「先生。お久しぶりです。」 均実が庵を訪ねると、徳操は庭にいた。 雪はここに来るまでに止んでいた。だがまだ空は曇っている。 何も止まっていない木を見上げてたたずんでいるその姿は、どこか寂しげな気がした。 いつか見た気がする。……劉備がずぶぬれで現れたときだ。 あれから何年も経った。 彼の見上げている木も、すこし大きくなったように見える。 「あ〜、邦泉かぁ。よくきたねぇ。やっと会えたよぉ。人ぉ、一人に会うためにぃこんなに旅をしたのはぁ、これが初めてかもしれないねぇ〜。」 思わず懐かしんだ均実に徳操は振り返った。 彼も年をとったはずなのに、あまり変わらない。 口調も、雰囲気も。 「何かご用が?」 彼に近寄りつつ、均実は少し笑みを浮かべた。 彼の口調に慣れることはなかった。やはり口をはさんだりはできない。 だがそれでいいのだと思えるようになったのは、やはり自分が成長したということなのだろうか。 「用がぁあるから呼んだのだよぉ。」 徳操はもっと近くによるように手招きをした。 それに従って均実は側に行く。 木の枝のちょうど下になった。 「前も思いましたけど、ここで何を見てるんですか?」 上を見上げてみても、やはり枝以外何も変わったものはない。 「わしは以前君がぁ、面白いと言ったねぇ。」 徳操は質問には答えず、笑みを浮かべてそういった。 彼の独特な話し方にもう突っ込む気は起きない。 そういえばそんなことを言っていた。 均実はそう考えた。 彼が自分の人相を見たときから。 「その意味とぉ、君の人相見の結果とを教えよぉと思ってね〜。知らないだろぉ〜?」 それが新野までわざわざ徳操が均実を訪ねた理由なのだろうか。 書簡に書いてしまえば、良かったようなものではないか。 呼び出してまで教えるようなものなんだろうか。 疑問には思ったが均実が頷くと、彼の優しい瞳が細まった。 「孔明の相についてはぁ聞いているねぇ?」 亮自身から聞いている。 劉備にも話したそれは、均実もよく覚えている。 再び均実は頷く。 亮の相は…… 「孔明はぁ、『治』の相を持っている〜。」 そのことを徳操は改めて言った。 そしてそれは均実の相とは違い、亮自身も徳操からすでに教えられていた。 「君にはぁ」 息を一つ吐いてから、徳操は言った。 「『乱』の相がでている〜。」 「『乱』……ですか?」 意味がよくわからなくて、均実は首をかしげた。 それでも徳操の声は、均実の言葉に答えを与えずに続く。 「世を治める者とぉ、世を乱す者〜。 なんとも正反対な者がぁ、兄弟を名乗るものなのだろ〜とぉわしは思ったぁ。 だから面白いと言ったのだよぉ。」 面白いというのは湾曲的表現だ。 湾曲せず言うと……滑稽極まりなく感じた。笑わずにはいられないほど。 その相は両極端過ぎて、よくもこんな二人が出会ったものだと思えたのだ。 徳操はそこでふっとまた木の上を見上げた。やはり何もいない。 「孔明がぁ、劉備殿の仕官の勧めをぉ本人から受けているという話は本当かなぁ?」 突然話題が変わった。 結局、徳操は人相見の結果を均実に教えて何がしたかったのだろうか。 やはりうっとつまりそうになったが、均実は何とか持ち直す。 「はい。確かです。」 「君はぁ、どうするつもりなんだい〜?」 「私も一緒に……」 均実の言葉は最後まで言えなかった。 徳操が均実の前に立ったのだ。 威圧感。それがそこに生まれた。 静かな庵の前にあるには、あまりに異質なもの。 「先、生?」 均実はうめくように声をだした。 喉が締め付けられるように苦しく、そして焼け付くように熱かった。 この感覚には覚えがある。 下腹のほうに重い負荷がかかるかのような、違和感。 徳操と初めて会ったときのようだ。 均実が抱いた感覚をわかっているかのように、徳操は微笑んだ。 「……やはり君の相はぁ変わらなかったなぁ。」 だがけして目をそらさない。 その目だけで殺されるような気が均実はしたが、やはり目をそらすことはできない。 変わらない口調。何も変えていないというかのように徳操は言う。 「わしのぉ水鏡という呼び名はぁ、その感覚を与えるからだ〜。わしの瞳がぁ面と向かった相手を〜、そのまま映し出すからとぉいわれている〜。」 水に映った己の姿をみるように。 それはまさに水の鏡。 彼に人相を見られるとき、相手は徳操の瞳の中に自分をみる。 徳操が有名であるのは、その知識ゆえもあるが、そう言われているからでもあった。 ある者は落ち着き、ある者は面白がる。徳操は人相を見る相手が、自らのことをどう思っているのかは、暴こうと思わずともわかってしまう。そして均実は…… 均実のその様子をみながら、徳操は言った。 けして落ち着いているようには見えない。 けして面白がっているようには見えない。 それは間違いなく…… 「恐怖だぁ。