琵琶も陽凛に渡し、亮は均実の部屋で飲むと言い出した。 陽凛は少し顔をしかめたが、確かに今は亮の部屋には喬がいるはずだ。幼児の前で酒というのは教育上よくないかもしれない。 部屋に戻ると、悠円に席を用意してもらい、対面になるよう座った。 ゆっくりと杯に酒が注がれる。 口に運ぶと、やはりあまり好きではない風味が口の中に広がる。 なんでこれを好んで飲む人がいるんだろうな。 均実はそんなことを考えていた。 おいしいわけではない。まずいとは言わないが、どうしてこれが万民共通の嗜好品となるのかわからない。 「均実殿は顔色がよくなったね。」 亮は杯を傾け、そう言った。 「そうらしいですね。」 関羽や庶、それに純にも言われた。 よほど以前は顔色が悪かったのだろうか。 「新野で何かいいことがあったかい?」 「えと……」 基本的に女装生活である。亮には言えないことも多い。 いいこと、いいことねぇ。お祝い事とか…… 「あ、そうだ。甘夫人が子を産んだんですよ。」 劉備の子として生まれた劉禅は、かなりおめでたいことだろう。 赤子というのはどうしてあれほど弱弱しい生き物なのだろうか。 喬はもう二歳になるから、確かにもう自分でも歩けるが、阿斗はこの前生まれたところだ。 一度抱かせてもらったが、柔らかい肌に素早く動かない四肢。全く無防備な存在。 親の保護を何より必要とする時期だろう。 「甘夫人……といえば左将軍の奥方か。」 「はい、本当に仲がいいんですよ。」 甘夫人を思い出すと、当然劉備と話しているときのことを思い出す。 糜夫人が亡くなる前は知らないが、甘夫人を劉備は信頼しているようで、隠し事などしていないようだ。彼女の前でどんな血生臭いことも必要であれば話題にのせていた。 甘夫人はけして気持ちのいい顔はしないが、それでもそれを聞くのを拒否したりはしなかった。 「そうか。」 亮は空になった均実の杯に酒を注ぐ。 そんなことを話しつつ、酒はどんどんあけられていく。 何杯飲んだか覚えてなどいないが、均実は別に酔っていなかった。 もしかすると酒に強い体質なのかもしれない。 新野での話が主になる。 必然と均実が口を開き続け、亮は話を聞いていた。 時折質問を亮が挟んでは、均実が考え込んでは答える。 しばらくそんなふうに二人で飲んでいた。 「亮さん。……大丈夫ですか?」 均実の言葉に亮は頷いた。 だがとても大丈夫そうには見えない。 いや別に顔色が悪いわけではないので、体調がおかしいとか、酒に酔いつぶれたとかいうことではないだろう。 だが手を顎にあてて、ずっと何かを考え込みはじめたのだ。 酒を飲む手も止まり、杯は机の上に置かれている。均実の話に質問をはさむこともなかった。 考え込んでも亮は均実と違って、周囲のことが見えなくなるほど考え込むことはない。 だから話しかければ頷きもするし、短く返答もする。 だがどう見ても亮は険しい顔をして考え込んでいた。だから…… 「……答えがでないんですか?」 均実は唯一思い当たる言葉を発した。 亮は顎から一瞬手を離して、そして苦笑した。 「そうだな。均実殿には話していたな。」 自嘲するかのようなその笑みに、均実は言葉をうしなった。 さっき琵琶を弾いていたときと同じ顔だ。 悲しげで……辛そう。 亮が杯を再び手に持ったので、均実が黙って酒を注いでやる。 「人の死を望むなど、人のすることじゃない。 ……できることじゃないはずだ。その死を望まなければ、より多くの人が死ぬとわかっていても。」 杯にゆっくり酒が注がれると、亮はそれをゆっくりと回した。 琵琶を演奏している手つきのようだ。演奏している間、亮はそんなことを考えていたのだろうか。 均実は何か言おうとしたが、軽々しく発言していい話じゃないと思い、一旦口を閉じ考えた。 彼が劉備に仕官をするのは、けして楽な道ではない。 どちらを選んでも、悔いる。どちらを選んでも、何かが犠牲になる。 後悔のない選択など、仕官をすればできないのだ。 その選択をこれまでしてきた劉備はどうだ? そう……彼には糜夫人が、そして今は甘夫人がいる。 糜夫人の死は自分に様々なことを教えてくれた。特に……人は一人では生きれないのだと言うことを。 彼女は死んだ後、甘夫人が劉備を支えてくれるとわかっていた。だから折鶴を渡して微笑んだ。 そして現在、甘夫人は彼女の志を注いで、劉備の側にいる。 必要なのだ。人の上に立つ人間は、側にいてくれる人が。 人の死すら望まなくてはいけない、その孤独ゆえに。 だが誰よりも亮を支えるべき立場にいる純に、亮は優しすぎる。あの笑顔を曇らせてはいけないといつも考えている。 だから純が糜夫人のように亮を支えるのは不可能だろう。 それは亮が亮であるなら、当然なのかもしれない。 なら…… 「……私がいます。」 均実はぽつりと言った。 いつまでも側にいられないのはわかっている。いつかは帰るのだから。 「一人で苦しむ必要はないでしょう? 望まない決断をせまられて、それで犠牲となる者に心が痛むなら、せめてそれを私には教えてくれませんか?。」 だけどこれは……恩返しだ。彼には返しきれないほどの恩がある。 ずっと苦しませてきた。自分がこの世界に現れたことで、辛いことを思い出させた。 そんな自分を、いつも暖かく迎えてくれる亮への。 亮が驚いたように目を見開く。 「均実殿……」 「何もできないけど……一緒に苦しむことはできる。一緒に、悲しむことはできる。」 どれほど多くの人を統べたとしても、どれほど多くの犠牲を望んだとしても、人の心を失いたくない。 それが亮の望みなら、それを叶える事こそが恩返しになる。 だから…… 「私があなたを支えます。」 出しゃばりかもしれない。たとえそうだとしてもこれが自分にできる、最良の恩返しだと思う。 均実は亮をじっと見た。 答えがでないようで、亮は黙り込んでいる。 支えるというが、それは望んだ物事への責任を、均実も負うということ。 その責を…… 亮が眉をしかめたのをみて、均実は唐突に笑った。 「不公平ですよね。」 その言葉に亮が不可解そうに均実をみた。 「私は一つ亮さんと約束しましたよ? 『亮さんより先に死なない』って。」 それは均実が下邳に行く前にした約束。 亮がしてくれと均実に頼んだ約束。 そして均実はその約束を今守っている。 「なら亮さんも何か約束してくれないと、不公平ですよ。」 亮が欲した約束を、均実は承知した。 なら今、均実が欲する約束を、亮が拒むのは…… 呆気にとられたように亮は均実を見つめていたが、ようやく笑った。 「わかったよ。……均実殿には言うことを約束する。」 その長い夜を均実は亮と呑んで過ごした。
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