均実から来た書簡を純は眺めていた。 逃げるように隆中からいなくなったが、彼女は別に旅に出たわけではなく居場所ははっきりしている。そして少なくとも二ヵ月に一度は連絡を欠かさなかった。 頻繁に心配がいらないことや、新野での生活について書かれたその書簡が届けられる度に、亮も純も彼女が無事であることを安心していた。 最初につたない漢文が二三行。その後は日本語で書かれている。読むのはほぼできるようになったらしいが、書く事は未だに苦手のようだ。その断りがその二三行で書かれていた。 そしてその後に、それぞれに宛てられた文章が続いている。 もちろんここで日本語を読むことができるのは、純だけだ。よって均実の書簡は純が声に出して、他の人に読み聞かせていた。 純のものには、単福が徐庶であったことはわかったということや、彼が亮を推薦したことなどが書かれていた。……単福が徐庶だったことを知らない均実をみて、面白がっていた純への愚痴も。 悠円への言葉もちゃんとあり、「まだ怒ってるんだろうなぁ」と書かれてあるのを読んでやると、彼は不満げな顔をした。均実が勝手に新野へ行ってしまったことを、悠円は怒っていた。それを以前、書簡に書いて送ったのだが、彼にとって均実は姉のような存在だ。心から怒っているわけではなく、ただここにいないのが寂しいのだろう。 亮へのものもあった。基本的には勝手をしてすまないという謝罪と、もうしばらくはこちらにいるというものだ。 それらをそれぞれの人に読んだ後、純は自分の部屋に戻り、もう一度文面に目を通していた。 亮への文章を読み返し終わってから、さきほど亮の部屋に行ってそれを読んだ時のことを思い出し、純はため息をつく。 均実から亮への書簡には毎回、新野に行ってしまったことに関して、くどいほどの謝罪があった。 以前均実が旅をしたときに、かなり心配をかけたという前歴があるためらしい。 それを聞いて亮はいつも微笑んだ。柔らかく、そしてどこか嬉しそうに。 その笑顔が純は好きだった。 「いいなぁ、ヒトは。」 つぶやいたその言葉は、まさしく羨ましいという感情から構成されていた。 純は亮が好きになっていた。 いつから……といわれてもわからないほど自然に。ゆっくり時間がたつにつれ、彼の優しさがしみこんでくるように。 だから彼にあんな表情をさせる均実が、純には羨ましかったのだ。 「奥様?」 声をかけられ純は書簡から顔をあげた。陽凛に均実への返信を書くのために墨などを用意してもらっていたのだが、それが済んだらしい。 礼を言って、純は筆を持つ。 何を書こうかなぁ…… チラッと、均実の書簡を片付けてくれている陽凛に目をやった。 テキパキともう次の用事にとりかかっている。 彼女は純のことを「奥様」と呼ぶ。嫁いできてから「姫様」から「奥様」に突然変わったので、違和感を覚えていた。もう何年にもなるのに、未だに変な感じがする。 実家にいるときも、滅多に字でよんでくれなかったもんなぁ。 純はそんなことを思い出していた。 かなり落ち込んでいたりすると、陽凛は字で呼んでくれたりするのだが、基本的には呼称についてのわがままを受け入れてはくれなかった。 まあ、立場を考えれば当然なのだが。 そんなふうに嫁入り前のことを考えていると、ふと父である黄承彦のことを思い出した。 「何で父上はヒトに縁談を勧めたのかな……」 あれはあまりにも突然だった。純にも何の連絡もなしに来たのだ。 答えを求めたわけではなかったその純のつぶやきに、答える声があった。 「私が勧めるようにお願いいたしました。」 予想しなかった陽凛の言葉に、純は息を吸い込む。慌てて彼女のほうをむくと、まったく大したことなどしていないかのような涼しい顔をしている。 何を……言ったの? 言われた言葉を理解するにつれ、純は顔をしかめた。 「……なんで? そのせいでヒトはここから出て行ったのに。」 承彦が縁談を勧めて帰った後、「ここにいては……」と言ったのは陽凛だった。 彼女は均実をここから追い出そうとしたのか。 そうならば許せないと思って、純は陽凛をみた。 やっと再会できた親友なのに、どうして自分から引き離そうとするのか。 だがそんな純に怯むことなく、陽凛は純を見返す。 「このままで良いとお思いですか?」 厳しい口調で陽凛は言う。 「けしていいことにはなりません。」 いいこと? 何それ。 「均実様は女性です。」 純は一瞬傾げそうになった首を振った。 陽凛のいわんとすることがわかったのだ。 均実が亮を好きになるかもしれないとでも言いたいの? 声を荒げる。それがありえないことだと、自分の奥底から、勢いよく溶岩がふきだすように。 「ヒトは、私の親友なんだよっ!」 「ですが……」 「そんなこと言う陽凛なんて私の知ってる陽凛じゃないっ。」 純ができるかぎり険しい顔をして陽凛を睨みつける。 どうしてそんなことを言うのか。 自分の親友を侮辱されたような気がした。 仕方がなかったとはいえ、こちらの世界に連れてきてしまった自分を責めることもしない、誰よりも信頼している均実を、何故そんな言葉で汚すのか。 だが困ったような、それでも必死な顔つきの陽凛を見つめているうちに、自分の中の溶岩は冷めてきた。 そっか……そうよね、ただ陽凛は私のことを心配してくれただけよね。 いつもそうだ。彼女は姉のように自分を気遣ってくれている。 一旦肩の力を抜いて、純は声を和らげた。 「だいたいヒトは亮の弟だって名乗ってるし、亮だってヒトのことは男だって信じてる。 だから心配なんていらないよ。」 陽凛は、そう言って返信を書き始めた純の姿に、ため息をもらした。 初めてその危惧を抱いたのは、襄陽で均実の容貌についての噂を耳にしたときだった。 ただの噂だろうと思った。だがその噂は消えることなく、本当にその天女のごとき姿を実際に見たという者まで居た。 そしてそれは均実が襄陽に来た時期と重なる。 その噂が真実味を増したのは確かだった。 何よりも気になるのは、その噂の一節。 『誰もが心を奪われる』 それは何より陽凛の不安を煽った。 本当に、純の言う通りであればいい。 だがそうでなければ…… 嫌われても仕方がない。気分を害するようなことを自分が言っているのは、陽凛もわかっていた。 しかし自分の予想が均実と亮がしゃべっている姿を見たとき、不安がより大きく成長し陽凛の心を支配した。 だからこそ、これだけはあえて言わなくてはいけなかった。 「奥様。私はどうなってもあなた様のお味方です。」 「……だからそんなことにはならないってば。」 純はその話題を打ち切るかのように言った。
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