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均しき絆 作者:奇伊都

第33回   状況の変化

 笛の音が聞こえていた。
 甘夫人が均実に教えているのだ。純の教え方より数十倍優しくて、均実は最初から甘夫人に教えてもらえばよかったと愚痴っている。
 純に教えてもらうと、どうしても貶されてやる気が失せるのだ。こちらのほうが確かに効率がよかった。
 劉備はそんなことは知らなかったが、一応稚拙ながらも曲になっていることに驚きながら歩を進めた。
 初めて聞いたときは……
 そう考えていると、思わず劉備は顔が笑ってしまうのを止められなかった。
 均実には明かしていないが、徳操の庵の近くの竹林で笛の練習をしている均実に会ったとき、実は鳥の群が感覚を失って墜落しているのかと思ったものだ。
 あのときに比べれば格段に進歩していた。少なくとも、笛だとわかるほどに。
「均実殿、すこしいいか。」
 劉備はそう声をかけ、部屋に入った。
 予想通り、そこには笛を真剣な顔をして吹いている均実と甘夫人、そして徽煉がいた。
「進歩しましたでしょう?」
 甘夫人が劉備にそう言うと、劉備も頷いた。
 一応音はスムーズにでるようになっていた。
 だが順調に上手くなってきたかといえばそうではない。吹き方によって同じ指使いでも音が変わることを教えられた直後は、混乱したのか一時退化したように思えた。
 それにもなんとか慣れてきたらしい。あとは指の動きさえギクシャクしなければよいのだが……。
「前は酷いものだったのにな。」
「本当に。あれは犯罪でした。」
 均実は二人の評価に素直に誉められたような気がしなくて、中途半端に頭をさげただけだった。
「また襄陽に行かれるらしいですね。」
 均実は話をそらした。
 家人から、劉備が出かけようとしていることを聞いている。
 前に襄陽へ劉備は行っていた。結構長い間新野を留守にしていて、ようやく帰って来たというのに、また出かけるという。新野を治めなければいけないはずなのに、彼は頻繁に劉表に会いに行きすぎているような気がした。
「ああ。以前は……」
 その頻度を訝しげに均実は思ったのだろうと、劉備はそういいながら座った。
「景升殿に呼ばれたのだ。」
 北では袁紹の子らがそれぞれに争っていたところに再び曹操が軍を進めたらしく、以前は一致団結していた袁譚・袁尚も各個に打ち崩された。そのとき拠点であった冀州を曹操に攻め取られ、それを取り戻そうと袁譚が劉表に援軍を頼んできたのだ。
「そのことを相談されてな。」
「断るよう勧められたんですよね?」
 行動を読んだかのような均実の言い方に、劉備は一瞬驚いた。
 別にこれは三国志演義を読んでいる純に聞いて知っていたわけではなく、順序よく考えれば当然の推測だった。
 確かに曹操軍を劉備は打ち負かしたが、あれはあちらに大きな損害を負わせるような勝利ではなかった。曹操自身がでてきていたわけでもなく、軍勢も袁紹の勢力をある程度取り込んだにしては少なかった。
 つまり別に曹操にとっては博望の戦いに負けようが、大した損があったわけではなかったのだ。
 そんな曹操が冀州をとり、何州にも及ぶ北方の広大な地を手にし始めてから数年。その勢いはまさに飛ぶ鳥を落とすほどと言われ、だからこそ袁譚は助けを求めてきた。
 溺れる者は藁をも掴む。
 だがいくら富んでいるとはいえ、一州足らずの勢力地しかもたない劉表が、曹操に敵う力をもっているはずがなかったのだ。
 なるほど……これでは雲長も参るはずだ。
 義弟を均実のことで散々冷やかしはしたが、それも仕方がないというのを劉備は納得していた。彼女は知識も深く聡悟な上、容姿に関しては明眸皓歯という言葉が恥じて逃げ出すほどだろう。
 それにしてもこれで容貌に全く頓着しないというのが、また面白いところだな。
 徽煉の均実に対する愚痴を甘夫人からまた聞きしたことがある。劉備は自然と口元に笑みを浮かべた。
「さて……今日、聞きたいのは臥竜先生とやらのことだ。」
 閑話休題、やっと本題を切り出した。
