――Remember, you are you. So I am me.
カノジョはポツリ、ポツリと話した。 「昨日の夜。突然携帯に電話があって……『別れよう』って。理由を聞いたけど、あなたと同じです。『もう愛してない』って、それだけ」 所要時間五分の会話。それも最後は『今、時間ないから』と一方的に切られたという。 ブォゥ……とトラックが道路を通った。ぬっとした熱気がこちらに押し寄せる。電車が駅についたのか、改札近くの出口から人の群れがでてきた。意味を成さない声の群集が、意図せず耳に流れ込む。走り去る電車の音、無数の足跡。そんな中カノジョの声だけ鮮やかにオレの脳内では受け止められている。 そういえば、何故オレはカノジョの話を黙って聞いてるのだろう。聞く必要などない。カノジョはまったくの他人なんだ。じゃ、と切り上げてここから立ち去ればいいことだ。 なのに……何故? 答えはオレの頭の中に存在しなかったが、カノジョは話を止め、小さく笑った。 「つい、あなたに話しかけたのは、もしかすると無意識に似たような境遇を感じ取ったのかもしれませんね」 心からの笑み、ではなくどこか痛みをこらえるような笑み。さきほどオレが感じたように、カノジョも胸に痛みを感じたのかもしれない。 存在しないココロが痛んだのか。 なぜ存在もしないモノが痛むのか。 なぜ存在も信じられないオレはここにいるのか。 ソンザイスルトハドウイウコトカ 疑問があいまってふ、とそのうちの一つだけが口から出た。 「どうしてオレは振られ、たんだろう?」 「……私は、わかります」 カノジョは俺の呟きにも似た言葉に返答した。 「他に好きな人ができたんですよ。私の彼は、そうでした」 確かにオレとカノジョは似ている。振られた者同士だ。しかしそれだけに、まるで明美がオレとは違う男を好きになったのだと確定するような言い方をされると、不快な気分が増倍する。 つまり、苛立った。 「いいかっ? あんたはあんた。オレはオレだ。似てても同じじゃない」 語気が強まったのでカノジョは驚いたのか、噴水を見つめていた眼をこちらにむけた。激しく声を荒げたわけではない。それでも言葉のうちには確かに苛立ちが生じた。そのことはオレ自身を実は当惑させていた。 カノジョの目は先ほどオレを映したものと同じ。気の抜けたような顔をしていたオレは、今は憤慨している顔になっている。……よく見ると、彼女はコンタクトをしていた。黒目の周りに、薄い円がある。 オレたちの後ろを中学生だろうか? 四人の女子がふざけあいながら歩いていった。 何してんだ、オレ。 見ず知らずの人間に話しかけてくるカノジョを奇妙だと思った。しかし見ず知らずの人間に怒りをぶつけるオレの方が、より奇妙だろう。 オレが我に返り、怒気を治めたことを感じ取ったのか、カノジョは再び話し始めた。 「……私、昔はもっと地味だったんです」 何を言い始めたのか、とオレは一瞬戸惑ったが、カノジョはおかまいなしに続ける。 「でも彼は明るい格好とか明るい性格のほうが好きっぽかったから、だから私、努力して、いろいろ努力して、ほんのすこし、変わったんです」 オレはカノジョが昔、そうであったことは想像が容易についた。チャラチャラしている、と形容されるような露出のある服装に合わないほど、誠実な受け答えをしている。カノジョは高校生、というのもすこし違和感あるので、もしかするとオレと同じ年ぐらいかもしれない。いつからそういう変化が始まったのか知らないが、それでも数年前の義務教育課程は真面目に制服を着て、真面目に授業を受けて、教師や親からの評価も上々。友人たちと目立った争いもなく、極めて静かな日々をすごしていたに違いないと思えた。 しかし容姿を変えれば、周囲の扱いも自然と変わるものだ。外見が違えば扱いを変える人種はいる。中身は二の次。ある種、間違ってはいない。外見もその人を表す情報に違いないからだ。 それは身なりや格好を変えると、間違いなく生じる変化。そういった変化を、受け入れるのが辛く、皆、自らを変えることには二の足を踏む。 だがカノジョはそれをした。 「その努力はけして辛くはなかったんです、本当に。 でも他に辛い努力はあった。気づくことすらもできないほど自然で、辛い努力」 その辛さをも上回るモノとは―― 「彼の心変わりに気付かないこと。気付いたら終わってしまう不安が無意識にあった。 ……あなたはそんな努力、しなかったんですか?」 ココロの不安だった。
