸やら山の幸やら、珍味に極上の付け合せ。
口の中でとろけるような舌触り、この料理が一也と留蔵の二人だけのために作られたのかと絶句する。時間はあっと言う間に過ぎ去り、ドンチャン騒ぎも終了したが、一也はあの芸子さんのことが頭から離れなくなっていた。

留さんは、一人の女性を連れいなくなった。一人お座敷に取り残される格好となった一也はまだ残っている極上の料理を平らげていた。障子が少し開いていたので、旅館を後にする芸者さんの列が通るのが見えた。

「あの日本髪は鬘(かつら)だったようだ」

芸者さんの一団はみんな洋服に着替え、髪も今時のヘアースタイルになっていた。

「お一人で、お寂しいですわね」

一人でいるところへ、芸者さんがやってきて座った。留さんにいい子がいたら指名するといいと言われていたが、女性を物のように扱うようでそう言う事に罪悪感を感じそんなことはできない。ほんとうにそう言う事があるなら、この旅館も美人女将も軽蔑する。でも、そんな思いが自分を潔癖症にしていて、人から暖かく扱われないのじゃないか自分だけはみんなと違うんだと壁を作っているのじゃないか。

一也は、自分の目の前の芸者さんを、直視することができずに、他所を見ていると、白い透き通るような手でお酒をお酌をされていた。さっき廊下で笑っていた芸者さんがお膳の前に座っているのだ。それでも、一也は横を見たままで言った。

「僕はお酒飲めないんです」
「まっ、お口を付けるだけでもいいですのよ」

生まれて30年間、酒を口につけたことすらなかった。芸者さんに言われ、飲むのじゃなく口に付けるだけをしてみた。体の中の殻がビル破壊のように崩れ去る思いだった。あの一目惚れしてしまった女性が廊下で微笑んでこちらを見た。それを見つけ芸者さんがその女性を手招きして、お膳の前には洋服に着替えた芸者さんがふたりならんで座っている。

ふたりの女性を目の前ににして、留さんの言葉を思い出していた。ふたりは体を売るためにこうしているのじゃないかと、生唾を飲み込みながら思ったのだ。金で体を売る女性を一也は軽蔑する。好きでもない男に自分の体をこすりつけ、いろいろな事をして、それを商売とする。なんとも、やりきれない事だと感じる。そんな思いとは裏腹に、彼女を抱き寄せたいと想像している。女は金のためなら、恥ずかしい所を使うなど、なんとも思わない生き物なのだろうかと彼女の美しい顔を上から覗き込んだ。彼女は何も言いはしなかったが、別れ際の留蔵の言葉が気にかかっていた。

− いい子がいたら、指名しておきなよ −

そう、言い残していった留蔵が気を効かせて彼女を指名しておいたに違いない。自分が彼女の事を、お座敷でずっと眺めていたのを、留蔵は見逃さなかったのだろう。一也は物欲しそうに彼女を見ていたのだろうと、自分の姿を想像した。やりきれないほどのスケベ爺のようだったに違いない。留蔵も罪な事をするものだ。しかし、自分としては一目惚れをしてしまったこの女性と体を交えられる事自体を幸運を感じるべきなのだろう。もう、宴会は終わり、着物から洋服に着替えをすませている彼女。

一也は、じっと彼女を見つめていた。そのふたりの間に何かを感じたのか、先に一也の膳の前にいた女性は立ち去った。そして、一也は口を開いた。

「あの……お名前を聞かせてくれませんか」

女性に名前を聞く事に恐怖心がある。昔、一也の住んでいたアパートの前がバス停で、出勤時間より一時間も早くやってくる彼女と一緒にバスに乗るために一年間も早く家を出ていた。一年間をかけて顔見知りとなり、挨拶をし、少々の会話をするようになり、お茶に誘おうか映画でもと考えていた。そしてまずは、名前を聞く事にしたのだ。

「お名前を教えてもらえませんか?」

と、聞いた翌日から彼女はそのバス停に姿を見せなくなったのだ。だから、その事以来女性に名前を聞いたのは久しぶりの事だ。よく、見ると彼女の顔はその女性の顔と似ている。自分の好みの女性の顔だ。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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