ほっとしつつ、気持ちを改めるため大きく息を吸った。 純はそれについても話したいことが、いや話さなければいけないことがあったのだ。 問いの答えを言わずに、陽凛のほうを見る。 「陽凛、話し続けで喉が乾いたわ。白湯を持ってきてくれない?」 不自然さなどない口調で、いつもどおりというように。 均実は亮と陽凛をみた。 亮は黙って純を見つめている。 「…では失礼しますね。少々時間を頂きますが、御用がありましたらお呼びください。」 陽凛はそう言って部屋をでていった。 そして去り際に均実に向かって深く頭をさげた。 頼んでくれた。 純は陽凛のその動作を、感覚的にそう感じた。 きっと陽凛は自分が何を話そうとしているかわかっている。そしてそれを聞いてもらいたくないと、自分が考えていることも…… 均実はその姿が全く見えなくなったことを確認してから、もう一度口を開いた。 「……あの人は純ちゃんが日本に行ってたこととか、全部知ってるんだね。」 「うん……、私が『門』をみることができるのを知ってるのは、陽凛と父上と母上の三人だけで、その三人には話したから……」 陽凛は均実に何を頼んだのか。 わざわざ陽凛をこの部屋から出した理由を問うように目をやると、純は暗く笑った。 「圭くんと付き合っていたこともね。」 均実ははっとした。すこしだけ亮の様子をみやったが、やはりただ純を見つめているだけだった。 日本で一年後輩の岡田圭樹と、純は付き合っていた。 純は彼を好きだということを隠しもしなかったので、均実も知っていることだ。 なのに純は亮と結婚することになっている。 自分の一言が何を示しているのか、親友がわかってくれたことがわかり、純は笑みを浮かべた。 自分に戻ってきた均実の視線を、きちんと受け止める。 日本には、もう行くつもりがないのか。 その同時に抱いたであろう疑問を、答えなければいけないと改めて息を吸った。 「……父上も母上もね。私がいつかまた日本に行ってしまうんじゃないかって、不安に思ってるんだ。私が日本の話をするのも嫌がるし。」 陽凛ですら、そう感じているのを純は知っていた。 その不安は重かったが、逆に暖かかったりもした。ここがやはり自分の居場所なのだと、感じさせてくれたから。 「特に父上は日本と関係のあるものを、できるだけ私の周りから排除しようとまでしてる。一番不安なのは父なのかも……って考えたらヒトの言い訳も感謝しなきゃね。」 純はそこまで考えて、何故均実が庭で純は怪我をしたのだといったのかわかった。 顔の怪我が痛くて泣いていたと、あれなら言えるだろう。 均実が日本にいたころからの知り合いだと、父にあの庭でばれていたらどうなっただろうか。わからないが、自分が亮との結婚話をうけいれた、大元の意味がなくなるのは確かだった。 周りの不安を増長させたくなかったから。もういなくならないのだと安心してもらいたかったから、うけいれた結婚なのだ。 これが周囲の不安を拭い去る最後の手だった。 この世界に来ているだろう均実を探してほしいと、父に頼むこと。『門』を開くため、自分が死の危険にさらされるような場所にいくこと。陽凛に自分の望みを答えること。 それらをしなかったのは全て、安心してほしかったから。 「日本とこの世界。それぞれとの絆。どちらかを切るとか、そうじゃなくてただ……ここからいなくなることはできないの。 だから日本に行くことはもうできない。」 ずっと実の父母のことは忘れてなどいなかった。日本でいくら長く過ごしたとしても、ここが自分の世界だとわかっていたから。 「……ほんとはヒトに会いたかった。それに……もう一度だけでもいいから」 今まで口にださなかった本音。今にも消えるような大きさの声なのに、自分の耳に何より響く。 開いた口が強張ったように不自然に動いた。 「圭くんに、会いたい。」 顔が歪むのは止められなかった。 確かに圭樹が好きだった。だから圭樹は自分にとって、日本にいることを決めた象徴のようなものでもあったこともわかっていた。 何年もかけて築いた日本という世界との絆。 それをこれからも続けるのだという、自分自身への象徴。 だが、それはもう手の中にない。 ずっと言いたかった。誰かに。 ずっと言えなかった。誰にも。 言ってしまえばただの一言なのに。それで大きくなるだろう不安に耐えられなかった。 やっと戻ってきた娘に、周りはすごく良くしてくれる。そう望んでしまうことを、まるで裏切りのように心苦しく感じていた。 純はそこで一度目を閉じて、開いた。 夢は……覚めたのだ。 こちらに戻ってからの一年。それまでの十数年を埋めるかのように勉強した。言葉はわかるけど、書くことはできない。だから基本的なことから全部。 それが嫌なわけではなかった。本来の居場所を取り戻すための努力だったから。 だがそれは全て、日本との関わりを消す作業のようにも思えた。日本で過ごした十数年をなかったことにするかのようで、ずっと自分の中で矛盾が積もっていった。 十数年を懐かしむ気持ちと、自分の本来の居場所を今度こそ守りたい気持ちが、自分を引き裂き苦めた。 