携帯が鳴った。流行の着メロ。コロコロと明美はそれを変える。この時鳴った曲は数日前に某有名音楽番組でも出演していたバンドの新曲だった。最近デビューしたばかりで、これが二曲目の発表と言っていた覚えがある。ベースの音が微妙にずれているように聞こえ、俺はあまりこの曲が好きじゃないのだが。 バッグから音源をとりだし、画面を確認するなり明美は立ち上がった。 「どうした?」 「友達」 夏が始まりかけていた。梅雨もそろそろ明ける、といったころ。出かけるにもどこに行くか決まらず、俺の部屋で二人、まったりとくつろいでいた。唯一ある小さなソファで、互いにもたれかかるようにして座っていたのだ。 もう明美と付き合いだして二年は経つ。付き合い始めのころは、この状況でくつろぐということはなかったように思える。すぐ間近に相手がいる、その緊張感というものがこのころになると、まったく存在しなかった。手が相手に触れることも、キスをすることも、別段特別なことのように思えなくなっていた。だから大したことも話さずに二人でただの沈黙を守っていたのだ……その着信音がするまでは。 「ここ、電波悪いのよね」 そういいながら網戸を開けてベランダにでる明美を目で追ってから、オレも立ち上がりキッチンへ向かう。喉が渇いた。何か飲む物を……と冷蔵庫の中身を目で確認する。 「うそぉ、まじで?」 ベランダから明美の声がした。 「行く行く! なんとしてでも行くからっ」 誰からだ? ペットボトルを一旦シンクに置いて、考えてみる。きっと良い報せだったのだろう。声が弾んでいる。そして気軽な口調からして親しい友達のようだ。しかし明美は友好関係が広い。人付き合いの努力をそれほど払おうとしない俺から見ると、頻繁に連絡をとりあっている明美は素直にたいしたものだ、と思うほど。だから相手が誰かは俺には見当はつかなかった。 「はーい。じゃーねー」 会話を終わる声がして、カーテンをめくり部屋に戻ってきた明美は、予想に違わず満面の笑みを浮かべていた。
オレはついさっき、この笑みを見たばかりのような気がする。
「ダブルデート?」 「そ、いいでしょ?」 明美は奔放な性格をしている。面白そうと感じると、あまり周囲のことも考えずに実行にうつすところがある。それが時に呆れ、時に魅力的である彼女の特徴だった。電話がかかる前まで座っていたソファに軽く腰掛け、楽しそうに計画をあかす。 彼女がいうには、すこし前に偶然町で再会した高校の同級生が、さっきの電話の相手らしい。高校卒業後、互いに連絡をとることもなく、久しぶりに一緒に遊びたいという話から発展して、それならついでに明美は行きたいところにともに彼氏連れで行くことにしたらしい。 俺は彼女の突然の提案に少々呆気にとられながら、一緒に行く水族館についてネットで調べてみた。大きな水槽、ペンギンのショー、青が基調の門構えの写真が、HPにはほどよく配置されていた。 「その子の彼氏のつてで、優待チケットがもらえたんだぁ」 以前から行ってみたかったのだという。確かにすこし遠いので、車を持っていない俺としてはただ、行こう、とだけ言われても躊躇しただろう。おそらくそのことを、言わずとも明美は理解していた。遠出をするときは最寄りの交通機関でどうやれば行けるのか、全て調べ上げてから俺を誘っていたから。 「車をあっちがだしてくれるし、どうせなら一緒に行こうってことになってさ」 パソコンの画面を満足げに眺めながら、明美は楽しそうに言う。先ほどの電話の相手が連れてくる彼氏は車を所有しており、乗せていってくれるつもりらしい。日にちを言われ、ちょうど次のバイトの休みであることから、俺はなんのこだわりもなく了解したのだった。
