穏やかな時が流れている。 ここに竜が臥せているのか。 そう考え、劉備は口角を少し上げた。 徐庶から諸葛亮孔明という若者の話を聞いたとき、通り名が臥竜であることにまず興味を持った。 空を自由自在に駆け巡る竜が、あえて地に臥せて刻を待っている。ひとたび空に舞い上がれば、恵みの雨を広大な地表にあまさず降らす。それは竜の無償の慈愛。 それを受けて万民は健やかに過ごすことができる。 だがそれは、刻を得るまで誰にも与えられない。 刻を……きっかけを。 そのきっかけが自分となると思えば、それは小気味よいものだった。 劉備は共に連れてきていた関羽と張飛が、もの珍しそうにあたりを見るのがわかった。 こんなところに人が住んでいるのか。 山野に隠れるかのようにあったその屋敷は、まるで発見されるのを拒み続けている宝のように思えた。 劉備は馬の進みを緩める。 門前に熱心に掃除をしている一人の少年がいた。 「もし。ここは臥竜先生のお屋敷か?」 馬から下りると、彼に劉備は声をかけた。 ほうきの動きが止まる。 「はい。そうですけど?」 「漢の左将軍宣城亭侯・領予州の牧、皇叔劉備が先生にお目にかかりたいと伝えてもらえるか。」 その少年――悠円はほうきを片手に持ったまま、困ったように顔をしかめた。 「……覚えられません。」 名前が長すぎる。 「では劉備が訪ねてきたとお願いできるか?」 劉備はそんな悠円に微笑むと、言い直した。 頷いてほうきを門にたてかけると、一旦悠円は亮を探すために母屋の中に入っていった。が 「先生?」 窓から隠れるようにして門のところをみている亮をすぐに見つけた。 亮は悠円を手招きすると、声が外に漏れないように小さな声で言った。 「私は今、この屋敷にいない。そう言って帰ってもらいなさい。」 「なんでですか?」 何度もそう聞いたが、亮は答えない。 「……今日は会うつもりがないからだよ。」 それだけ言うとさっさと奥に引っ込んでしまった。 本人に会う気がないのでは、仕方がないだろう。 屋敷にやってきた劉備は悠円の言葉を聞き帰っていった。 亮は訪ねてきた劉備に会うのを拒み、居留守を使ったのだ。 だがこれが間違いなく、一回目の訪問だろう。 「……始まっちゃったんだ。」 純は去っていく劉備の姿を見つからないように屋敷の奥からみつめながら、そうつぶやいた。
「兄者、本当に帰るつもりか?」 関羽が前をいく劉備に声をかけた。 もう屋敷はかなり遠のいている。 「居ないのならば仕方ないだろう?」 「兄者もわかっているだろう……あれは居留守だ。」 「なにっ?」 ここにいる三人中、唯一わかっていなかったらしい張飛が声をあげた。 そのことを関羽はさすがに呆れたが、本人はそんなことを気になどしていない。 「居たのに、わざと兄貴の訪問を無視しやがったのか!」 「まぁそう怒るな、益徳。突然訪問したわしにも落ち度はある。」 いきりたつ張飛になだめるように劉備がいう。 本来、人を訪ねる時には、訪ねることを前もって予告してからいくのが礼儀である。それをしなかったのだから、断られても仕方がない。 だが先ぶれをださなかったのには理由があった。今回ここに来たのは、襄陽の劉表に曹操を攻めることを勧めにきたついでなのだ。もしかすると劉表の反応次第では、すぐさま新野に戻らなくてはいけないため、今日ここに来れる確証がなかった。 劉表に兵をだすつもりがなかったために、ここに来れたのだが、ついで……でここに来た劉備の心根を見抜いたようだった。 ついで、で竜が手に入るはずがない。 簡単に手に入るような竜は、ふたを開ければドジョウだったりするのだ。 今日会うことができなかったことで、劉備は亮へ期待を余計膨らましていた。 だがそんなこと、張飛に伝わっているわけがない。 