「陽凛、父上は?」 「さあ? 昼過ぎから出かけられたのは知っておりますが、どこにいかれたかまでは……。」 自分付きの侍女である陽凛はそういうのを聞き、再び目を庭に向けた。 鳥はあれからもやってきている。もちろん同じ鳥かは見分けがつかない。暖かくなってきたからか、二羽だけといわず何羽も、家族のように戯れていた。 今日もいる。鈴を鳴らすような高い鳴き声が庭に響いているのを、書簡を読もうともせずに聞いていた。 空気の動きを感じてふりかえると、陽凛がやっていた刺繍をおいてこちらに寄ってきていた。 「姫様は最近、頓に物思いにふけられるようになられましたね?」 幼いころに自分の側仕えをすることを決められてから、彼女は自分のことをずっと気にかけてくれている。頼れる優しい姉のように、時には叱咤し、時には慰めてくれた。 父母以外に自分の心がかりの内容を話した唯一の人でもある。 その心配そうな顔に微笑み、膝の上にのせていた包みをそっとさすった。 自分のその動作に陽凛の柳眉がゆがめられたのをみて、ため息をついた。 「思い出すだけでも駄目?」 その言葉に陽凛が小さく息をのんだのがわかった。彼女は何もいわない。 だが否定されるわけがないのを知っていて、問いを発する自分が余計に汚く思えた。 ここが自分の場所だと、わかっているけれどどうしても捨てきれない。けれど、周囲は捨てざるをえないように変わっていく。 このような問い、父にはできなかったし、彼の答えはわかっている。 夢は寝ているときだけのものだと。起きてからもそれを引きずるのは、愚者のすることだというだろう。 長すぎた夢。諦めることなどできないのに、時は残酷にも確実に流れていく。 「姫様……ここが嫌なのですか?」 「違うわ。そんなわけないじゃない。 ここには父上も母上も、陽凛だっている。 ……わかっているの。馬鹿なことよ。私がやっているのは。」 迷うことなくそう断言しながら、それでも包みを解くことなく、また上からさすった。懐かしむように。 中身など、わざわざ見なくてももうわかっている。 「……月英様のお望みは、何なのですか?」 他の侍女たちに聞こえないよう、陽凛は声を落として字で目の前の姫君を呼んだ。それに月英は包みの上で握り拳をつくると、きつく目を閉じた。 身分の違いを意識する今となっては、堂々と字で呼びかけるわけにはいかない。だがそれでは月英は本音を言わないような気がした。字を呼び、昔と変わらない近しい距離にいる自分だけが、彼女の本当の声を聴くことができるように思えたのだ。 だが月英は首をふる。 「……あなたには、あなたたちには言えない。言ってはいけないの。」 目を開き、月英の顔を見つめた。 もう一度だけ…… それ以上いうことは月英には許されていない。いや自分で許していない。言葉が漏れないように、唇をかたく引き結んだ。言ってしまえば、今自分の周りにいてくれる者、全てへの裏切りになるのを知っているから。 陽凛は他の侍女を退室させると、月英の体をあやすように抱きしめたのだった。
あいかわらず騒がしい町だった。 前はしっかり許都を観光したわけではないが、それと比べても十分引けをとらない。 襄陽は隆中から南東へゆっくり歩いても三時間という距離だ。今回は久しぶりに襄陽見物を兼ねるために、朝から馬でやってきていた。 城門を入ると、日も昇りきっていないというのにすでに人出が多い。 「庶さんも来たそうでしたね。」 馬の手綱を引きながら横を歩く亮に均実は話しかけた。 「仕方がないな。元直は親孝行なやつだから。」 露天商たちの品物を踏んだりしないよう、気をつけながら亮は言った。 承彦が訪ねてきてから数日経っていた。何度か文を交換して、今日に決まったのだ。 その間に何度も水鏡先生とやらを訪ねたが、どうやら旅にでているようで捕まえることはできなかった。 それはとにかく、今回は承彦の要請どおり屋敷を訪ね、亮の未来の花嫁に会うというのが目的だ。隆中から襄陽へ向かう途中に水鏡先生の庵はあったのだが、今日は寄らずにくることにした。 だが出かけようとしたとき、庶に客がきたのだ。