――She remembered me last.
『アレグロ』で待つ その呼び出しは俊哉から。そうメールがきた。メールの着信時間は朝十時。もう店は開いているはず……つまり相変わらず、といえば相変わらず何様かと思うほどマイペース。待っているというのは今、待っているということなのだろう。 あの明美からの留守電から、初めての連絡だった。 メールを確認して、俺がまずやったのは鏡をみたことだった。何故かはわからないが、今日はきちんとした格好をするべきだ、みっともない姿ではいけないと感じたのだ。 バイトがちょうど休みだったので、そのまま身支度を整えて俺が行くと、俊哉は一人でアメリカンを飲んでいた。 「よ」 片手を挙げ、俺に向かいに座るようにしめす。 俺が座るのを待って、横に置いてあったビニール袋から、いかにもな包装をされた長方形の箱を取り出した。マカデミアンナッツ入りチョコレート……観光地ならどこにでもあるようなお菓子だった。 「これ、ハワイ土産だ」 「やっぱり俊哉と一緒だったのか……?」 「何か、注文しろよ」 俺の独白のような問いを聞かなかったかのように、いつもどおり命令口調で俊哉は言った。 今はモーニングタイムらしい。モーニングセットを食べている人が数人いる。俺は俊哉と同じ物を注文する気にならなくて、店員に「アイスティ」と頼んだ。 店員がテーブルから遠ざかると、途端このテーブルだけが異質なもののように思えた。ここにあってここにないもの。ただ目の前で足を組み、俺を真正面から見据える俊哉だけがここにあった。 「お前が何か言いたいのはわかる。が、俺はそれに答えるつもりはない。 というか答えるべきなのは、俺じゃない。負うべき責任を他人が果たしていいわけがない。だから俺は答えない。」 再び俺が口を開く前に、俊哉はそう言った。 不遜な態度。今まで戸惑うことはあっても、不快に思ったことはなかった。 それは基本、俊哉という人物がはっきりいって俺は好きだったからだ。 彼の行動は間違っていない。俺に現在の状況を説明するべきなのは、俺と付き合っている相手であるはずの人物であり、何も確かな説明のないままで俊哉に聞くのは考えが偏ってしまう。 「ならなんで俊哉がオレをここに呼び出したんだ?」 俺の問いに、俊哉はコーヒーをすすってから答えた。 「人にはそれぞれ個性がある、というのは話したな。 個性を示す、ということは自身の責任を果たす、ということだ。つまり個性をもたない人間は責任を放棄しているということでもある。俺は責任を果たさない奴は嫌いだ」 「誰とハワイに行ったのかを答えるすらも、お前の責任ではないと?」 俺の言葉に不意をつかれたかのように二三度瞬きをしてから、俊哉は笑った。この笑みだ。初めて俊哉にあったとき、大人っぽいと感じた。あのときから俺は俊哉に悪意を持つ気が削がれていた。 俺にない物を持っている男。 「明美がハワイに行ったのは、俺とだ」 ほら、やっぱり。 すっと肩の力がぬけた。俺はここで怒るべきだったのだろう。 しかし俊哉の答えを聞いても、俺は怒気を生じさせることはできなかった。 俺は俊哉を認めてしまっているから、きっと怒ることはできない。 それを改めて思い知り、俺は苦く笑った。 「そうか……」 俊哉はそんな俺を憐れむように目を細めて見た。 「明美が言ったとおりだな」 訳がわからず、問うように俊哉を見返すと 「女はな、小動物だよ。握り締めるように拘束すると、息ができなくなる。だが全く手を放してしまうと寂しさで泣き続け、狂い死ぬ。 程よい力加減で握っていてやらないといけない。」 「俺は手を放していたっていうのか?」 「お前が本当はどうしていたかは知らないが、すくなくとも相手はそう感じていたってことだろう」 「明美が?」 「何の努力もはらわずに、同じ環境でいることなんてできないんだよ。同じ環境でいつづけるにも、それ相応の努力がいる。お前はそれをしなかったんだろ?」 「……俺は、どうするべきだったんだ?」 カランカラン、とベルが鳴った。店の扉につけられたベルで、誰か客が入ってきたのだろう。 「それはもう考えてもし方がない」 何か感情を含んでいたわけではないだろう。だが俊哉のその声は俺の頭の中を突き刺さって、向こうに抜けた。 俺がゆっくり振り返ると、明美が店の入り口にいた。 「他のお前の問いは、明美が答えるべきだろう?」 自分の分のレシートを持ち、俊哉は立ち上がると、明美の分のアイスティを注文した。戸惑ったような顔のままの明美を、自分の座っていた席に座らせる。 「じゃ、な」 俊哉はそう言って、店を出た。 二人になって、沈黙が重い。数分、そのままでいた。店員が俊哉の分のカップを下げても、客が入ってきたときよりまばらになってきても。固まったように動けなかった。 「別れない?」 そんな中、明美はそう、口を開いた。