君はわしからぁ、恐怖を感じている〜。 それはぁつまり『乱』の相を持つ自分をぉ恐れているということなんだよぉ。」 徳操の言葉に均実は無意識に強く唇を噛んだ。反論を飲み込むかのように。 怖がっている? 自分を? そんなこと考えたこともなかっ……いや、あった。 均実はそう思い、眉をしかめる。 自分の決断で歴史が変わるのを恐れていたことがある。許都を出たころだ。 あの時は歴史を変えたくないと思っていたからであるが、今それは歓迎するところのはずだ。 それなのにまだ自分を恐れているというのだろうか。 「何故恐れるのかぁ……そこまではぁわしにもわからない〜。しかしぃ、だからわしはぁ、君に仕官を勧めない〜。 仕官すればぁ、おそらく君はぁ……誰より不幸になる〜。」 徳操は未だ目をそらさない。 風が吹きぬけた。 冬の風だ。それでも何故か氷のように冷たく感じる。 まるで……均実の心臓につきささるかのようだ。 均実が心臓を上から押さえるようにした。 苦しい。苦しすぎて痛い。 恐れを苦しいと感じたことなど、これまでにない。 だが……徳操がこれを恐れだというのならば、それは事実なのだろう。 自分はこの世界が歴史通り動かないことを望んでいる。それはつまりこの世界を乱そうとしていると言えなくはない。 徳操の人相見がはずれているとは思えない。 『乱』。歴史を、世界を、全てを乱す。 その行為は、人が立ち向かうには大きすぎるものを相手にしている。 そうか。と均実は思った。 それを恐ろしいと感じたとしても、おかしくはないのかもしれない。 「君はぁ仕官すればぁ否応無しにぃ、その恐怖に立ち向かわなくてはぁいけない〜。……そしてぇ、いつかは押しつぶされるだろぉ。 わしはぁ、君に仕官は勧めない〜。」 徳操は同じ忠告を繰り返した。 だが仕官をして歴史を変えれば、日本に帰れる。 巨大な障害であろうとも、それをせずにはいられないのだ。 それを均実はできると判断した。 だからこれまで…… 均実は無理矢理、自分の目を開く。 徳操の瞳の中に映る、自分に挑むように。 「ですが私は」 「勧めはしないがぁ、止めもしないよぉ。」 均実がどうしても仕官しなければいけない理由を言おうとすると、徳操はそう遮った。 驚いて顔を上げると、徳操は笑う。口元だけ笑い、目も頬も無表情。見たことがない笑みだ。それはまるで……自嘲しているようだ。 「何故君が男装をしているのかぁ、今まで何故あれほど熱心に勉強をしていたかぁというのには、理由があるのだろぉ? そしてその理由のためにぃ、君は仕官しようとしている〜。 その理由は簡単に諦めることなどできないのだろうぉ。 それぐらいはぁ、わしにもわかっている〜。」 「……知っておられたんですか?」 「わしはぁ何人もの人間をみてきた〜。性別をあてるぐらい〜、造作もないことだよぉ。」 均実が驚いていうのに、徳操は笑った。 性別を偽っていることなど、初めて会ったときにわかっていた。 ただ言わなかっただけだ。 「仕官を止めないからこそぉ、わしはぁ今ぁ君の相について明かしているんだぁ。 もう一つぅ、君はぁ気をつけないとぉいけない〜。」 そう言いながら徳操は歩き始めた。 一歩。 「始めはぁ、そのうち君の相が変わるだろうと思っていたぁ。」 二歩。 「正反対のぉ相を持つ孔明が側にいるのだからぁ。」 三歩。 「しかしぃその代わりというかのようにぃ、君はやつれていったなぁ」 そして最後の歩みが地に着く前に徳操は言った。 「それはぁ孔明の側にいればぁ、君はぁ無意識に無理をしてしまうということだぁ。」 ゆっくりとかかとが地面に触れる。 「だから君がぁ新野に行くことを決めたときぃ、わしは止めなかったぁ。」 本人は気付いていなかったが、みれば一目瞭然だった。 隆中では日に日に均実は顔色が悪くなっていた。均実は勉強のしすぎかと思っていたようだが、そうではない。 あまりにも持っているものが正反対すぎて、亮の側にいるのが苦痛であることにすら気付かなかったのだ。 その苦痛は大きなものではない。だがけして存在しないわけではない。 気付かないうちに蓄積していく、傷のようなものだった。 離れたほうがいい。 あのままではきっと均実が壊れるだろうと思った。 そしてその通り、均実は亮と離れた新野で顔色が戻った。 「君とぉ孔明はぁ相容れない〜。」 それが徳操の出した結論だった。 だが…… 「亮さんの側にいることが、苦しいわけないじゃないですか。」 徳操が何をいいたいのかいまいちわからないが、そんなことはまったくない。 それよりも側にいないで、自分のいないところで亮が苦しんでいるほうが苦痛だ。 均実はそう考えていた。 徳操はそれに皮肉げな笑みを浮かべた。 「だから――、だねぇ。」 これは説明してもわかるものではない。 何人も人を見てきた徳操だから知っていることだった。 