隆中には亮がいなかった。庶もいなかった。 亮は襄陽にいっているらしいし、庶もまた潁川に行く(本当は新野に戻るつもりなのだろう)と言ってでていったという。 そのかわり純が驚いた。その髭に。 髭の説明はしてやったが、自分を女だと知っている人間全員にそれをやらなくてはいけないのが、今からめんどくさく感じた。 「水鏡先生に会わなかった?」 純がそういいつつ、部屋にいれてくれた。 彼女はあまり均実の記憶にある姿と変わらなかった。 「水鏡先生? 会ってないけど。」 「ついこの前、珍しくここをわざわざ訪ねてきてね。新野に行くって言ってたよ。」 均実とは入れ違いになったのだろう。 「珍しいね。先生が行き先をいうなんて。」 いつもふらりといなくなり、いつも気がつけば帰ってきているのが徳操だ。 均実はかじかむ手をすりあわせて、息をはきかけた。部屋の中には炭を燃やす器のようなものが置いてある。外よりまだ気持ち暖かく感じた。 「きっとヒトに会おうとしてたんだと思うんだけど……」 純の話では、均実からの書簡の中に隆中に戻ってくる予定は書いてあるかを徳操は聞いてきたらしい。 今回帰ることにしたことを書いた書簡は、樊城に到着する直前ぐらいに出した。それが届く前に徳操は出発したようだ。 用件があるなら書簡に純が書くことを提案したが、徳操は首を横に振ったという。 直接会わなくてはいけない用事でもあったのだろうか。 「そのうち帰ってくるだろうから、その時訪ねにいくよ。」 下手に新野に今向かってもまた入れ違いになるだろう。 均実はそんなに深刻に考えずに言った。 「そう?」 純は釈然としないようだが、そこで話題が変わる。 「『三顧の礼』が始まったみたいだね。」 何気なく均実がそういうと、純はすこし暗い顔をした。 「どうしたの? 純ちゃん。」 「……亮が出世することになるのよね。」 「うん?」 「亮には子供がいないのに。」 確かに甘夫人とは違い、いまだに純は妊娠することはなかった。 戦国時代ではある程度の地位をもつ人間には、その人が亡くなった後の後継者が切望される。でなければ権力争いが起こり、せっかくの地位も失われてしまうことがあるからだ。 だが…… 「しょうがないことじゃないの?」 均実は純の言葉にそう答えた。 子供ができないのは、別に純のせいじゃないだろう。 と思ったからなのだが、 「……ヒト。あのね、私実は……」 深刻そうな顔をして純は言う。 何か問題でもあるのだろうか。 均実は一瞬身構える。 消えるような小さな声で純は告白した。 「亮とHしたことない。」 「……は?」 均実は自分でもわかるほど間抜けな声をあげた。 「だから子供ができるわけないの。」 突然の告白の意味を、均実は瞬時に理解できなかった。 「ちょ、ちょっと待って。……純ちゃん結婚して何年になるのっ?」 均実は頭に手をあてた。 てっきり夫婦生活を営んでいると思っていたが、亮はこの六年、一切純に手をださなかったのか。 だとしたら…… 「ううん。私は亮が好きだよ。」 純は均実の質問に、滞ることなく答える。 今の今まで一つ屋根の下で夫婦として暮らしていて、なぜ夫婦生活がないのかというのは疑問だった。それを純が拒否したというならわからなくもない。 だがそういうわけではないようだった。 ならどうして?と聞くと、少し気まずそうに純は口を開いた。 「その……最初にね。」 「最初?」 「……輿入れした最初の夜。」 はいはい。初夜ってやつね。 均実が頷いたのを見てから、純は少しためらいながら続けた。 「亮が言ったの。無理する必要はないって。」 承彦の屋敷で初めて会った時、純は日本の話を、圭樹の話をした。 そのとき思わず純が顔を歪めたのを亮は見ていた。 「まだ忘れていないのだからって。」 そう、忘れてなどいない。忘れることはないだろう。 圭樹は自分の十数年の象徴だったのだから。 