眠い。 亮は寝返りを打った。 昨日は均実と長く話しすぎた。 昼寝をしながら、そう思った。 だが心がそのおかげで軽くなった。 それは確かだった。 夢うつつに昨日のことを思い出していた。 笛と琵琶をあわしたのは一体何年ぶりだろう。 はっきりと違いがわかった。均と均実とは。 均の笛は元気よさが合った。均実の笛はまろやかさがあった。 どちらが良いとも悪いともない。ただ彼らは全く異質であると、亮は思えた。 それに……均なら、自分を支えるとは言ってくれないだろう。 亮は苦笑した。 今回、均実殿には甘えてしまったな。 自分は思ったよりも情けなかったようだと亮は思った。 その時空気が変わった。 ……誰か、来たか? 眠すぎて顔をあげるのも億劫だった。亮は目を瞑ったまま、そう思った。 だが誰も何も言いに来ない。 気のせいだったのか。 客が来たなら、家人が起こしにくるはずである。 亮はそう思って、再び夢に落ちようとした。 だが一度思考を働かせた頭は、寝るつもりがなくなったようだ。 何とか寝ようとして寝返りをうってみるが、それも無意味な行為だった。 やれやれ、仕方がないか。 亮は起き上がると伸びをした。 「……夢を邪魔されたな。」 「申し訳ない。」 独り言に対して返答があったので、亮は驚いた。 振り返ると部屋の入り口に男がいる。大きな耳も赤くなっている。自分が起きるのを、どれだけ長く待っていたのだろうか。 劉備玄徳その人に違いない。 亮はそう判断した。 「今日はいらっしゃると弟殿がおっしゃったので、待たせていただいていた。」 「……まあ中に入ってください。」 とりあえずそう勧めると、彼の後ろに立っていた大男が二人、一緒に劉備とはいってきた。 長い髭をたたえている男は呆れたように、そして獣のようなぎょろりとした目をもつ男は自分を睨みつけている。 劉備に従う大男。彼らが関羽と張飛だというのはすぐわかった。容貌も均実から聞いているもの通りだ。 まさか起きるのを待っていたのだろうか。 そう思いつつ、劉備の顔色を窺うが、特に何も感じられない。 「ご高名はかねがね……。今日は高説を聞かせていただきに参った。」 劉備のその言葉に、亮は頷いた。 いくら他人が高評価をくだそうとも、本人は自分で見定める必要がある。 そのために来たのだとはっきりいわれば、亮も気構えた。 「今、わしは弱小勢力であり、奸臣曹操が漢王室を腐敗せしめていても、止める術すらない。 この状況をどうすれば打破できるか。これを教えて頂きたい。」 後ろに控えていた甘海に亮は目をやる。 自分の意を汲み取って、彼が部屋をでていったのをみてから亮は劉備を見据えた。 「……ではその前に皇叔は今の情勢をどうみるか。それをお聞かせ願えますか?」 淡々と感情を込めずに、亮は応えた。 劉備が亮を見定めようとしているのと同時に、これは亮にとっても劉備を見定める機会だった。 剣での斬りあいではない。だが真剣勝負のようなものである。けして穏やかなものであるはずはないだろう。 劉備はゆっくりと口を開いた。 「この大陸は今現在大きく二つの勢力があるといえる。 曹操と孫権。袁家はすでに力をなくし、ここ荊州が劉景升殿も両者に立ち向かえるほどの力はない。益州では五徒米道が幅をきかせ、それを鎮圧せしめるほどの力を持つ者はいない。」 劉備はつらつらと何かを読むかのように詰まることなく言ってみせた。 「そしてその中でわしは、あまりにも小さい。」 亮は頷いた。 やはり、というか劉備は曹操だけでなく、孫権や劉表に対しての情報収集も怠ってはいない。そして客観的に自分の立場も把握している。 己を知り、相手を知れば百戦危うからず。 亮は口元に浮かびそうになった笑みを打ち消した。 相手――つまり自分の味方ではない者の情報を知っているだけではいけない。己のことも正確に把握していなければ、覇を競うことなど不可能だ。 劉備はそういう意味では、覇を競う最低条件を満たしているといえるだろう。 「……迂直の計です。」 亮はそう言った。 迂直の計とはわかりやすくいえば、急がばまわれということだ。 劉備が今曹操を倒すことは、あまりにも不可能なことだった。だから倒すことができるように、力をつける必要がある。そういうことだ。 「具体的にお教えいただけまいか。」 劉備がそう言ったとき、甘海が戻ってきた。 手には棒状に巻かれている、大きな布が持たれている。 亮はそれをうけとると、くるくるとそれを解いた。 「この隆中での隠遁生活の間にまとめた、地図です。」 机の上におくと墨で書いた線が、その布を走っている。 甘海が旅をやめたのは、ほぼこれが完成できるほどの情報が集まり、家でそれをこの地図に仕上げるためだった。 完成したのはつい最近だ。 昨日目を通したそれは、かなり出来がいいと亮は思っている。 亮は指を荊州とかかれている場所に落とした。そしてゆっくりとその先を益州と書かれている場所に移す。 「まず劉将軍は地盤となる土地を持たねばいけません。