記憶が繋がった。 「そうか」 一晩考え続けて、納得できなくて、俺はバイト前の明美を捕まえようと思った。だから今日の朝、バイトのシフトは変えてもらい、無理矢理ここで明美を待っていた。 だが…… 「オレはここから、見てたんだ。 駅からバイト先の店に向かう人の群れを――明美を」 彼女はいた。すぐこの下の広場に。 だからオレは広場に下りようとした。 だが…… 「ゴメン、遅れた」 明美の声がした。 その声がむけられていたのは――俊哉。当たり前のように手をつないで、広場を出て道路を渡って…… オレは引き止められなかった。胸の痛みに、その場に足が縫い付けられたようになった。 明美は笑っていた。心から楽しそうに、笑って。 オレはそれを見て、動けなくなった。 いつから、オレはあの笑顔を見てなかっただろう。彼女はいつから、ああやって笑わなかっただろう。 そう思ったとき、思わず口が歪んだ。オレは、笑ったんだ。 「彼女は最後にオレにくれたんだ。そう思うことにした。 オレが与えることができなくなっていた、最高の笑顔を」 いつから失ってしまっていたのだろう。 オレの明美の間には、もうとっくの昔に『恋人』という意味の絆はなくなっていた。ただきっかけがなかっただけ。それだけで側にいたにすぎない。 だから俺は、それほど明美に執着していなかったんだ。 だから俺は、『振られた』ということに違和感を覚えたんだ。 その全てを、その笑みで知った。 「……ひきとめることはしなかった。 けしてオレは彼女を忘れないけど、明美はオレといるのが苦痛だと言った。だから……明美はオレを忘れてくれていい」 「本当に?」 カノジョは信じられないものでもみるかのようにこちらを見ていた。 「ああ。俺には明美を責める筋合いはない」 人は何故物事を記憶するのだろう。それはその物事がその本人にとって必要であり、そしてまた都合が良いからではないのか? 実際、俺は今このときまで明美の心離れを認識しながらもそれを向かい合うことから逃げるため、記憶を一部消し去ろうとしていた。俺にとって不必要だから、都合が悪いから。だから…… 「明美は俺を忘れてくれていいんだ」 そう言ったとき、俺の横にあった影が崩れた。 「どうしたっ?」 熱中症かと思った。さきほどから具合が悪そうな素振りをしていたのだから、もうすこし気遣ってやるべきだったか。頭を押さえ、手すりから崩れ落ち、眉間にしわを寄せているカノジョは苦しげだったが、ゆっくりと頭を横に振った。 「忘れて……いいわけがない。それでいいって思えるわけがない」 絶えそうな息の合間に、搾り出すようにいうその言葉は、どこか逼迫しているように聞こえた。 「私は忘れて欲しくない。忘れてなんて、ほしくない」 「……あんたも、わかるよ。別れたっていう彼氏と、その新しい彼女が一緒にいるところを見たら。間違いなく好きだった人が、間違いなく自分といて不幸せになることをわかっていたら、忘れてくれていいと思えるはずだ」 「思えないよ……思えない、よ。忘れられるぐらいなら、私が忘れてしまいたい……心が、痛くて、痛くて仕方ないよ……」 本当に痛がるかのように胸を押さえてカノジョはうずくまっている。 オレはカノジョの肩に手をやる。思ったより冷たくて、その手を思わずひっこめた。 「会いにいったんだろ? 相手の話を聞いたんだろ? 相手の心の中に、自分の居場所がないのは確かめたんだろ? ……それでもそう思うのか?」 ふと、そう言ってみた。 オレは明美との『恋人』という名の絆はすでに切れていた。だからオレにはここまで強く思いつめることができない。 だがカノジョは、一方的だったとしても、彼を『恋人』とし、絆を持とうとしていたのだ。 「納得してないなら、何度でも会いに行けよ」 完全にその絆をきるのはカノジョとその彼の最後の義務。それを果たしていないから、カノジョはここまで苦しいんだ。 カノジョは泣いていた瞳をゆっくり上げ、駅前の道を指し示した。 