話を聞いた庶は、この襄陽行きに参加できないことを、均実たちに告げた。 庶の母が風邪をひどくこじらせたということで、一旦母がいる故郷の潁川という土地に戻るのだという。隆中からみて襄陽とは方向が違うため、村の出口でわかれたのだ。同郷である広元も、ついでに一度里帰りをしてくるとついていってしまった。 州平はというと、あまり騒がしいところが好きではない。最初から襄陽に行く気はなかった。諸葛家執事である甘海は、縁談が軌道に乗ったのを見届けると同時に、北方の様子を見てくるといってとっくに出かけていた。 よって亮と均実の二人で、襄陽にやってきていたのだった。 木で作った箱の上にのって、一段高いところから何か叫んでいる人もいる。かと思えばあやしい格好をした人が、机の上にジャラジャラとたくさんの細い棒を並べている。 何をやるのかよくわからないが、どれも面白そうだ。 「昼を過ぎれば、大道芸人たちももっと増える。その前に用事をすませておこう。」 ついそういった風景へ心奪われる均実に、亮は苦笑しながら言った。 先にすこしでいいから市場を見たい、と均実が言ったためこちらへきたが、遊ぶのは用事が終わってからだ。均実も頷いて、亮からはぐれないように急ぎ足で歩いた。 「それにしても凄い人ですね。」 何度も振り返りながら、まだ未練たらたらで均実は言った。 亮はもっと増えるといったが、今でも十分多い。 「北から流れ込んできてるようだね。」 首をまわして亮もその人ゴミをみた。 「北から?」 「曹操はまだ戦争をしているんだろう?」 「ああ、そうらしいですね。」 掻き分けてきた人達の話題は、もっぱらそれだった。 官渡という土地で、曹操は袁紹という将と戦っている。 曹操はそこの城に篭城しているらしい。だが人の噂だけでも敗戦色が濃いのがわかる。 開戦前から曹操不利といわれていた戦だった。袁家という代々力を持っている家名に、宦官という蔑まれる対象を祖父とする曹操が挑むこと自体、無謀と思われていたのだ。 それでも前哨戦は曹操にとって有利に動いた。それによって曹操の拠点、襄陽から遥か北東に位置する許都から逃げ出す人たちも最初は少なかった。 だが戦況が変わったのだ。 袁紹は甘く見ていた曹操に、前哨戦で有力な将軍二人を潰されたことによって、本気を出してきた。曹操の軍勢の十倍に及ぶだろうとまで言われるほどの兵力を、この戦にそそぎこんできたのだ。 こうなってきてはゾウ対アリの戦いのようなものだ。 実際、曹操は手も足もだせないまま、包囲されているのだから。 このまま曹操が負ければ、もちろん許都も袁紹に支配されるだろう。都を落とすということは、そこで略奪が行われるということと同じ意味だった。 その被害を受けたくない商人や戦禍を逃れたい民達は、戦のないこの荊州の地に逃げ込んできたのだ。 その数は戦が長引けば長引くほど増えるだろう。 庶が母を心配したのは、風邪のためだけではなく、このこともあった。潁川は襄陽から見て北にあたり、東に行けば許都もあるし、戦場となっている官渡もあったのだ。 「保身をはかる部下の人もいるんでしょうね。」 均実はつまらなさそうにそう言った。 ここ襄陽に住む、荊州の牧劉表の下に曹操の部下の何人かが、友好関係を築くための使者が送られてきているという話がある。だが今のこんな状況で、そんな使者を曹操が送るわけないだろう。 亮もその均実の言葉に否定はしなかった。 曹操とは許都で宴に招かれて、一度会った。 悪い人ではなかった。目つきが鋭く、カリスマ的なその雰囲気に気圧されはしたが、均実には好意的に接してくれた。それに宴の帰りには……土産までくれたのだ。 ちょっと含むところがないではないが、均実はそういったことから、曹操に対して好感情を一応抱いている。 そんな彼を裏切ってくる人間を、良く思えないのは仕方がないだろう。 「乱世だからね。」 亮は市場に背をむけて、そう一言だけ言った。