陽凛はいわずともわかってくれていた。それも知っている。いや、陽凛だけでなく、父や母もわかっていたに違いない。 自分を囲む優しい人々。 今の純にはなによりそれが大事だったのだ。 「でも結論は出てるんだね。」 均実は断定した。 いままで黙って聞いていた。純の言葉を。その響きも。 それから感じ取られたのは迷いではない。懺悔に近い。 ただ吐き出してしまいたかっただけだろう。その矛盾を。 口元にだけ笑みを浮かべ、悲しそうな瞳で純ははっきりと、一度頷いた。 「……黄綬が相川純としてあちらで過ごしたのは、間違いないけど、黄綬はこの世界の人間だもん。」 一年間、ただ郷愁の思いに浸っていただけではない。 この世界で生きていく、その覚悟はもう定めていた。 純は亮のほうを向いた。 彼が自分の夫。黄綬が支えるべき人。そして支えてくれるだろう人。 きっとやっていける。大丈夫。 「……不束者ですがよろしくお願いします。」 「こちらこそ。……君が選んだ絆が、君にとって心地の良いものになるよう、私も頑張ろう。」 優しい声、労わってくれるのがわかる。 純は亮の言葉に、苦しかった心がほぐれるのを感じた。 二つの絆をどちらを選ぶかは、こちらに帰ってきたときにもう決まっていた。ただどちらをとっても何かを失うことが、自らを夢に縛りつけた。 亮はその純の失うものへの覚悟を、真正面からうけとってくれたのだ。 きっといい夫婦になるだろう。 均実はその会話を聞いてそう思えた。だがそれは…… 「黄先生の娘として、結婚するってことだよね?」 何故、今更そんな当たり前な質問を均実がするのか、純は疑問に思いつつ頷いた。 それをみて均実は、笑みを浮かべた。 「そっか……、おめでとうっていうべきかな?」 「うん、ありがとう。」 応える純の顔にもう曇りはない。 こんな早く同級生が結婚するとは思わなかった。 均実はそう思いつつ、亮のほうをむきなおす。 「亮さん。純ちゃんを、お願いしますね。」 頭をきちんと下げてそう言った均実の表情を、その場で誰も見ることはできなかった。
無事に承彦の娘、純の気持ちを持ち直させることに成功し、承彦に感謝され亮と均実は隆中に帰ってきた。均実は部屋に戻り夕餉を済ますと、部屋の中でじっとしていた。 悠円と話すこともなく、ただ座ってある一点を見つめている。 だがそれは屋敷を出たあとに見た、襄陽の市場での大道芸を思い出しているわけではなかった。 純はこの世界の人間になることを選んでいた。それはもう潔いと思えるほどに。 もともとこちらの世界の人間だからか、彼女は「日本に行く」といった。……「帰る」とは言わなかった。 きっと彼女は、もうその心を変えることはないだろう。この一年間でその決意は固まっているのだから。 だが均実にとっても日本とのつながりは、純の能力しかないことまで、彼女はわかっていなかった。いや、わざとわからせないようにした。 純はここで幸せになるだろう。……日本との絆を切ったから。 再び自分のためにつながせてはいけない。 均実が帰りたいと思っていることを、純が知る必要はないのだ。 幸せになるだろう親友を、苦しめたくはなかった。 それにそのことがなくても、問題はある。 そもそも『門』というもの自体が不確定なものらしい。純が言うとおりなら、『門』の行き先がどこかは、誰にもわからないのだ。 そんなものを使って日本にいこうとすることなんて、宝くじの当選金で衣食住をまかなおうと画策するようなものだ。変な世界に、例えば縄文時代にでも飛ばされればどうすればいいというのか。土器なんて均実には不器用すぎて作れないだろう。 ……話がずれた気がするが、つまりは『門』に入ることができても、日本に帰ることができる確証はどこにもないのだ。 そしてまだ、それよりも大きな理由がある。 日本に帰ることができるかもしれない『門』が現れるのは、その人が生命の危機に陥ったときだけ。 だがその『門』は均実には見えない。もし日本に帰ろうとして危険な場所に行くとしても、純の目の前でその状況に陥らなければ、本当に死んでしまうだけだろう。 だがここでは、純は亮の妻だ。 純の目の前で……となると、当然亮の目の前でもあるだろう。それはできない。 ただでさえこの一年間迷惑をかけまくっている。 これ以上亮に迷惑をかけたくない。 そんな心臓に悪いこと、……ましてや均実の命が危険にさらされるところを見せるなんてことすれば、きっと亮は本当の弟の均を思い出す。そして……きっと苦しむ。 絶対にできなかった。 「帰れない……」 ぽつりとそうつぶやくと、それが現実であることをより実感する。 いつかは帰れると漠然と思っていた。ここにきた方法さえわかれば。 それが否定されてしまったのだ。 自分は何をするべきなのか。 均実は目蓋の上に手を置いた。 きっと何かあるはずだ。一体どうすればいいのか、今やるべきことが。 何か……
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