「行けよ、今なら店にいるんだろ?」 「ムリ、ムリなの……」 泣いてそのまま首を振り続ける。 『手を放してしまうと、寂しさで泣き続け狂い死ぬ』 それがこの状態なのか。 俊哉の言葉が頭に戻る。 でもカノジョは生きている。死んでなどいない。まだ、苦しんでいるだけだ。 「じゃあオレが連れてきてやるからここにいろよっ」 もう放ってはおけなくて、オレはそういって立ち上がった。 こうであってほしかったのだろうか? オレは、明美に。 わからない。でもカノジョが明美に見えたのかもしれない。実際に俺が見ることができなかった、気付いてやることができなかった明美に。そうでなければこんなことしなかったのかもしれない。 だがそんなことどうでもいい。 今、オレはカノジョの元彼という男に、最後にするべき答えに答えるという責任を果たさせるべきだと強く思えた。 「ワスレタイ……」 背後でカノジョのすすり泣きとともに聞こえた言葉は、いままでと何かが違って聞こえた。
走った。走って、汗が目に入ったのでオレは右手でそれを乱暴に拭った。 一秒でも早く、カノジョの元彼を連れて行ってやりたかった。 なのにどうしてこう人ごみが多いっ!? 人の発する独特の熱気とざわめきが酷く癇に障る。目の前の人ごみをオレは憎憎しげに睨みつけながら、それでも目的の方向への進路を開こうとした。 「すみません、通してくださいっ」 声をあげて、人の腕と腕の間を掻き分けて、それでもなかなか進めない。 ふっと人がいない空間にでた。見上げると木の枝がある。街路樹の幹に手をつき、オレは不快感をため息にして体外に吐き出した。 いくら駅前とはいえ、そろそろ夕方になる。こんなにここに人が集まるわけが…… 「可哀想にねぇ」 「フラフラと出て行ったんだって?」 「まだ暑いからね」 日傘が邪魔なおばさん三人が俺の行く手を主にさえぎっていたので、謝罪しながらその日傘をのける。そのまま走り出そうとしたオレに 「何をそんなに慌ててるんだい? 急がなくてももう救急車ついてるよ」 そのおばさんの一人が声をかけた。 なんのことかわからず振り返ると、 「かわいい子だったんだけどねぇ。頭を強く打っていたみたいだから、大事無きゃいいけどね。」 「交通事故があったんですか?」 オレがそういうと、驚いたようにおばさんたちは目を丸くした。 「気付かなかったの? 結構大きな音がしたのに」 そういいながらすぐ目の前の道路を指した。 オレはその道路越しに『アンダンテ』という看板をみた。ここの店が…… 道路はすいている。赤信号だが渡れるだろう、と俺が行こうとしたときおばさんの一人が俺の腕を掴んだ。 「そっちじゃない、あっちよ。あんたの知り合いかい? あの子?」 「いえ……たぶん違うと……」 「そうかい? だいたいあんたと同じ年頃で、髪が茶髪のかわいい子よ?」 ? オレはひっかかりを覚えて、『アンダンテ』にむけていた足をとめた。おばさんの指し示す方向をみると、たしかに人だかりの向こうで白い車体――救急車があった。俺は目の前の野次馬たちをジャンプして、救急車に担架で運び込まれようとしている子を見ようとした。 ぐったりとして意識はないようだ。担架の端からこぼれるように手首がたれている。顔のほうに視線をやると、少し頭から血が流れているのが見えた。 ゾッとする。 オレは思わず目を疑った。 カノジョだ。 どうして、ついさっきまでオレと話していたのに……? カノジョが担ぎ込まれた救急車が発進するようで、周囲の人垣がすこし崩れる。ショックをうけたままの俺が、それに流されるように救急車から離される。 ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ…… そのとき足元で鳴っている携帯があった。聞いたことのある、着信音。 「これは……」 「ああ、もしかしたら事故った子の携帯かもねぇ。バッグを放り出すようにして倒れてたから」 隣から声がした。野次馬のうちの一人だろう。 オレはその携帯を拾い上げると、さらに愕然とする。 「見たことが……ある」 このシンプルな携帯。ストラップも装飾もされていない。そして機種も。 オレはその画面に目を落とした。そしてしばらく、すくなくともその電子音が鳴り終わるまで、オレはそこで立ち尽くしていた。 表示されている文字は四文字。 『俊ちゃん』 真奈の携帯、だった。
|
|