均実は部屋にいた。 だが手にはもう慣れ親しんだ棒状のものを持っている。 それをもって入り口にいる人に話しかけた。 「どこでやりましょうか?」 「……そうだね。庭はどうかな。」 亮は微笑みながらそう答えた。 彼は帰ってきてからしばらく、甘海と一緒に自分の部屋にこもっていた。 まあやることがいろいろあるんだろうと均実は気にもしなかった。だがそれも終わったのだろう。均実の部屋を訪ねてきた彼は突然言った。 「笛を吹いてくれないか?」 とのことらしい。 笛を持ち彼に続いて部屋をでると、いつもの庭にでた。 均実が新野に行っている間も、家人達は庭の手入れを欠かさないでくれたらしい。淡い緑が庭のそこらかしこに芽吹いている。 綺麗だな。と均実は思った。 「ではやろうか。」 亮が庭にあった大岩の一つに腰掛ける。 亮ももう二十七。均実ですら二十四になっていた。 だが彼の風貌の冴えは衰えてなどいない。それどころか益々磨きがかかったようだ。 そのまま亮が琵琶を構えると、一つの絵のようにみえた。 一瞬均実がその光景にみとれて立ち尽くすと、亮が不思議そうな顔をしたので、慌てて笛を構えた。 琵琶が一度鳴らされた。 それにあわせるように笛に息を吹き込む。高い音が空に届いたような気がした。 亮が強めにかき鳴らせば、それにあわせるように音を出す。 気持ちいい…… 均実はその共鳴に思わず目を細めた。 新野では必死に吹いていたので、そう思ったことはなかった。だが均実は琵琶の音が響くと共に自然と合うように指が動くのを感じた。 かき鳴らされる痺れるような弦の響きが、張ったような緊張感のある笛をつつむように響き渡る。 交じり合い、溶けていく。 自然と口元が微笑む。 これほど笛を吹くのが楽しいとは思わなかった。 心が浮き立つ。 音に乗って心が遠くまで運ばれていくようだ。 どこまでも、どこまでも。高く遠くへ。 そのとき一瞬、琵琶の音が沈んだ気がした。 本当にわずかなもので、気付かないこともできた。 だがそれが均実の心を引きとめた。横目で琵琶を持つ亮を見る。 円を描くように琵琶の弦を弾く。目を伏せるようにして少し影になったその顔は、どこか憂いを帯びている。 息継ぎで吸い込んだ息が、とても冷たい。 泣いてる? 一瞬そう思ったが、違うようだ。 だが依然として悲しげな顔のままだった。 それはさっき亮がため息をついたときの表情とよく似ている。 そ、うか。……まだ亮さんは覚悟が。 均実は亮の顔から目をそらし、笛に息を吹き込み続けながらそう思った。 最初に劉備が訪ねてきたとき、彼は居留守を使ったと聞いた。 それはきっとまだ……そして今も。 『私にできるだろうか……』 均実はその声が琵琶の音と重なって聞こえた。 自信のない、弱い声が。 しかし、 ピー… 「あれ?」 そのとき笛の音が突然止まった。均実は吹き口から息を吹き込むのを止め、笛を見た。 いくら息を吹き込んでも鳴らない。 竹の薄皮がはがれるとこんなふうに突然音がでなくなったりはするのだが、確認してもはがれてはいない。 なんで? 「どうしたんだい?」 亮が立ち上がりそう聞いてきたので、均実は笛をみせた。 「いくら吹いても鳴らないんです。」 「貸してみて?」 均実が言われたままに笛を亮に渡す。 亮はしばらく吹き口から笛の中を覗き込んだりしていたが、首をひねった。 「特に変わったところはないね。……ちょっと吹いてみるか。」 そう言って亮が吹き口に、口を近づけようとしたとき、 「お待ちください。」 声がかけられた。 「陽凛」 そこに一人の侍女がいた。 少し険しい顔をして、こちらを見ている。 「部屋の中ならとにかく、外はまだ寒いでしょう。それできっと笛がおかしくなったのです。暖めておきますから、お預かりしますね。」 彼女はほぼ有無を言わさず、亮から笛を奪った。 温度差か……確かに部屋からでてすぐ吹いたから、周囲の気温に笛が馴染んでなかったのかもしれない。 均実は納得した。 だが均実がじっと陽凛をみているのを、彼女は少し顔をしかめた。 「壊れたわけではありませんから、すぐお返しできますよ。 笛の代わりに酒はいかがですか? お体も冷えたでしょう。」 笛を取られたことに、均実が不快に思っているとでも思ったのだろうか。 そういわれれば……と均実は手をあわせた。 笛を吹くことに熱中してて、指先まですっかり冷えている。 亮はそれをみて頷いた。 「戻ろう。」 その提案で均実は笛をふくのが終わったのを知った。 名残惜しいな。 共鳴するように音色が絡まるあの感覚が、耳から消えてしまうのが寂しかった。 まだ吹きたいけど…… 笛は陽凛の手にある。それに音が出ないのでは仕方がないだろう。 そう思ったが、均実は次に続くことになりそうな動作にすこしゲンナリした。 「酒を呑むんですか?」 均実はあまり酒を好まない。 何度か付き合って亮と居酒屋にいったことはあるが、自分から杯に注ぐことはなかった。 それを亮は知っていた。 だが彼は微笑んで、 「付き合ってくれるかい? さすがに手酌は寂しいものがあるな。」 「……わかりました。」 均実は仕方がない、と頷いた。 さっきの顔が気になった。 話ぐらいなら聞いてあげられる。 もともとそのために隆中に戻ってきたのだから。
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