黄承彦の屋敷へはあっさりとついた。亮は何度か訪ねたことがあるらしい。位置としては喧騒から離れた、住宅街の奥の方といったらいいか。さっきの市場と同じ城内とは思えないほど、静謐な空気が漂っているように感じられる。 大きさは亮の屋敷よりかなり大きい。とはいえ許都で滞在した屋敷も十分大きかったし、この屋敷がこの世界の常識的に大きいものなのか判断がつかない。この世界の建物の感覚が、均実にはいまいちわからなかった。 亮は勝手知ったるなんぞや、といったように門のところで地面を掃いていた家人を捕まえ、馬を厩舎にやってくれるよう頼むと、屋敷の中に入った。 「亮さんっ。そんなズカズカと入っていいんですか?」 前、関羽と曹操の屋敷を訪ねたときは冢宰がでてきた。その老人に部屋まで案内してもらったのだ。本来はあれが正しい、人の訪ね方なのだろう。 それを思い出して、均実は慌てて亮を呼びとめた。 「ん? ああ、いいんだよ。黄先生は家の中に人がたくさんいるのを好まない人でね。それでそんなに家人も多くないし、第一案内なんて必要ないんだ。あの先生の書斎を訪ねることになってるから。」 亮が指差す方向には、母屋とは離れた小さな建物があった。 屋敷の中でも最も静かな感じがする。人などいなさそうに見えた。 だが亮について黙って歩いていくと、書斎の中から確かにカタリと物音がした。 「……ん? おお、来てくれたか。」 書簡を読んでいた顔をあげ、承彦は出迎えた。 「おはようございます。お言葉に甘えさせていただき、弟も連れて参りました。」 「おはようございます。」 均実も拱手をして礼を示すと、承彦は満足そうに頷いた。 「すまんな。もう少し待ってくれ。すぐこれを元の場所に戻してくるから。」 そういって建物の奥に姿を消した。 「……そうだ、均実殿。いい忘れていたが、兄弟ということになっているのだから、私のことは兄と呼んでもらわないとな。」 「あ、そうですね。」 さっき迂闊にも亮の名を呼んだが、誰も側にいなかったようで良かった。 「そういえば私のことも『均実殿』ではおかしくないですか?」 「それもそうだな。では、均。……やはりいきなりでは変な感じがするな。」 亮が口元をそうゆがめたとき、承彦が帰ってきた。 さっき持っていた書簡は全て彼の手の中から消えうせている。 「では移動しようか。ついてきてくれ。」 颯爽と歩き出すその姿は、一本背中に柱でも通してあるかのようにピンとしている。 どことなく日本にいたころの古典の先生を思い出す。よく授業中、居眠りをしてしまうと、容赦なく分厚い古語辞典の角で頭をどつかれたものだ。そんな厳しさがその後姿には感じられる。 「あの、黄先生。お聞きしたいことがあるんですけど。」 均実は歩きながら、その背中に呼びかけた。 亮は口をだすつもりがないらしく、黙っている。 「何かな?」 「その……娘さんがふさぎこまれている理由に心当たりとかないんですか?」 「ある。」 承彦はあっさりそういいながら、均実のほうを見ようともせずに続けた。 「だがそれを解決できる者はおらんだろうし。何よりその話題にはできれば触れたくないのだ。わしにとっても、それに娘のためにもな。」 顔は見えないが、承彦が短く息を吐き出すのがわかった。 「だからそのこととは関係なく、娘には元気をだしてもらいたいのだ。」 「はぁ……」 均実は首をひねった。 無理だろっ……とつっこみたいところだが、ここは亮の顔をたててやめておこう。 それよりも一体何を隠そうとしているのかが気になった。 推理しようにも、まったく材料がない状態では料理はできないではないか。まあ不器用な均実が料理をすれば、台所が鮮血に染まり食べ物も食べれなくなるだろうが。 ……と、そんなことはどうでもいい。とりあえずは材料、つまり推理の手がかりになるものが欲しかった。材料を提供せずに、料理をつくれとはこれまた無体な……。 そう考えていると、一つの部屋に通された。 承彦が家人を呼んだが、一向に誰もこない。 「人が少ないと、こういうときが面倒なのだ……。すまんが、すこし待っていてくれ。 わしが自分で娘を呼んでこよう。」 ため息をつきつつ、承彦は部屋をでていく。 その後姿はさっきよりどこか疲れているようにみえた。
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