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均しき絆 作者:奇伊都

第31回   博望戦 謀の全貌

 李典は凄い勢いで劉備を追いかけていった夏侯惇を追い、夢中で馬を走らせていると、突然馬がバランスをくずし落馬した。地面には、一面やわらかい草が生えている。だから李典は怪我などしなかったが、すこしショックをうけた。
 馬にはもう何十年も乗っている。もう手足のようなもので、まさか落馬などするとは思いもしなかった。
 だがそんなこと考えている暇はない。
 将軍を追わなくてはっ!
 こうしている間にも、夏侯惇の姿は見えなくなってしまった。
 焦って再び馬に乗ろうとしたとき、李典はそれに気付いた。
「ん?」
 馬の足元の草が、後方で燃え上がっている炎に照らされ、奇妙な形の影を地面に落としている。
 慌てて周りを見回すと、何人かの兵士達が地面に座りこんでいるのが見えた。
「これは……」
 背後を振り返って李典は愕然とした。
 兵が……かなり後方にいる。
 見る限り、炎が燃えあがっている元劉備の陣のすぐ側まで兵はいた。どうしてこれほど兵たちの歩みが遅いのだろうか。
 その疑問はさきほどの奇妙な草にすぐ答えが見出せた。
 兵の幾人もが簡単な罠にかかっていた。本当に簡単なもので、草を結んであったり、それほど深くもない落とし穴がほってあったりといったものだ。
 どれも致命傷を負うような大掛かりなものではない。だがそれを恐れて、皆の前進する速度が遅くなったのは事実のようだ。
 ……まさか、日中様々なところで兵達が酒盛りをやっているように見えたのは。
 李典の頭に悪い予感が、確信となってよみがえる。
 兵の進行速度が落ちれば、もちろんその軍の形は伸びる。
 分断されれば、いくら数が勝ろうが意味がない。
 そして相手はこちらに気付かせないように、酒盛りでカモフラージュまでして罠を仕込んであるのだ。そこまで計算していないはずがなかった。
 さっと顔が青ざめる。
「誰か! 将軍をお止めしろっ」
 自らも走りだしつつ、李典は叫んだ。
 だがそこで聞こえたのは、すぐ右の山から響く銅鑼の音だった。
 そしてここよりも遥か前方で、また違う銅鑼の音がした。



 こちらを嘲るかのように、劉備は近づいては遠のいた。
 ついていけなくなった兵たちが、夏侯惇が進むのを止めることもせずにわきに退く。
 雑兵を相手にするつもりは、まったくない。ただ目指すはあの大耳のみ。
 そう思い、馬を走らせているうちに、ふと奇妙に思った。
 静か過ぎる。
 後ろも振り向かず走ってきたから歩兵はついてこれないだろう。だがそこには何人もの騎兵がいるはずだった。しかしその者達が駆けている音すら聞こえてこない。
 馬を止め、振り返ると確かにそこに兵はいた。だがかなり遠くにいるものもいる。一本のたいまつの線が、遠くまで続いているように見えた。
 何より副将であるはずの李典がついてきていないのは、おかしい。
 これは一体……。
 そのとき周りから銅鑼の音が響く。
 それを合図に、一斉に左の林から大量の兵が流れ込んできた。
「くっ、伏兵か。」
 夏侯惇は呻いた。
 どうやら後方でも干戈の声が響いているのを聞くに、後方にも兵が伏せられていたらしい。
 はめられたのか。
 歯軋りと共に、やってくる兵達を蹴散らした。
「……撤退だ。撤退っ!」
 闇夜にその声が響くのに費やされた時間は、そう長くなかった。



