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REMEMBER 作者:奇伊都

第1回   思い出す

――Don’t you remember you?


 空気がぬるい。全てが溶けていく、この温度。人の雑音、存在。それらがこの世界に確かにあるのだとは思えないほど遠い。いや、酷く近いのに、はっきりと知覚することが困難なのだ。自分がまるで波に漂うクラゲのように思える。ここにあるのは透き通ったカラダ、確固としないカタチ。もしかすると実際にここにはないのかもしれない、というところまで思考は進む。
 自分の全てを忘れてしまいそうになる。
 そんな夏。



「何してるんですか?」
 後ろから突然声をかけられ、オレはしばらく動かなかった。
「もしも〜し?? 聞こえてます……か?」
 右肩に二度、軽く叩かれた感触が生じ、ようやく自分に向けられている言葉だと認識した。だが何の感情の動きも起きなかった。勝手に、そう、自分の意思に関係なく、首が動き、カノジョを見た。
 カノジョ――別にオレの恋人という意味でなく、一般的に女性という意味で――は重ね着された明るい緑のキャミソールに、木製っぽい大きな玉の首飾り。茶系統だかはっきりとした色のシャドウや、暗めの口紅。上で結られ、微かに風で揺れている茶髪。全体的にエキゾチックな雰囲気。美人というよりは、かわいいというほうがしっくりくる容貌をしている。そしてすこし困惑気味の表情で、こちらを見ている目は大きくみひかれていた。
 その目の中に映ったオレがあまりにもぼけっとした顔をしていたので、オレは自然と苦笑ぎみに頬が引きつった。――オレ、今こんな顔してたのか。
「何か?」
 カノジョは俺の記憶に存在しない人間だった。
 未だに呆然としているようなオレの返答に、カノジョは言葉に詰まったように唇をすぼめ、すこし視線を右斜め下に泳がせている。視線の先は――ただの手すりだった。
 その手すりは今の今までオレが寄りかかっていたものだった。屋外であるし、金属製でもあるのだから本来であるならば、日中の直射日光、また最近の超高外気温により、触ることすら躊躇するほど熱されていただろう。だがここは駅前の歩道橋に繋がる通路のわき。真っ昼間はちょうど良く陰らに入る。いつの間にか手すりの端の方、駅の建物の影からはみ出しているぐらい。よって今も左の肘をついたまま、カノジョの行動を見ていることは可能だった。
 カノジョは自信なさげに、すこし曲がった右人差し指で手すりを示した。
「え、とぉ……ここに、何か、あるんですか?」
 何かを言おうとして、どう言えばいいかわからず、何でもいいからとにかく口に出してみた。そんな感じの問いに聞こえる、だからオレは実際にカノジョが何を言いたいのか理解できなかった。
 ここにあるもの―――――――手すりだ。
 それ以外の答えなど見出せず、しかしさすがにその答えをカノジョが求めているとは思えず、オレは手すりをじっとみて、他の回答を探していた。だがその反応が、オレが気分を害したと思ったのか、彼女は慌てて
「ご、ごめんなさい……」
 末が消え入るような声で謝ってきた。
 謝られるようなことは何もない。オレは逆に謝られることに驚いた。それとともに、っ、と胸に痛みが走った。オレは心臓に疾患があるわけではない。それでも確かに、今、胸の痛みを感知した。人のココロとは面白いものだ。身の内に心は存在などしない、形などありはしない。なのにココロが痛いと感じると胸に痛みを感じるのだから。
 イッソイタミスラナケレバイイノニ
「あの、ですね。ここから、そこの、噴水がみえるじゃないですか。
 私、一時ごろ、あの横を通ったんですよ」
 ここは二階であるから、手すりの向こうは駅前の広場を見下ろす形になる。周囲の道路から、そこだけを抜き出すかのように緑で囲まれ、無機物的な長方形の柱時計が中央の噴水と並び立つ広場。日中は暑さを厭うようにしながら、何人もの人間がとおりすぎていった。
 オレはそれを見ていたはずだ。太陽が動き、影の形も長くなってきている。確か……ほぼ真下に影がきて、広場にはほとんど影のない風景が記憶にあった。
「遅くともそのときから……」
 柱時計の短針は四の数字をすぎたところだ。
「ずっと、ここにいますよね?」
「――ああ、そうだな。そう、だった……かな」
 ぼんやりとした返答しかできなかった。カノジョはその一時ごろに、すでにここにいるオレを目撃したらしい。
 曖昧な返事はカノジョの質問をどうでもいい、と考えたためではない。記憶がはっきりしなかったのだ。けして記憶喪失にかかっているわけではない。自分の名前――菅原辰巳、住所――ここから徒歩十分の安アパート、職業――夜間の大学生・昼間のバイト人。プロフィールは完全に頭の中に存在する。
 ただこの数時間の記憶の、時間はとても長く、短い。存在感が大きく、小さかった。
「何をしていたんですか?」
 その問いの答えはオレが教えてほしかった。





