「……帰ってきませんね。」 もう二十分ほど経っただろうか。 唯一日本から持ってきた服以外のものであるGショックは着物の袖に隠れるようにして、二の腕につけている。わざわざ見るのがめんどくさいので見ないが、それぐらいは経っただろう。 いい加減待つのに飽きてきた均実はそういいながら、部屋の入り口から身を乗り出し、承彦の去っていった方向をみた。 本気で人がいない。 「こんなだから娘さんの噂が助長されるんですね。」 均実はそういいつつ、部屋でおとなしく待とうとしている亮を振り返った。 そうやってキョロキョロ、キョトキョト、チョロチョロしているとさすがに亮も苦笑した。 「つまらなそうだね。」 「はぁ。りょ、……兄上は黄先生の娘さんってどんな人だと思います?」 名前で呼ぼうとして、周りに人は居なそうに見えるが念のため言い直した。 一応ここは亮の屋敷ではないのだから、用心するべきだろう。 「さてね。黄先生の話では、なかなか聡い娘さんらしいが。」 「噂は本当だと思います?」 「さぁ? どっちでもいいと思うけど。」 亮はあごに右手をやった。 「顔の美醜など大した問題じゃないだろう?」 「……兄上がいうと、嫌味にきこえます。」 亮は本当に整った顔つきをしている。だが全くそのことには気付く予定はなさそうだ。 その言葉に亮が眉をしかめたので、均実はため息をついた。 「自分の顔を見たことないんですか?」 「それはあるが……」 「世間一般ではその顔を美形っていうんですよ。」 「ははは、またそんな冗談を。」 予定どころか、可能性もないらしい。 どうも亮は綺麗なものを綺麗だと思う感情を抱き難いようだ。 そういう結論にたどりついたとき、庶が呆れたように似たようなことを言っていたのを均実は思い出した。 「そういえば、私が出かけている間に遊郭に庶さんとでかけたらしいですね。」 「え、ああ。無理矢理連れて行かれてね。何だか有名な美女がいるという戯楼に、その女性を一目見にいこうと言われたんだ。」 「綺麗な方でしたか?」 均実の言葉に亮は顔をしかめた。 「皆が騒ぐような特徴を持ってる方ではなかったな。目も二つ、鼻は一つで、口一つ。何も変わったところなんてなかったし。」 ……いや、そんな人間の顔の特徴が違ってたら、美醜どころの話ではないだろう。一つ目に鼻が三つで、口二つの美女が実在する話なんて聞いたことがない。 「それに何だか言葉じりや振る舞いがいちいち気どった感じがして、あまり良い印象は受けなかったが。」 つまり別に綺麗とは思わなかったらしい。 庶がいうには、その人は今遊郭街では人気絶頂の女性らしい。美しいだけでなく、その話術も人を楽しませることに長け、ときおり見せる流し目に狂った男も幾人か、という話だ。亮の感覚を一般的に綺麗であるものをみせることによって、磨こうと思った(どうせ実際は自分が見たかっただけだろうが)のだが、全く無駄だったという。 そんな感覚の持ち主が美形というのは、全くもったいないというか何というか……。 「それにしても、どうしていきなり話が飛んだんだい?」 均実の考えをさえぎるように、亮が言った。 亮にしてみれば、自分の顔の話から、何故遊郭に行った話になったのかわからなかったのだ。 「ただの美的感覚についての再確認です。」 「は?」 まあこういう風に通常の感覚の持ち主でないなら、たとえ噂が本当でもきっと大丈夫だろう。均実は軽い安心を覚えた。 「美しいとか、綺麗とかって感じたことなさそうですよね。りょ、…兄上って。」 危ない、危ない。また名前を言いそうになった。 どうも慣れないので、いつかサラッと言ってしまいそうだ。 だが亮はその言葉に心外だという顔をした。 「あの星空は綺麗だったと思ったが?」 そういわれて、均実もああそっかと頷いた。 均実が隆中を旅立つことを亮に告げた夜。二人でみた星空は、幾千幾万もの星々がそれぞれ輝きあい、闇のビロードの上で煌いていた。 