酒の席というのは、面白い話が聞きたくなるものだ。 皆、許都での均実の話を聞きたがった。特に曹操と実際に会うなど何故できたのか、どんなことを話したのかとか。さすがに『関羽の妻に間違えられて』とは言えず、均実が困っていると外への扉が開いた。 「おお、ここで会えたか。」 聞き覚えのない声に均実は振り返った。 まさに知識人といった感じの人だ。ほりの深い顔で、歳のせいかすこし皺がおおい。太い眉の下に光る目は、真っ直ぐ物事の本質を見抜くような鋭さがある。 「黄承彦先生だ。」 除庶が均実にささやくようにして教えた。 どこかで聞いたような気がする。 亮はそんな声を聞かなかったかのように席を立ち上がると、承彦に向き合った。 「こんにちは。何かありましたか?」 「ははは、婿殿は生真面目だな。いや、すこし確認したいことがあってな。」 婿殿? ……ああ! 均実は承彦の言葉に目を開いて、彼の顔をみた。 亮が結婚する相手の父だ。確かかなり前に庶に聞いたことがある。 承彦は州牧である劉表に妻の姉が嫁いでいるし、もともと地元の名士である。その知識もそれなりに深いものがあり、以前から亮は交流があったため、今回彼の娘を嫁にすることになったのだ。 「そうですか」 「ああ、だからすこしお借りするよ。」 均実たちのほうをむいて、承彦は言った。 「すまないな。」 「ああ、気にするな。こっちはこっちで盛り上がっておくから」 庶がそう手をひらひらさせると、亮は承彦と違う机に座って話し始めた。 店主の老人が注文を聞こうとしたが、すぐ済むからと承彦は断った。 それをしばらく眺めてから、庶は酒を呑んだ。 「いっそがしいな、孔明も。」 「もうすぐ結婚するんですよね。」 均実は杯を心持ち自分から遠ざけて言った。 下手に持っていると、すぐ庶がおかわりを注いでくるのだ。 「ああ、一ヶ月しないうちにだろう。均実殿が出かけている間に大枠は決まったらしいしな。」 「すこしかわいそうな気もしなくはないですが……」 州平は話し合っている二人に聞こえないように声を落とした。 「どうしてですか?」 「ああ……黄承彦先生の娘さん、もう十八になるんだ。」 「十八で結婚っ? は、早いですね。」 「ああ、日本とやらではそうなのか? こちらでは遅いぐらいだぞ。」 そ、そうなのか……まあ日本の法律にも違反はしてないはずだけど。 自分と同じ歳で、結婚するのかぁ。大変だな、その人。 均実はそう思いつつ、亮も確か今二十一だからお似合いなのではないかと思った。 「それでどこがかわいそうなんですか?」 「それは何故今までその姫の縁談がまとまってこなかったか、ということです。」 「ま、あくまで噂だがな。」 「その娘、もの凄い…………………………………………醜女らしいんですよ。」 あちらにきこえないようにチラリと目をよこしてから、州平はより声を潜めた。 自然と三人とも机に身を乗り出すようにして話し始める。 広元だけは興味がないといったように、そのまま酒を飲み続ける。 酒臭い息に辟易しながらも、均実はその亮の嫁になる女性というのにも興味があった。 「醜女ってブスってことですよね?」 「ええ。黄承彦先生と縁を結びたい者なんて、吐いて捨てるほどいるんですよ。それなのにその娘の縁談が、今の今まで決まらなかったのはかなりおかしいんですよ。」 「何でも小さいころにかかった病気のせいで、顔に大きく腫れ物の痕が残ってるとかで、誰にも顔をみせようとしないんだと。それがあまりにも酷いもんだから、見た者は気を失うほどというな。」 「そ、そんなにですか。」 「そうそう。顔を隠す理由はその姫君は遥か西方の国からの難民で、黄先生が養女にしたからという話もあります。異国の娘だから、風貌がかなり変わっているので、それを囃されるのが嫌なのだと。 