数ヶ月があっという間に過ぎた。 その間に甘夫人は出産を無事に終える。 生まれたのは男子。名を禅とつけられ、幼名を阿斗と言った。幼名というのは子供につけられる字のようなものだ。 劉備は心から喜んでいた。遅い子だった。だが間違いなく彼の跡継ぎとなる男の子だろう。 甘夫人は劉備が喜んでいるのをみて、嬉しそうに微笑んでいた。 均実はそれを祝福しながらも、ずっと考えていた。 隆中はどうだろうか。 均実は庶が亮を説得してくれているだろうことを知っている。 だが…… 『私にできるだろうか……』 亮のあの答えは、まだきっと出ていない。 均実はそのことにため息をつき、窓辺に立っていた。 手に持っている笛をふくこともなく、ただ少し首を傾げるようにして立つその憂いげな姿をみて、また家人達がざわめいているのには気付かない。 昨日、隆中から書簡がきていた。純がそれぞれに均実が書いた書簡を読んでやり、その返答をまとめたものだ。全部日本語なので読むのが楽だった。 その中で純は、均実がうらやましいと言っていた。 純を気遣って、亮は情勢の細かいことは教えようとしない。だが均実には教えている。 そして亮の心を一番惑わしているのは、その自分自身への問いに違いない。 純にはそれらを全て明かされている均実にむける亮の表情が、どこか安心しているものだと感じられているのだろうか。 亮はこの答えの出ない問いに苦しんでいることすら、純に言っていないのかもしれない。 「均実殿、どうかしたのか?」 さすがにいつまでもぼんやりし続けている均実に、そう声が掛けられた。 ふりむくとそこには関羽がいた。 均実は首を振る。 「いえ、別に。」 「練習中ではなかったのか?」 笛を指差され、均実はすこし苦笑を浮かべる。 最初はそのつもりだったが、ふと考え込んでからすっかり忘れていた。 考え込むと周りが見えなくなる癖は健在のようだ。 笛もだいぶ吹けるようになった。セロハンテープを貼っていたところも、本来の竹の薄皮を貼っていてもしっかり音がだせるようになっていた。 セロハンテープよりも竹の皮のほうが、いい音がでる。 だからもうセロハンテープを持ち歩く必要はなかったのだが、癖のようになってしまい日本の物の入った巾着は腰につけたままだった。 「何を考えていた?」 「……私のことでなく、亮さんのことなんですけど」 その男の名前で関羽は一瞬聞いたことを後悔した。 隆中を離れても、なぜその男のことばかり考えているのか。 もれそうになるため息を関羽は殺した。 想いをひたすら寄せ続けている男のことを、彼女は考えてくれないらしい。 均実は関羽から目をそらし、庭を見た。だがその目はどの木も草もとらえていない。 まっすぐ南を――隆中の方角に。 「亮さんと直接話したいなぁ……」 側にいれば、話を聞いてあげることぐらいならできる。 均実はそう思っていたのが、知らず口から出ていた。 憂いげなその姿は美しく、どこか儚げだった。 年を重ねるごとに、幼さはぬけていく。化粧で誤魔化していたそんなところは今ではもう見る影もない。 徽煉もそれをわきまえているように、化粧を厚くすることはもうなく、最低限のものだけさせていた。 一人の女性として、さなぎが蝶になったかのように美しくなった。 均実を見続けてきた一人の男として、関羽はそれを知っていた。そして…… 残酷だな。意識していないが……いや、だからこそか。 関羽は均実の言葉にそう思った。 愛しい女の口から、違う男のことを聞くのは、やはり苦痛だろう。 それが亮であるならば、余計。 「……長江の流れを止めることができると思うか?」 唐突なその問いに、不思議そうな顔を均実はした。 その問いにようやく均実が再びこちらをみたので、関羽は笑みを深める。 話しているときは相手の顔を見て。それは均実の性格だ。 これで均実の思考は亮から、自分の問いに移っただろう。 子供っぽいことだとわかっていたが、それを関羽は喜んだ。 均実が目の前にいることが、本当に信じられない。 二度の別れ、そして彼女の予言はその度に当たった。 再び出会えるのだと。その言葉を信じて疑わなかった。 だがそれは、自分が彼女の居場所であるからではないことはわかっていた。 悠久なる流れを刻む大河である長江に浮かぶ木の葉が、流れ流れて度々岩に張り付いたりするように、ただ彼女が進む道の途中に自分がいるだけなのだ。 関羽はそれでも均実を愛していた。いや、それだからこそ愛している。 だから手からすり抜けていく想い人を閉じ込めてしまいたいと思わない、ということわけではない。 嫉妬もすれば、やっかみもする。 ただ無理矢理自分の場所に引き止めれば、それは均実ではなくなってしまうような気がした。 だから否定してほしかった。 再び関羽は問う。 「それを流れる木の葉は、堰き止めることによって一箇所に留まるだろうか?」 「……物理的に不可能な気がしますが?」 長江といえば、中国大陸の二大河川の一つといってもいいだろう。そんな大河をとめるほどの堰などこの世界にはないように思える。 言葉を額面どおりに受け取って、真面目に考えた均実が顔をしかめたのをみて、関羽は笑った。 いつもどおりの彼女だ。 こんな他愛無い談笑が、何よりも関羽は好きだった。 均実はここにいる。 まだ、ここにいる。 それがわかるから。 それをまだ望んでいいのだと思えるから。 関羽が口を開こうとしたとき、一人の家人が慌てたようにやってきた。 劉備が関羽を呼ぶように遣わしたらしい。 「あと……その」 「……なんだ?」 用件を伝えてから、言いづらいかのようにどもった家人に関羽は問う。 チラッと均実のほうをみてから、 「その、殿が『邪魔して悪いな』と……」 関羽はため息をついた。 どうも自分は均実との会話を楽しむには、からかわれすぎているようだ。
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