曹操、孫権と対等に渡り合えるほどの。ここ荊州、益州を手にいれれば、それもかないましょう。」 「荊州を……」 劉備はそこで言葉をとめた。 荊州を手に入れる。それはすなわち劉表を敵にまわすということだった。 最近劉表は体調を崩し、寝込んでいる。それに比べ劉備は体調万全。兵も整っている今、確かに敵に回して勝てない相手ではないかもしれない。 だがそれはもうできなかった。曹操が北征から戻ってこようとしている、今となっては。 劉表に曹操を攻めることを勧めたときならばまだしも、その機は過ぎてしまっている。 その戸惑いを見抜いているかのように亮は続けた。 「江夏には劉き殿がいらっしゃる。」 亮は戸惑いも見せず言い切った。 その言葉に劉備は重く頷いた。 たとえ劉表を敵に回し倒すことができたとしても、江夏にいる劉きは自分が跡を継ぐことを主張するに違いない。そうなって荊州が分裂すれば曹操に攻められ滅ぼされるのは時間の問題になる。 「だからこそ、荊州を手に入れるのです。」 亮の言葉に劉備は眉をしかめた。 まったく意味が通っていないように思える。 「江夏には人がいません。 それはこれまで度重なる呉からの進軍により、そこら中の民がその度に徴兵されたため、土地についている人間が少ないのです。」 孫権が治める江東の地。それを彼が拠点を構えている地名を取り、呉と呼ぶ。 孫権の父親、孫堅は荊州で討ち死にをした。それの仇討ちという名目で、呉と接する江夏の地では、何度も戦が起こったのだ。 亮は地図を見ながら言った。 「正当な跡継ぎであるはずの劉き殿が、その江夏にいることが重要です。」 江夏の地をその指がさした。そして滑らせるように北へ向ける。 「劉そう殿は襄陽におられる。 近いうちに必ず争われるでしょう。そのときに劉き殿を支持されればいい。」 民がいないということは、自分を守るために兵を集めることができないということだ。 兵を持ち、かつそれを動かすだけの力を持っている劉備を、劉きが重く用いることになるのは目に見えて明らかだった。 「劉き殿に荊州を治めていただきつつ、皇叔は呉と手を結んでから益州を取る。」 益州は沃野であり、今は劉彰が治めている。だがその治世は評判がよくない。 民に信頼されている劉備なら、内応者を見つけるのもたやすいだろう。 結果劉備は益州で力をたくわえることができる。 「荊州は益州と江東に挟まれていますから、必然劉き殿は追い詰められます。」 劉備は唸りながらそれを聞いていた。 「そしてそこで劉?殿がどうするか。呉の孫権より、同族である皇叔に下りましょう。 戦わずとも、荊州は手に入ります。」 そこで一旦亮は息を吸った。 「これでこの大陸にある大きな勢力は三つとなる。」 三国鼎立。亮の話はまさにそれだった。 黙って考え込んでいた劉備を亮は見たが、彼の話はこれで終わりではなかった。 「皇叔。ですがあなた様の目的はそれだけでは叶いませぬ。」 驚いたように顔をあげた劉備は、そして笑った。 「そうだ。わしの目的は漢王室の復興。三国の一つでは困るのだ。」 「わかっております。」 亮はそういって呉を指差した。 「三国となった後は、呉とそのまま同盟を結び続け、魏に対します。」 魏というのは孫権の領土を呉というのと同じように、曹操の領土をさした。 「魏か。」 「はい。三国となられても魏の力は最も大きなものとなりましょう。」 すでに魏は大きすぎる。今回の北征は、領土が広がったという点でも曹操に有利に働く。 「ですから魏を二国で牽制しつつ、国内の力を育てます。そして魏が隙をみせれば……」 「攻める。」 「……はい。」 迷いのないその言葉に、亮はすこし黙ってから答えた。 「そして魏の力を削げば、次は呉を。そうすることで大陸をまた漢王室の統治下に置くことも可能となりましょう。」 劉備は何度も頷いた。 実を言うと、三国鼎立までの案ならば、幾人かの者からすでに聞いていた。 途中まで何も発言をしなかったのは、臥竜もこの程度かと思った失望を隠していたからだ。 だがその後のビジョンまで、具体的に示してみせたのは亮が初めてだった。 竜は……遠くまで見つめる目をもっているのだな。 その通り名にふさわしい。何年も後をはっきりした風景として、亮の目はとらえているようだ。 劉備は心からの目の前の男に関心を持った。 そして…… 「孔明殿、来ていただけるか。」 亮はまっすぐ自分をみつめ、そう言ってくる劉備を見返した。 「どうか漢王室復興のため、……何より民を安寧に導くため、手を貸していただきたい。」 劉備は、自分よりもかなり年上のはずなのに、どこか幼げに見える。 皆が力を貸そうという気になるのもわかる。 刻がきたのだ。雲に乗り、竜は高きに昇る。 亮は微笑んだ。 「喜んで。」 考えた末だ。きっと犠牲を望むことすらできるだろう。 均実さえいてくれれば、きっと……
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