だが正反対の者は、よく反発しあう。しかし均実と亮はそんなことはない。 それがないのはもしかしたら……自分が考えているものとは違う結果となるのかもしれない。 そうならばいい。 師として、徳操はそう思う。 均実も亮もかわいい弟子だ。 不幸になることを望むわけがない。 「君はぁ……世を乱すことを望めるかい〜?」 徳操は聞く。 答えはわかっていても。 「それが必要なら。それが……私の選んだ絆に繋がっているなら。」 均実は迷いなく答える。 何を選ぶかは、最初から決めていた。それを手に入れるために、今まで頑張ってきた。 帰りたい。それが何よりも強い願い。 再び足を進めることなく、徳操は立ち止まった。 自分はこれ以上、彼女にしてやれることはない。 「君はぁ自分のとりたい絆を手にすればいい〜。」 日本との絆。それだけを手に入れるために、均実は何年も勉強に励んだ。それを徳操は知っている。 均実は頷いた。 「けして諦めはしません。」 「……鳥が戻ってきたぁ。」 徳操のそんな言葉に、均実は顔をあげる。 寒空にも関わらず、徳操がいつも見上げていた木に二匹の鳥が止まっていた。 彼が見ていたのは、これだったのだろうか。 「……君がわしの弟子であることを忘れるなぁ、そして」 徳操はそこで一旦言葉をとめ、そして頭を振った。 諦めることも、一つの強さだと。そう諭すのは簡単だ。 鳥ですら、疲れれば翼を休めるために木にとまる。 飛び続けることができる者などいはしない。 しかしまだ飛べると思っている鳥に、飛ぶなと言っても聞かないだろう。 だから均実ががむしゃらに勉強をするのを、徳操は止めなかった。いつか自分から止まるための木を見つけようとするだろうと思った。 だがそれでも均実は諦めることをしなかった。 何年も一つの絆を諦めようとしないこの頑固な弟子は、きっと自分が何を言っても受け入れはしない。 翼が折れるまで飛び続けるに違いない。 風に真っ向から挑み、障害がいくら行く手を阻んでも。 そして…… 結局彼女が不幸にならないことを祈ることしかできない自分を不甲斐なく思え、徳操はため息をついた。
道を歩き、屋敷を目指す。 まだ胸が痛む気がして、均実は一瞬手で胸を掴んだ。 恐怖か。 『乱』が自分の相だと言われてもピンとこなかったが、それを恐れているといわれれば、理解できなくもなかった。 恐怖を感じても仕方がない。それほどのことに挑もうとしているのだから。 だがそれだけなら、別に問題ではない。 いくら恐れたとしても、均実は日本との絆を選んでいるのだから、それをやらずにはいられないのだ。 均実はため息をつく。 問題はそれではない。 自分は亮の側にいれば、無意識で無理をするという。 そんなことはない。 均実はそう思う。 側にいないほうが辛い。いろいろ気に病んでしまう。 それに何より、自分は亮に恩返しをしなくちゃいけないんだから。 そんなふうに考えていた。 そして歩いていた足が止まる。 見えてきた屋敷の門のところに立っている人がいた。 雲の割れ目から日がさしこんで、ちょうどその屋敷を照らしている。 綺麗だな。 均実はそう思った。 あたりとはそこだけ違う世界のように見える。日の光によって隔離された特別な場所のようだ。 そこにいた亮は晴れ晴れとした顔をしていた。昨日、均実と約束するまで曇っていた顔に比べれば、まったく異なる。 その場所は、自分にとって苦痛となる場所には見えないほど、美しく感じた。 劉備がいた。 関羽と張飛も控えるようにして立っている。 『三顧の礼』が終わった。 均実はそのことを知った。 「私は玄徳殿に仕官することにしたよ。」 そういって亮は微笑んだ。 決断の時は側にいる。 均実は亮に微笑み返した。 貫いてみせよう。彼との約束は。 そして必ず歴史を変えてみせる。 「私も行きます。」 はっきりと均実はそれを声にだす。 歴史を変える足がかりを得た。 ここからが均実の頑張りどころだった。
建安十二年冬。後に隆中対と呼ばれることとなる劉備と諸葛亮がした三国鼎立の話は、領土すら持たない劉備が望むにはあまりにも壮大な考えだった。 そして時を同じくして、歴史を変えようという壮大な考えをもつ者がいた。 これらを叶えるために、様々な者たちが奔走することとなる……。
選びしとき、誓いは意味を成す。 迷わぬため、人は互いに心を約す。 願いしものが手に入らねば、人の心は乱される。 人の子よ、汝の意味は一つにあらず。 人の子よ、汝は選び取るだろう。 見定めよ、広き大地と空に挟まれ。 選んだ絆は脆く細い。 壊さぬように絆を手にし、天に高く舞い上がれ。 それが均しき絆となりて、汝の翼をもがんとも。
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