趣味悪…… それは俺の神城俊哉に対する第一印象だった。 「うんわぁ……、ムラサキってどうよ?」 「ムラサキも種類によるんだろう、け、ど」 「あれはなぁ……」 俺と明美はその車に近寄ることを躊躇した。 メタリックカラーの車。ゴールドのウェーブ模様が側面に描かれ、その光沢がよけいにイタイ。そのうえで何故わざわざこの色をチョイスしたのかが不明だ。バックのガラスには四文字熟語らしきステッカーを貼りまくっている――『喧嘩上等』『愛羅武勇』『天地無用』……意味を考えて貼っているとは思えない。おそらく夜になればチカチカと光るに違いないライトが、今は静かに車体に張り付いている。駅前のロータリーで止まっているそんな特徴的すぎる車をみつけることは、けして難しいことではなかった。 助手席の扉が開く。降りてきたのは、そんな車に乗っていることが似つかわしくない、どこかぼんやりとした感のする女の子だった。白い帽子に、腰まで伸ばされた長い黒髪に、黒縁眼鏡。明るい色のワンピースを着ていなければ、まるで葬式にでも行きそうな、どこか暗さを感じた。 その子は十メートルは離れて佇んでいる俺たち二人を見つけ、車からでたようだ。こちらに向けて軽く手を振った。 「あーちゃん。ここ、ここ」 「……わかってるって」 あーちゃんとはどうやら明美のことらしい。ため息でもつきそうな表情で、明美は俺の横でぼそっとつぶやいた。きっと俺たちは同じことを考えている。 一体どういう感覚・感性の持ち主がこの車に乗るんだ? 「辰巳、行こ?」 促され歩き出した俺がチラッと横を盗み見ると、明美はもうその車への感情を顔から綺麗に消してしまっていた。 前もって聞いていた話から推測するに、あの子が明美の高校時代の友達なのだろう。名前は川瀬真奈。昔は同じグループで、よくつるんでいたらしい。 「マ〜ナァ……目立つって、この車」 「あはは、ごめん。すぐわかった?」 「ま、そりゃね?」 それから真奈は俺のほうをみてペコリと軽く頭をさげた。 「辰巳さん、ですよね? 初めまして」 「あ、あぁ」 どうやら俺と同じく、前もって明美から紹介はされていたらしい。 「辰巳さんとは初対面ですけど、今日は一日、よろしくお願いしますね」 意外だな…… 俺は自分の中に生まれたその感想がより確実になっていくのを感じた。明美は髪も染め、きちんとパーマもあてていて、化粧だって気を使うほうだ。おしゃれには人一倍関心がある、といってもいい。だから彼女の友達、と言われれば同じような子だろうと思っていた。しかしこの子は、明美の真逆をいっているような気がした。けして流行りの服装とはいえないだろうし、本人もそのことを気にするような気配もない。だから友達だといわれると、なんとなくイメージがあわない気がした。 そんな丁寧な挨拶に俺が戸惑っていると、今度は運転席側の扉が開き、車の屋根に体を乗り出した奴がいた。 「へぇ、明美ちゃんってほんとにかわいいじゃん。結構俺の好みだな。つか真奈。なに堅苦しい挨拶してんだよ」 真奈が頭をあげ、振り返る。 「俊ちゃん」 「とにかく、いつまで外にいんだ、お前ら。早く乗れよ」 真奈からの呼び名と状況からして、彼が真奈の彼氏に間違いないだろう。 痛んでいるが軽くウェーブのかかった、肩まで伸びた茶髪。微かに見える左耳には三個ほどピアスがつけられている。すこし唇が突き出したような反抗的な顔立ち。歳は俺と同じか、すこし上だろうか。俺も高いわけではないが、そんな俺から見ても低めの背。だが不敵に笑っているその表情は、俺には大人っぽく見えた。 彼は女の子二人にその笑みをふりまいてから、俺のほうを向いた。軽い自己紹介でもしてくれるのか、と思ったのだが、 「敬語はなしな。つーか敬語を使ったらぶっとばす。そのつもりで」 「え」 早口でそういわれ、俺は絶句した。しかもそれだけ言うと、俊哉はさっさと車の中に戻った。明美でさえ反応できずにいると、真奈がクスクスと笑う。 「俊ちゃん、堅苦しいのが嫌いな上、マイペースな人だから。さ、早く乗ろ?」 そういいながら後ろを押し、俺たちを車に乗るように勧めた。