 涼しい。寒い。どちらともいえない冷房がかかる喫茶店。
「別れない?」
 目の前に座っていた俺の彼女――これはまさに恋人という意味で――はそう言った。左手でアイスティのグラスを支え、右手はストローでシロップをかき混ぜ、両目はまっすぐ俺の目を見据えていた。柔らかいバイオリンの音が耳を通り過ぎていく。BGMでかかっているのは、聞き覚えがあるので、おそらく有名なクラシックだろう。
「なんで?」
 間抜けな問いだったと自分でも思う。彼女はカラカラと大きな氷をグラスのうちで鳴らしながら、しばらくジッと俺の目を覗き込むようにして見つめていた。
 彼女は最近、よく俺の目をこうやって見た。何かあるのか、と聞いても笑って首を振るだけ。しかしいつもそういうときは、何かを期待されているような気がし、そしてそれに俺が気付けていないような漠然とした焦りを感じていた。
 運良くなのか、悪くなのか、喫茶店の客は俺と彼女と、隅の方で新聞を読んでる営業マンらしき男だけだった。店員は皆厨房のほうにはいっていて、こちらには気を配っていないように思える。
 沈黙にじれたように、彼女は口を開く。
「私に何か、言うことない?」
「何か……って?」
 本気でわからず、俺はそのまま問い返したが何も返答はない。ただそのまま彼女はうつむいた。
「明美?」
 訳がわからないまま、彼女を呼んだ。すると顔を上げ、意思の強い瞳を俺に見せた。
「……うん、やっぱり別れよう?」
 彼女は――明美はそう言った。
「辰巳に名前を呼んでもらっても、もうドキドキしない。それどころか、なんだか疲れるの。気持ち、冷めちゃったんだ。
 だから、別れよう」
 何が、だから、なのか?
「ちょっと待てよ。そんなのが理由なのか?」
 さすがに納得できずに俺は、レシートを持って立ち上がろうとする明美の手を掴んでひき止めた。すこし声を大きくしすぎたのか、営業マンが一瞬こちらをうかがったのが見えたが、俺は無視して続けた。
「ちゃんと説明しろよ。俺の何が気に入らないんだっ?」
「……全部よっ」
 振り下ろす要領で明美が手を振り払うと、腰をあげかけた体勢の俺に、仁王立ちをするかのごとく堂々と向かった。その表情は……怒り。
「辰巳のこと、好きじゃなくなった、もう愛してない。これでダメならはっきりいったげるっ。
 側にいるのが苦痛なの!」
 俺は声がでなかった。ショック、というのは受けた瞬間はそれとは気付けないらしい。
 気付いたら俺はまだ残っているアイスティのグラスを二つ、目の前にして座っていた。レシートと明美の姿だけがそこにはない。
 昨日の、午前中のことだった。





 すっと動いた手に一瞬気をとられた。
「あの喫茶店ですか?」
 話が一段落するのを待って、ようやく口を開く機会がまわってきたのに、カノジョが言ったのはそんな質問だった。
 カノジョは先ほど曲げた状態で手すりを示した人差し指で、今度は真っ直ぐ伸ばし、広場の向こうの道路を挟んで斜め左にある店を指していた。流麗な斜め文字で『アレグロ』と書かれた木の看板。メニューの書かれた黒板が置かれたミニチェア。入り口の扉のガラスにはチェックのカーテンがかかっている。かわいい店――明美はそう表現していた。
「そう……」
 だったような気がする。
 オレは今思い出した記憶が、現実にある場所で実際にあったことだというのがうまく飲み込めなかった。あの店に、昨日、俺は確かに明美と行った……はずだ。
「彼女に振られて、そのことをここで思い出していたんですか?」
 振られ……
 結果を言葉にすると確かにそうなる。そうか、オレは振られ、たのか。うん、そうだな、振られ、たんだな。
 しかし、ここでそのことを思い出していた。というのは何か違う気がした。
「……覚えてない」
 オレは何をしていたんだろう、ここで。
 喫茶店が見える場所。ここは確かにそうだ。だから振られた――未だにこの動詞を明言するのに違和感を覚えるのは何故だろう?――ことを思い出す場所としては、違和感はない。だがそれなら実際にあの喫茶店に行けばいい。閉店しているわけでも、客の多すぎる店であるわけでもないのだから。
 なのにあえて、冷房もないこんな場所でジッとしていた。
「オレは何を考えていたんだろう……」
「……自分が思いだせないんですね?」
 カノジョはそう言って、両腕を組み、手すりにもたれかかった。それをオレは黙ってみていた。
 よく考えなくとも、カノジョは奇妙な女性だ。少なくともオレはそう思う。手すりに数時間ももたれかかった状態で、うつろな表情のままぼーっとしているような見知らぬ男に話しかけてくるなんて……
 カノジョはオレのそんな感想に気付かないかのように、上をゆっくりと見上げた。
 ふわりとそのとき覚えのある香りがオレの鼻に届いた。――明美と同じ香水だ。
「そんなときってありますよね。特にこんな日は、頭が芯からボーっとしてきて……」
 陽射しは日中に比べ、柔らかくなってきている。
「私も彼氏に振られたところなんです」
 空はわざとらしく、青かった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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