あれを均実が綺麗だというと、亮も同意したのを思い出した。 納得しそうになったが、 「……ですけど、私がいうまで考えてなかったっていってたじゃないですか。」 今まで星空を綺麗だと思って見上げたことなどなかったとも、そのとき言っていたことも思い出した。 「まぁ、ね。」 均実はそういう亮の美的感覚について、最終的に次のように結論付けた。 綺麗なものにかなり鈍い。特に人の顔については全くそう感じない。 特に問題はなさそうなので、均実はそのことについての追究はそこで打ち止めにしたのだった。 「あぁ〜……暇ですね。」 これだけ話していても承彦は現れない。 堪えきれず部屋の外に出たが、亮は困ったように笑っただけで止めはしなかった。 庭には入り口から見える位置に、大きな池のようなものがあった。そこまで均実は歩いていくと、大きく伸びをする。 まったく広い屋敷だ。池だけでなく、いろんな木が植えられていて、手入れをしない亮の屋敷の庭とは違い、なんだかこう威厳のようなものがある。 が、その時承彦らしき声が何か叫んだように聞こえた。静かな屋敷であるがゆえに、それはあたりの雰囲気を張り詰めさせた。 「へ、何?」 「ヒト!」 懐かしい呼び名と声。 この名で均実を呼ぶ人間は一人しかいない。 衝撃と驚愕。均実は声のするほうに顔をむけた。 華やかな色の着物を着た一人の女の人が、ある窓際でなにやら後ろの者ともみ合っている。髪を振り乱さんかのように激しく何か言い合っていた。 その一人が承彦であるのに均実は驚きつつ、吸い寄せられるようにその窓の側に走り寄った。 今の声って…… たどりつく前にその人は後ろの手を振り払い窓に足をかけた。 ぐっと顔をあげ、こちらをみて手を伸ばしたその人は、この一年、一体どうしているのかずっと気にしていた人物。 純だ。 一年ぶりの親友との再会だった。 均実の驚いた顔をみて、純は今にも窓から飛び出さんかのように身をのりだす。 「ヒトっ」 「じゅ」 名前を呼ぼうとしたとき、 ドケシッ としか形容のしようがない音が響いた。 純が窓から落ちたのだ。 「……」 「……」 誰も何もいえない空間が広がる。 窓から見える承彦の顔も口がぽかっと開いたままだし、その側に何人もいる家人らも固まったように動かない。 裾の長い着物で、しかもよく見ずに窓から飛び出そうとすれば、引っ掛けてこけるのはわかりきったことだろう。 顔から地面に突っ込んだ純は、窓の下でうずくまっている。 「……大丈夫?」 均実がそんな純の前にしゃがみこみ、声をかける。 純は顔を下げたまま、均実に抱きついた。 「うわぁっ」 その勢いに押され、均実は後ろにしりもちをついた。 なんだか前にも同じようなことがあったような気がする。全然彼女は変わっていないようだ。 「ヒトだぁ……っ……本物のヒトだ……」 泣いているのだろう。純はしゃくりあげながら小さく言った。 嬉しかったのだ。この世界にいるかもしれない。そう思っていたけれど、本当に会えるかはわからなかったから。 「……無事でよかった。」 心から安堵しながら均実はそうささやいた。 淡い山吹色の衣につつまれた純が窓から身を乗り出した姿をみたとき、本当に純なのかと思った。本当にお姫さまのようで、自分を呼ぶその声以外は、まったく違う人のように思えた。 だが純は確かに純だった。 すこし猪突猛進的なところがあって、でも愛嬌がある女の子。 本当に心配していたのだ。だいぶ前になるが、純が死んでしまったという縁起でもない夢までみた。 均実も混乱はしていたが、また出会えた親友が嬉しくないわけがない。 崩れるように泣いている純をみて微笑んだ。 自分の顎のすぐ下に、純の頭がある。かすかに震えるように動いているその頭は、綺麗に結い上げられて、いくつも髪飾りをつけられている。着ている物も均実が許都で着せられていた物のように、美しい光沢をもっている布だった。 