「あ〜、荷物はめんどくせぇから持ったままな。シート汚したら弁償決定」 「窓は勝手に開けんなよ。俺の許可がない限り、開けた奴は死刑」 「飯はあっちで食うから。好き嫌いあっても却下。何だろうが食え、ありがたく」 傍若無人。二言目の神城俊哉への感想はそれ。何も言う前から人のこと呼び捨てにするし、どこか偉そう。車にのってから目的地につくまで、何かと口を開き、そしてほぼそれは断定であり、命令だった。 最初はついていけなかった俺だった。しかし何かを言われる度にいちいちうろたえず、とりあえず実行に移しておけばいいのを理解した。俊哉は傍若無人だが、気遣いがないわけではなく、逆にこちらが気付く前に気付いて命令しているだけなのだ。 あの不敵な笑みとともに皮肉のこもったような目つきでバックミラーを時折見る。こちらを観察しているわけではないだろうが、目があった、と思うたびにすでに全てを掌握されてしまっているような圧倒感を俺は全身で感じた。 こいつにはかないそうにない。 理由は……男の本能で、とでもいうのだろうか。そんなふうに俺は思えた。俊哉に好意をもち、同時に尊敬し、屈服したのだろう。変な意味でなく、惹かれたといっても良い。俺にはできそうもないその偉そうな言動。野生の動物が群れる時はボスの命令に絶対服従するように、俺は俊哉の命令に従っても何の屈辱も生じなかったのだった。 軽いノリのポップスが車内に流れている。微かにタバコの匂いがするので、今は吸っていないが、俊哉は喫煙者なのかもしれない。 「世話焼きなんだよ。こうみえてもさ」 「こうってなんだよ。こうって」 「こう」 俊哉を人差し指でさす真奈。 後ろのシートで明美と並んで座ったまま、前に座る真奈と俊哉のやりとりをみせつけられていた。俊哉は結局自分から自己紹介をしなかったので、真奈が代わりに彼をからかいながら教えてくれた。やはり俊哉は俺より一学年上だったらしい。 真奈が続ける容赦ないこき下ろしに舌打ちし、視線を前に戻した俊哉は軽く頭を掻いた。プラスチックのキーホルダーがジャラジャラ揺れるバックミラーに映る表情は、間違いなく笑っている。本当に気を害しているわけではないらしい。 「それに俊ちゃんってねぇ、悪ぶって見えるけど結構細かいんだ。このキーホルダーだって俊ちゃんのお手製だよ? いろんなものを自分で作るの。俊ちゃんのしてる指輪だってねぇ」 「いい加減にやめろって、お前な」 キーホルダーを示しながら笑ってこちらに振り向きつつ、外見からは想像に遠い俊哉の性質を暴露する真奈に、やはり俊哉は形だけの制止をする。だが俊哉は手先も器用らしいということは、その俊哉の作品だというキーホルダーや、彼の指輪をみて俺も理解できた。細かいデザインまで凝ったもので、彼のこだわりが感じられる。 つい、微笑ましく感じ、俺は 「なんか意外な感じだな。俊哉はパッと見、コマゴマとしたことは苦手そうな感じなのに」 と言うと、俊哉は露骨に顔をしかめ、それからまたあの笑みを浮かべた。 「ああ。男を自分の車に乗せるなんてコマゴマとしたこと、確かにニガテだな。乗せるならかわいい女の子に限る。やっぱり男なんて乗せると、気分わりぃよな。 つーことで辰巳はここで飛び降りるんだな?」 「いや……遠慮する」 しっかり法定速度以上で走っている車の中で、俺はしっかり辞退した。 そんな感じで最近の天気の話、かかっている曲の歌詞の話、共通の知り合いの話、と次から次へと会話は続いた。