「天子の叔父である玄徳兄貴をバカにしやがって。これだから田舎学者はっ」 ヒートアップする彼の苛立ちをとめることを、二人の義兄はいつも諦めている。 単純に怒るが、単純に怒りを忘れもする。わざわざ止めずに、こういう時は放って置くに限るのだ。 「おや……?」 先頭を歩いていた関羽が声をあげたので、劉備もそちらに目をやった。 前からロバにのってやってくる一人の男がいる。 崔州平だった。 「これは……皇叔ですね。」 驚きの表情とともに彼はそういった。二人の大男を従えた大耳の男など、劉備だとしか思えない。 そして少し奇妙な表情をうかべた。何かを蔑むように片頬をゆがめる。 「孔明を訪ねてこられましたか。」 「おお、臥竜先生をご存知ですか?」 州平の言葉に、劉備は慌てて馬を下りた。 「俗世を離れ、隠れ住む隠者同士。懇意にしている間柄です。」 肯定する州平に劉備は頭をさげた。 「今日は残念ながらも臥竜先生にはお会いできませんでした。 ですがあなた様も名のある方とお見受けいたします。是非、お話をお伺いしたい。」 「兄貴っ! こんなどこの骨ともわからんやつに」 非難がましい声をあげかけた張飛を劉備はにらみつけた。 「失礼なことを言うなっ。」 州平の目の前でなければ、劉備もこのように声を荒げたりはしなかっただろう。 つい口を閉じ、だがまだ諦めていないのか、助けを求めるように張飛は関羽をみた。 だが彼はすでに馬を降り、劉備の馬の手綱を彼から預かっていた。 「雲長兄貴まで……」 「兄者は言い出したら聞かない。それはお前もわかっているだろう?」 しぶしぶ馬から降りて愚痴るようにいう張飛に、関羽は頭を振った。 州平は熱心に劉備に請われ、仕方がなくロバから降りる。 劉備は拱手して、丁寧に尋ねた。 「天下は麻のごとく乱れ、奸臣曹操めに漢王室は乗っ取られようとしております。 この非才、劉備はそれを何とか食い止め、民を安らがすことができぬかと苦慮しております。そのためにはどのようなことを為せばよいか、どうかご意見を伺いたい。」 礼を尽くし、言葉をつむいだ劉備に州平は苦笑した。 「争いなき世はございますまい。 皇叔がどれほど世を平定なさしめたとしても、それもまた一時のこと。いずれ乱へと導くものがでてきましょう。 乱は治を生じ、治は乱を生ず。これ、人が存する世にては普遍の原理。 なれば、そのようなことを論ずることも無意味ではありますまいか?」 「うむ……されどわしの中に流れている漢王室の血が、そして自分自身が虐げられし民を放っておくことができませぬ。」 「抗い難き人の世で、しかもその渦中におられる皇叔であられますゆえに、そう思われるのでしょう。 ですが一度そこから出てみなされば、ご理解いただけましょう。人一人、できることなど何もないのだと。」 州平はそう言ってロバに再びまたがった。 「心安く過ごされよ。」 そう言ったきり振り返ることもせず、亮の屋敷に向かって進んでいった。 どこまでも飄々としている、だがどこかに悲しげな思いも見えるその背中に、劉備は頭をさげた。 「兄者。帰りましょう。」 関羽の勧めに、劉備は頷いた。 「まったく腐れ論理に振り回されるのはごめんだ。」 張飛がそういいつつ唾を吐いたのを、劉備は見咎めた。自分が彼の論理を無理矢理聞いたのだ。その様な態度は無礼に過ぎる。 別段声を上げられたわけではなく、睨まれただけだが張飛は首をすくめた。それを見てから関羽は劉備の方を向いた。 「隠者の論……確かにあれも一つの真理だろう。」 劉備はそういいつつ、馬にまたがった。 「だがわしが今、求める考えではない。」 小さくなっていく州平の姿を目に映しつつ、劉備はそう言った。
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