どちらにせよ、皆そんな噂のある娘を娶ろうと思わないわけですよ。」 「だから巷の噂では、醜女すぎてまとまりかけた縁談もすべて壊れていくっていう話なんだ。そんな姫をほぼ押し付けられるような形に孔明はなったもんだから、結構皆に同情されているみたいだな。」 そういわれれば、結婚が決まっているというのに、依然として畑にやってくる亮ファンはいなくならないし、どちらかというと熱が上がっているようだ。 あれは醜女と呼ばれる女との縁談をどうにか壊そうと、自分をアピールしだしたせいだったのか。 均実は納得した。 「う〜ん、でも誰も見たことないんですよね?」 「そうらしい。まあ見た奴らもあまりの酷さに口をつぐんでいるっていう話だが。」 返答を聞いて、なんだ、と均実は笑った。 噂は怖い。均実は許都でそのことを身に染みて知っている。 最初は関羽の妻が均実だというだけの噂だったはずなのに、曹操に会いにいったときには均実の容貌が『その黒髪は星々の輝きを秘め、肌は雪のごとく、されど絹のように滑らか。歩するところは黄金へと変わり、声を聞けば三日はどのような美曲すら、雑音に聞こえる』というものであるという凄まじいものに発展していた。 曹操が言うには、一歩も許都では屋敷の外にでようとしなかった均実の姿を、誰もみることができなかったせいで、逆に注目があつまり、噂が進化しつづけたのだろうということだったが、承彦の娘もこれと噂の方向性が反対なだけなのではないか。 そう思えば、それほどその噂を信じるつもりにもならなかった。 「噂は噂でしょう。確証がないなら、信じこまないほうがいいですよ。」 「その通りだ。」 話に熱中していて声の主の気配に気付かなかった。均実達の机のすぐ側まできていた承彦がそういった。いつの間にか話は終わっていたらしい。 庶と州平は顔をひきつらせた。 それを一瞥してから、承彦は続ける。 「絶世の美女とはいかぬが、それでも皆がいうような醜女ではない。噂からも情報の一部だが、得た情報の真偽を見抜いて拾捨できねば世に出ても大成はせぬぞ。」 「……申し訳ありません。」 「失礼いたしました。」 庶と州平はきまずそうに頭を下げた。 「でも……嘘の情報も真となって働く場合もあります。真偽のみで拾捨するのは早計ではありませんか?」 承彦の説教にひっかかりを覚えて、均実がそういうと、庶と州平の二人は顔をあげて驚いたようにこちらをみた。 関羽が許都に留まっていた最大の理由は、主である劉備の行方がわからなかったからだ。曹操はわかっていたのにわからないと、嘘をついた。その嘘のために関羽は許都から動けなかったのだ。 嘘の情報が力を持っていないというわけではない。そしてそれは無視することはできないほどのものとなり得る。 均実は噂の進化の仕方以外にも、そのことを知っていた。 亮も均実のその発言には目を見張った。 一体、この一年の旅でどんなものを見、それをどう吸収したのか。 もともと聡いところがあるとは思っていた。だが旅から帰ってきた均実からは、一回り考え方が大きくなった印象をうける。 「早計、……確かに。」 そういって承彦は均実に笑みをむけた。 「なかなか見込みのある少年だな。名はなんという?」 「私の弟で、諸葛均といいます。」 亮がついさっき決まったことを実践した。 「弟? ほう……」 承彦はそういうと均実の姿をじろじろとみた。 いい加減居心地がわるくなって、均実は身じろぎした。 「あの…?」 「いや、まだ歳若い。良縁でも世話してやろうかと思ったが、それはまだ早そうだな。」 均実は笑いがひきつるのを感じながら、礼を一応言った。 「もしよければ、君も一緒にきなさい。」 承彦はそういうと、均実がなんのことか尋ねる暇すら与えなかった。それ以上用はないらしく、店からさっさとでていったのだ。 「おい、元直。