純もそのときは礼を言ったのだが……それと亮が好きになるかどうかというのは別問題だった。 というか好きにならないほうがおかしい。 眉目秀麗、頭脳明晰。その上優しく純を気遣ってくれる。 「でも亮って鈍いんだよね。」 「……庶さんもそう言っていたことがあるよ。」 よくわからないが、均実はそう言って同意した。 結婚したことで浮ついていた気持ちも落ち着き、本当に純が亮を好きになってからかなり経つ。 何度か好きだと告白したが、亮は普通にありがとうと言って流した。 全っ然純が本気で言っているんだと気付いてくれない。 隆中の娘達から贈り物攻撃を受けても、一向にその好意の意味に気付かなかった亮だ。純のその心境の変化に気付かないのは、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。 「ど〜したら気付いてくれるかなぁ?」 純は深刻そうに眉間にしわをよせ考えこんでいる。 均実は軽くため息をついた。 恋愛経験など零に近い自分に、そんな相談を持ちかけられても困る。 「そのうち気付くでしょ?」 としか言いようがなかった。 均実のその返答に、純は苦笑する。 彼女にこっち方面の話題をもちかけても、大したことをいってくれないのはわかっている。 未だに人を「好き」と思うのがどういうことなのか、わかっていないんだろうなぁ。……男装なんかしてるし、わかるはずないか。 純はそう思った。 本当に陽凛は的外れな心配をしている。 こんな均実が亮を「好き」だと感じる日がくるはずがない。 改めてそう考えながら、純は少し顔をしかめた。 「気付いてくれるか……ちょっと不安かな。」 「不安?」 訳がわからず均実が続きを促す。 純はすこしいたずらっ子っぽい笑みを浮かべた。 「前にね、ヒトと相思相愛なんだって言ったことがあるんだけど、あっさり流されたんだよねぇ。」 純はあのときはそれほどその反応を気にはしなかったが、よく考えれば自分の妻が、弟とはいえ違う男と相思相愛だと直接言ったのだ。すこしぐらい慌てたり、焦ったりしても悪くないと思う。 均実は呆れたようにして純をみた。いつの間にそんなことを言っていたのだろうか。 「だから亮は私のことそういう対象で見てないんじゃないかな?」 確かに亮が純に対して恋愛感情を抱いているようには見えない。あまりにも自然で、ただただ優しい。 「……考え過ぎだって。」 均実は他にいいようもなく、そう答えた。 恋愛方面に関しては、均実は何の推理すべき材料も持っていない。 だが亮らしいというか、なんというか。優しくしすぎて、逆に純は不安らしい。 確かに少し優しすぎるのかもしれない。 均実でさえそう思う。 大事に大事に。 世の中の汚いことを知らせないで、染み一つない絹の生地のように。 嬉しいことを嬉しいと、楽しいことを楽しいと、素直に感情を表現する純を守るために、教えない。 全てを、教えない。 だから……亮は 「……から、ヒトに書簡を出してね。それから劉備の訪問を呉の義兄上に知らせたら、養子をとれっていわれたんだ。」 また思考の海にどっぷり浸かっていた均実は、純の言葉で現世に帰ってきた。 慌てて均実は会話に戻る。 「養子を? どこから?」 「義兄上のとこの次男。」 純はため息をつく。 そういえば二年前、次男が生まれたという連絡が瑾からきたということが純の書簡に書いてあったのを思い出す。 亮はその養子の件について、詳細を決めるためにここにいないのだという。 「……この年で息子ができるってなんか変な感じがするよ。」 「二歳の子か。これからにぎやかになるね。」 均実の言葉に純は頷く。 「せっかく帰ってきたんだし、子育て。手伝ってよね。」 その宣言に均実は苦笑いしながら同意した。
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