その布の上から背中をゆっくりさすってやる。 「すまん。それがわしの娘だ。」 窓から承彦がこちらを覗きながら、頭に手をやりながら顔をしかめていた。 娘って、この場合……純ちゃんのこと、よね。 均実は純の体を抱きしめながら、承彦の顔を見上げた。 ……この状況って、ちょっとおかしいかも。 自分はここでは諸葛均。それで純は承彦の娘。 面識があってはおかしいだろう。だが純はさっき思いっきり窓から、自分の名前を呼んだではないか。 うわっ……どう説明しよっ? 均実は次から次へと起こる予想していなかったことに、頭がついていかなくなってきたことを感じながら、恐る恐る声をだした。 「あの……」 「まったく……人だと叫んで、窓から飛び出すなんてことをやるような娘ではなかったのだが。家族や家人でない者の姿をみることがあまりないものでな。世間知らずな娘で、君には迷惑をかけた。」 純が叫んだ均実の名前をヒト=人、と勘違いしたのだろう。 昔は純が自分をこう呼ぶことで、いじめられたこともあり、好きではないあだ名だったが、このときばかりはいくら言ってもそう呼ぶのを止めなかった純にすこし感謝した。 「いえ……気にしないで下さい。」 めんどくさいから訂正しないでおこう。 均実がそういいながら後ろに気配を感じて振り返ると、亮がいた。 すっと動いて均実の横にしゃがみこむ。 「あ……兄上?」 「ああ、婿殿。恥ずかしいところをお見せした。」 承彦のその言葉に純の肩がピクリと動いた。 純が承彦の娘だとすれば、彼女が亮の嫁になる予定である人ということだ。 均実が純を見下ろすと、身を硬くしたのがわかった。 「これ、綬。ちゃんと名を名乗らんか。」 均実に抱きついたまま黙っている純に、厳しい声が届く。 亮は純の顔を覗き込むように頭をかたむけ、承彦とは正反対の優しい声音でいう。 「お会いできて嬉しい。私が諸葛亮だ。」 「……私の名前は黄綬。字を月英と申します。」 「どうかされたのか?」 均実の胸に顔をおしつけたまま、顔をあげない純に本当に心配げに聞く。 あ〜……そっか、いま顔を上げたら泣き顔なんだよね……。 何故純が顔を上げられないのかという疑問に、均実はそう思った。 泣き顔をみられれば、何故泣いたのか聞かれるだろう。 亮に均実と純が友人であることがばれても問題はないだろうが、この場には承彦がいる。純がどういう経緯を経て、彼の娘ということになったかは知らないが、下手にばらさないほうがいいかもしれない。 均実はそう思って亮を見た。 「あの……月英殿は窓から落ちたときに顔をぶつけたらしくて、それをみられたくないって。それにそれがすごく痛いらしいんです。 ……よね?」 純は何もいわずに頷いた。 何故均実がそんなことを言ったのかわからなかったが、こういうときは均実に任せておいたほうがいいと、わかっている。 「そうなのかい? ……ふむ、とにかく手当てをするべきだね。」 といって、亮は純の肩に手をやった。均実が何をするのかと純から手を離すと、亮はぐいっと抱き寄せ、純の頭は均実から亮の胸に移る。 「え、あ…の?」 純が困惑したような声をだす。 そのまま亮は彼女の膝下に手をやって固定し、立ち上がった。 うわぁ……お姫様抱っこだ。ていうか、……似合いすぎる。 均実は亮のその姿が、妙に笑えてしかたがなかった。 王子だ。王子様だ。これで後ろに馬がいて、それが白馬なら言うことがない。 「これで動けば痛くないかい?」 あくまでも優しく、亮は微笑んだ。