何を大笑いしてるんだ?」 元直というのは除庶の字だ。 亮が不思議そうにそういうので、均実も亮が向いているほうをみると、除庶が体を折り曲げて口に手をあてている。手から漏れる声はどう聞いても笑い声だ。 「いや……くくっ………良縁ねぇ……」 亮と州平は顔を見合わせていたが、均実には彼が何を大笑いしているのかわかった。 庶は隆中では数少ない、均実が女であることを知っている人間だ。今この場には彼しかそのことを知る人間はいない。 均実が秘密にしておいてくれと頼んだだからでもあるが、均実の挙動が男勝りなものであるのも原因の一つだろう。誰も均実の性別に疑問を抱いた人間はここにいなかった。 そんな状況が庶にとってはおかしくて仕方がないらしい。承彦までが、均実のことを男と勘違いして良縁とやらを紹介しようとしたのにかなりウケているようだ。 「ひきつけでも起こしてるんですよ。放っときましょう。」 均実はそういうと、承彦を見送るために立っていた亮に席をすすめた。 本当にひきつけを起こしているなら、すぐ医者を呼んだほうがいいだろうが、その必要は誰も感じなかった。 「そんなことより、なんだったんですか?」 「ん、……一度、襄陽のほうにきてほしいということだった。」 聞くと承彦の家は隆中の近く、襄陽という町にあるという。ここには州牧である劉表が住まう襄陽城もあるので、都会といっても差し支えないほどにぎわっていて、均実も何度か行ったことがある。 庶を無視することに同意した州平も、会話に加わってきた。 「何をしに行くのですか? もう準備はほぼ済んで、あとは輿入れの日をいつにするか、決めるだけだったはずでしょう?」 「それが……娘に会ってほしいんだそうだ。」 「直接か?」 広元が怪訝そうに口をはさんだ。よっぽど不可解に思えたのだろう。 本来、良家の子女は嫁にはいるまで夫でさえその顔を見ることはない。 嫁入り前にそういう申し出は前代未聞といってもいいかもしれない。 「理由は教えてもらえなかったが、ひどく落ち込んでいるらしいんだ。」 「マリッジ・ブルーってやつですね。」 均実が頷きながらいうと、均実以外の人間は変な顔をした。 「まり……って?」 「ああ、日本の言葉……っていっていいのかな? あれ、英語か? まあそういう言葉があるんですよ。結婚直前の女の人が意味もなく、落ち込むことを指すんですけど。」 「なるほど。それかもしれないな。」 亮が同意した。 「手がつけられないほどらしいんだ。それで何とかしてやってくれといわれたんだが……それはどうすれば治るんだい?」 「し、知らないですよ。私は別に心理学をやってたわけじゃないんですから。」 均実は焦った。 マリッジ・ブルー自体、かなり聞きかじっただけの知識なのに、解決方法なんか知るわけがない。 「まあ気分転換が一番なんじゃないですか?」 「そうかもしれませんね。おそらく結婚のことで周りがうるさかったのでしょうから。」 「気分転換か……均実殿も一緒にきてくれるかい?」 「別にいいですけど……」 同い年とはいえ、そんな落ち込んでいる、見ず知らずの女の人の気分転換に自分が役立つ自信はない。 均実が語尾を濁していると、復活した庶がやっと会話に戻ってきた。 「孔明の顔を見れば、だいたいの女は元気出るって。」 「ああ、そっか。」 「そうかもしれませんね。」 均実も州平もその言葉に同意した。 かなりの美形である亮が自分の夫になるとわかれば、たいていの女性は嬉しいかもしれない。 「……私の顔はそんなに面白いのか?」 「無駄に役立つ顔でよかったな。」 憮然としていう亮に、そしてそれに答えた広元の言葉に、他の三人が爆笑したのはいうまでもない。
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