俊哉はその風貌から俺が想像した運転技術より格段にうまかった。雑談しながらでも、ブレーキ時に衝撃がくるわけでもなく、アクセルも踏みすぎることはない。それでいて絶妙のタイミングでこちらにも話をふってくる。そのテンポの良さには俺も舌を巻いた。 と、そのときピピピピという電子音がした。 「私だ。ちょっとゴメン」 真奈の携帯の着信音らしい。慌ててバッグから携帯を取り出した彼女は「もしもし?」と小声で携帯にでていた。一つもストラップをつけたり、装飾をしていない携帯は、あって間もないのに真奈らしいと俺は思った。 どうやらバイト先か何かからの電話らしい。数秒で終わりそうにない、と俺が思うよりも先に、俊哉は何も言わずにカーステレオから流れている曲のボリュームを下げていた。確かに俊哉は気がつくし、世話焼きなのだろう。俺は納得した。もちろん口には出さずに。 自然と車内に会話がなくなった。真奈の微かな電話の声に耳をすますのも悪いので、何か話すべきか、と思っていると、 「今日はありがとう、俊哉。車出してくれて」 明美が口を開いた。もちろん真奈の電話の邪魔にならないように、と小声だが。 俺たちのことを呼び捨てにする上、自分のこともさん付けでは呼ぶなと言い放ったため、俺も明美も俊哉のことをそう呼んだ。運転席のシートの肩に手をかけて、明美は俊哉のすぐ横でそう言ったので、彼の表情は俺からは見えなかった。 「辰巳は車持ってないから、すっごく助かったよ」 ちょうど発進するところで、慣性の力によって明美は座席に戻った。ようやく見えた俊哉は笑っていた。 「いいから。ちゃんと座れ。あぶねえぞ?」 「ん、ありがと」 いつもの笑みを返す明美。もう初対面という遠慮はとっくになくなって、昔からの友達のように屈託なく俺たちは話ができていた。 俊哉は微笑んだまま、明美がシートにちゃんともたれかかるのを確認してから、 「持ってねぇの? お前」 ちら、とミラーで俺を見た。俺は軽く口元をゆがめる。 「免許は持ってるんだけどね」 しかし持っていないものは持っていないのだ。車は金がかかるし、俺の住んでいるアパートに駐車場がついていないし、どうしても必要ならレンタカーででも……と俺としてはいろいろと理由があるのだが、結局ズルズルと買わずにいる。 「もったいねぇな。 まぁ、車が必要なら俺に言えよ。暇があれば足にはなってやるから」 後半を明美に向けて言った俊哉に、明美は一瞬驚いたように黙ってから「うん、優しいのね」と言った。
水族館はそれなりに見甲斐があった。水槽の数も多く、一通り巡ると結構疲れる。それでもまだまだ元気そうな明美たちが空腹を訴えたので、敷地内にあった全国チェーンのファーストフード店でかるく昼飯をとることになった。 「ねぇねぇ――」 アイスティを片手に、明美が俺たち三人にパンフレットをタイムスケジュールのページを開いて見せた。十五分後、ちょうどアシカのショーをやるようだ。そのことを知った明美に俺はひきずられるようにしてステージのある建物へ向かうことになる。 明美曰く、 「行こ?」 の一言だ。かろうじて疑問符がついているが、反論は不可能である。 真奈も高校時代から慣れっこなのだろう。あっちだね、と館内の地図片手に方向をしめしていた。 今日はよく晴れていた。二日前に大雨が降ったのが嘘のように、空には雲ひとつない。梅雨明けは今週末だろうということなので、梅雨の晴れ間といったところか。そんなに気温はそれほどでははずだが、湿度が高いのだろう。屋根もない屋外。日差しも強く、じんわりと首筋に汗をかいたので、俺は擦り付けるようにして右手を首にやった。 あちぃ…… 「あれ? 俊ちゃんは?」 通りがけにあったので寄ってみた『磯の仲間達』というゴツゴツとした岩で囲まれたスペースの、ヒトデや名前もわからない小魚の話で盛り上がりつつ歩いていると、真奈はそう言った。 