均実の口からでまかせも、一応本当だった。鼻の頭をすこしすりむいたぐらいだが、ひりひりする。 自分の部屋に運ばれると陽凛が慌ててやってきて、顔についていた土とかを払ってくれた。 部屋には亮、均実、純、陽凛だけだった。 承彦はさきほどの亮の純への気遣いが気に入ったらしく、ここは大丈夫だといわれ機嫌よく書斎に戻っていった。 「そうか。無事に会うことができてよかったね。」 手当ての間に均実が亮に事情を話すと、そういわれた。 顔を拭っている布を陽凛が顔から話すと、純も笑顔を浮かべた。 冷たい水に浸した布を目元につけていたので、泣いてすこし腫れた顔も戻ってきた。 その顔は病気でできた腫れ物もなければ、火傷などの目立つ傷もない。自分と同じ東洋系の顔だった。 やはり噂は噂だった。 純は別にブスではない。すごく、というわけではないが可愛いほうの部類にはいるだろう。噂のことをいうと、純は笑みを深めた。 「そんなこと言われてるんだ。」 「友人達にはもうそんな噂をしないよう言っておこう。」 「気にされなくていいですよ。私も気にしてませんから。」 亮が提案したことに純は首をふった。 「それよりヒトはなんでここにいるの?」 「う〜ん……成り行き?」 「ヒト。説明嫌いはいい加減直してよ。」 呆れたようにいわれ、均実は笑った。 基本的に物事を説明するのはめんどくさいと感じる性質だ。説明されるのは好きなのだが、順序だてて相手にわかりやすく……というのはやはり苦手だった。 「均実殿は私の弟としてここに一緒に来てもらったんだよ。」 亮がかわりに答えてくれた。 「弟? ああ、そういえば今日は弟君が一緒に来られると聞いてましたけど。ヒトが?」 「亮さんはね。私を拾ってくれたんだ。」 観念して均実が説明し始めた。 塾に行くにはそれなりの家名がいること。亮には均という弟が本当にいたのだが、亡くなっていること。亮の弟に均という人がいたことを知っている人は、均実を均とよく間違ったこと。 ならいっそ均を名乗ってしまえ、ということになったと話した。 純は話を聞きながら、均実がときおり話を省略しようとすると、ちゃんと話すように強制した。 「ということ。……純ちゃんぐらいだよ。こんなに長いこと私に説明させるのって。」 日本でもそれなりに頭のいい均実は、色々学校の宿題をきかれたりするが、めんどくさいの一言で教えようとしなかった。だが純だけは別で、教えないと後々もっとめんどくさいことになるのを知っていたから、一々どんなことでも説明したものだ。 説明しとかないと、何やるかわからないという恐怖の賜物だった。 純は再び笑って侍女のほうを向いた。 「ね、陽凛。言ったとおりの人でしょ?」 「はい。お話をうかがっていると、説明がお嫌いとおっしゃられながらも、要点だけはきちんとまとめてお話になられているので、とてもわかりやすく頭の良い方だと思いました。」 「ははは……ありがとう。」 誉められたのが、均実は恥ずかしかったが、一応礼は言った。 陽凛は自分より年上だ。亮と同じか、すこし上だろう。 華やかな色の着物を着ている純とは違い、地味な落ち着いた色の着物を着ている。美人ではないが笑みが柔らかく、優しい雰囲気をもったお姉さん的な感じをうける。 「純ちゃんは黄先生に拾われたの?」 均実は先程から純が、承彦の娘として扱われているのをそうなのだと思っていた。 だが純は静かに首を振った。否定だ。 そしてそれについての説明を続けようとはしなかった。 「………」 どういうことだろう。純は自分と同じ、日本で暮らしていた人間のはずだ。 その様子に何となく不安を覚えて、均実は切り出した。 「……ねえ、聞いていい? あの時何が起こったのか、純ちゃんは知ってるの?」 全ての原点はあの時だと思う。 この世界に来る前、突然あたりが全て真っ白になり、何かに押された。 一体何がおこったのか均実にはわからないままこの世界にやってきたが、ここに純もいるということは、やはりあの時何かが起こったのは確からしい。 「うん……。すこし長い話になるよ。」 ため息をついてからそういいおき、純は話し始めた。
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