 均実は眉を上げる。
 徐庶から推薦したのは聞いてから数年経つが、未だ劉備は亮を訪ねようとはしていない。これはさっきいったように曹操の勢力が油断ならなく、この新野を軽々しく劉備が留守にできないという理由があるため、均実は仕方がないとは思っていた。
 だというのに何故今?
 均実の疑問がわかったかのように劉備は笑った。
「状況が変わってな。」
 彼が言うには曹操はもう袁家の残党を一掃したらしい。そして今回さらに北を収めている烏桓という民族を攻めるための軍をだそうとしているという。
 それは知らなかった。
 均実は一度頷いた。おそらくは劉備独自の情報網からやってきた最先端の情報だろう。
 そうなってくると袁譚が援軍を頼んできたのとは訳が違う。
 劉備の話が本当だとすれば、曹操の本拠地である許都から南に位置している荊州への警戒が、なんら感じられない軍事行動だった。
 北征しているときに劉表が攻め入れば、曹操といえども軽傷ではすまない。
 その情勢は誰の目にもあきらかだった。
 今度は劉備から劉表を尋ねるのは、軍を出すのを要請するためだ。
 あえてそこまで説明せずとも、均実が理解したのを劉備はわかった。
 隆中は襄陽から目と鼻の先だ。ついでに亮に会いに行く気になったのだろう。
「単福殿に推薦されたのだが、均実殿からもどのような人物か聞いてみたくてな。」
「どのような……ですか?」
 均実は亮のことを思い出した。
 あえて説明せよと言われると、いまいち言葉がでてこない。
「優しくて……え〜と……」
 こんな平凡な言葉は参謀としてのウリにはならない。劉備には亮を三度も訪ねてもらうほどの魅力を感じてもらわないと困るのだ。
 均実はそう思いつつ、亮を表現する魅力的な言葉はないかと考えた。
 亮と話しているときに何かなかっただろうか。
「そうだ。水鏡先生が見た亮さんの人相見の結果を聞いたことがあります。」
 これならば間違いない。劉備も徳操のことを認めているから、彼の言ならば信用できるだろう。
「ほう……」
 思ったとおり劉備は興味がそそられたらしい。
「どのような?」
 と聞いてきた。
「『治』の相だと。」
 話してくれた亮の声を思い出す。
 それに関して、まだ彼が自信をもっていないことはあえて伏せた。
 それを劉備に教える必要はないだろう。
 均実の説明に劉備は何度も頷いて、そして部屋から出て行った。
 それに頭をさげている徽煉の姿を目にとらえて、均実も慌てて礼をした。
「……奥方様?」
 均実が頭を上げきる前に、徽煉の声が聞こえた。
 そういえばさっきからなんだか静かだ。
 亮の説明をしている間、一言も甘夫人の声を聞いていない。
 振り返るとじっと座っている彼女がいる。
 だがやはり何も話そうとはしない。
「奥方様?」
 甘夫人の奇妙な態度に気がつき均実が声をかけると、彼女は口元に手をあてて眉をしかめていた。
 顔色が悪い。
 酷く胸騒ぎがして、均実は甘夫人に駆け寄る。
「どうかされたのですかっ?」
「…きもち……悪い……」
 甘夫人の指の隙間から苦しそうな声が漏れた。
 まさか……何か病気じゃぁ。
 糜夫人が亡くなってからも、劉備を変わらず支えてきた彼女がそんなことになっては、どれほどのショックを劉備はうけることだろう。
 側にいた徽煉が慌てて桶を持ってくる。
 均実もすぐに医師の手配をしてもらえるように、人を急いで呼んだ。
 診断の結果は……懐妊だった。



 もちろん屋敷は大騒ぎになった。
 ようやくできた劉備の子だ。
 皆が浮かれているように見える。
 襄陽に近い、樊城にいた趙雲も祝いを言いに新野にやってきたし、もちろん劉表からの使者もあった。
 そんなこんなで夏も過ぎ、妊婦である甘夫人にとっては過ごしやすい気候に変わってきていた。
 そんな中、ついに曹操の北征が始まった。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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