「え、知らないのか?」 俺はステージのある建物の前で、真奈を振り返る。軽く帽子のつばをあげ、三百六十度見回している彼女は、すこし不安げにみえた。かぶっている白い帽子のつばが視界をさえぎるらしく、『磯の仲間たち』スペースを離れた時点で俊哉がいなくなっていることを知らなかったらしい。俺は彼女が気付く前に、すでに俊哉の姿がないことには気付いていたが、真奈が何も言わないので、行き先は彼女が知っているだろうと思っていたのだ。 俺と明美も何もしらないことを聞き、真奈は首をひねった。 「トイレかな?」 「うそ〜、普通勝手にいなくなる?」 「ん〜でも俊ちゃんだから……」 呆れつつもその理由で納得している俺とは反対に、明美は不快をあらわにする。腕時計を確認し、 「え〜ショー、もう始まっちゃ……ゥキャッ!」 ステージの入り口にかかっているショーの予定が書かれた看板を見ながら、明美がそう言……い切る前に奇妙な悲鳴を上げた。俺が驚いて明美を見ると、彼女の後ろに俊哉がいた。 「変な声。ほら?」 笑いながら持っていたペットボトルのお茶を俊哉は明美に渡した。頬を押さえたまま――どうやら突然冷たいペットボトルを頬に当てられたらしい――怒っていいのか、礼を言っていいのか判断がつかないうちに、明美はそれを受け取ってしまっていた。 「茶でいいだろ? 昼もアイスティ飲んでたしな。 ほら、真奈。お前はオレンジジュースな」 「うん」 こちらは慣れたもの。真奈は当たり前のようにそれを受け取った。 「それを買いに行ってたのか」 丁寧に俺の分まで(俺の好みは何も聞いてこなかったが)買ってきてくれている茶を受け取りながら、俺がそういうと、俊哉は「んぁあ」と生返事で肯定しつつ、さらに茶を取り出した水族館の名前の書かれたビニール袋をガサガサとあさった。 「それと、さっきから明美ちゃん暑そうだし、これでもかぶったほうがいい」 「きゃ」 そう言って突然明美の頭の上に俊哉が乗せたのは水色のキャップで、前面に大きなワッペンのはってあるものだった。肩口にフリルのついたかわいい系統のブラウスを着た明美には、少年っぽいそのキャップの落差が逆に可愛く見える。 「はぁ〜、どこまでかっこつけんだよ」 俺にはやはりできそうもない。心からの感嘆の息をもらしつつ、俺はその趣味の良さに感心した。けして高いものではないだろう。しかし妙にマッチしている。どうしてこの感性の持ち主が、あんな車の所有者なのか甚だ疑問だ。 ペットボトルを持ったまま、明美は黙ったまま呆然と俊哉をみている。そして俺の言葉に俊哉は、にやっと笑った。 「そこの売店にあってな。まだそんな陽射しも強くないけど、ステージは屋外だっていってたろ? まだまだ暑いし、熱中症になったら困るしな」 「売店があるの? どこ?」 オレンジジュースのフタを開け、一口つけたところで真奈が話題に興味をそそられたように俊哉に聞くと、彼は微笑みつつ答えた。 「そこだ。出口に近かったから、ショーが終わってから、皆で行くか」 「うん。ってショー始まっちゃうよ!」 ようやく気付いたかのようにそういうと、真奈は入り口のほうへ歩き出した。 しかし俊哉はその後すぐに歩き出さず、明美をじっとみて、納得したように頷いた。軽く彼女の頭を二度、ポン、ポン、と叩き、 「やっぱかわいい、かわいい」 俊哉は嬉しそうな笑みを浮かべ、そのまま真奈に続いて建物に入っていく。自分の選定に満足したらしい。 遅れるわけにもいかない。俺も横にいる明美を促す。 「明美」 「……うん」 しかしなんとなく明美の元気がない。おかしく思い、俺はキャップのつばで隠れた明美の顔を下から覗き込むようにした。 「どうかしたか?」 「ん、ん〜ん。なんでもない、行こ?」 明美のその返答はいつものものだったから、俺はそれ以上彼女の顔を覗き込むことはしなかった。
「不安は、なかった?」 カノジョの再度の問いに、オレは答えをもたなかった。
|
|