「……夏侯惇も無事戻りましたね。」
 徐庶はそう言って、遠く、もう火の気配も消えた戦場を眺めた。
 さきほど火矢が夜空に向かうように、二度上がった。
 作戦成功の証だ。
 夏侯惇は博望城に逃げ帰ったのだろう。城からうってでた軍勢が、外にでていた兵達を収容して門を閉ざした後に、火矢は上げるように命令してある。
 相手はいくらかの犠牲を払ったはずだが、それほど多くはないはずである。深追いをするなという命令を、皆守ったはずだ。
 本当の本陣であるこの山に、続々と兵を引き連れた武将達が帰ってくるのをみて、徐庶はそれを確信する。それほどこちらも大きな犠牲はなかったようだ。
 この戦いはあちらを壊滅させることが目的ではない。今の荊州ではあちらに大きなダメージを与えたとしても、それで曹操が本腰をいれて攻めてきたら堪えられない。だが負けるわけにもいかなかった。
 なら看過できる程度の痛み分けが一番、誰にとっても都合がよい。
 だからこれは理想的な結果だった。
「よくあのような策を考えつかれましたな。」
 孫乾が感心したように言う。
 始めに隙だらけの陣をはったのは、もちろん相手に油断してもらうためでもあったが、同時にあの地に罠をしかけるためでもあった。
 酒盛りを装わせたのは罠を仕掛けるため。
 馬や兵が走りまわっていたのは、日中の間に味方が罠のない場所を覚えるため。
 少人数だからこそできる策であった。
 夏侯惇の兵の進みを遅くすることがこの策の目的である。万一にも劉備がつかまるようなことがないようにと、伏勢が有効的に働くようにするために。
 実はこれ……均実の隆中での罠事件がヒントだった。
「上手くいってよかった。」
 本心から庶はいった。
 一歩間違えれば、夏侯惇が確実に追ってくるようにするためのエサとしてだした劉備が危険にさらされるのだ。彼の馬である的盧は能力の面でいえば、そこらの名馬よりも群をぬいているといえる。だから滅多なことで追いつかれたりはしないので大丈夫だといえたが、それでも確実ではなかったのだ。
 それを確実にするための罠だったのだが、予想より効果的だったようだ。
 関羽を関平、周倉と共に博望城の近くの安林という林の中に、張飛と糜竺を自分達が戦場を眺めていた山の裾に伏せさせていた。
 彼らも無事のようだ。少し離れた場所にいるが意気揚々とした声で関羽が戦功を誇り、張飛が豪快に笑っているのが聞こえる。
 そうこうしているうちに劉備も無事に戻ってきていた。劉表からの使者であるという男と、話し込んでいるのが見えた。
 簡雍が迎えに出ようとしたのを、孫乾と徐庶がとめた。
「危なかったですな。劉備殿もあと少しで夏侯惇めにしてやられるところでしたな。」
「いやはやまったく。」
 二人の会話が風に乗って聞こえてくる。皆がそれに聞き耳をたてていた。
 皮肉のような言葉に、劉備は苦笑いを浮かべつつ答えていた。
「なんとか今回も、首の皮一枚つなぎましたよ。」
 そんな劉備に、フンと馬鹿にするように笑った。
「戦い慣れしているはずの劉備殿にしては、みすぼらしい勝ち方でしたな。相手に追いかけまわされるとは。
 ……それでは私はこれで失礼しますぞ。」
 自分達をじっと見ている簡雍達をみて、さすがに気まずく感じたのだろう。蔡瑁はさっさとその場から立ち去った。
 これから襄陽に向かうに違いない。
 劉備がそれを見送ってから帰ってきたとき、こらえていた簡雍は大笑いした。
「ここまできれいに騙されてくれると、こちらとしても張り合いがない。」
 蔡瑁は劉備が最初に追い掛け回されたのを、演技だとは気付いていないような口ぶりだった。
 皆さっきの蔡瑁の様子に満足げにしている。劉備が簡雍に困ったように笑いかけてから、徐庶に向き合った。
「見事な策だった。」
 それに対して誰も批判はしなかった。
 大勝も、負けもしない。その戦いを無事行い、完遂させた策。それを献じた徐庶を誉めこそすれ、貶すことはない。
 徐庶は礼を言った。
 だが……
 皆が新野の地に引き上げることなったとき、
「……襄陽でさきほどと同じ物言いをするかはわかりませんな。」
 劉備にのみ聞こえるように徐庶は言った。だがその言葉に劉備は笑みを浮かべた。
「単福殿は千里眼でもあるようだ。」
 その返答を聞いて徐庶にはわかった。劉備はわかっている。どのような戦果であったとしても、おそらく蔡瑁は劉表の疑心を煽るような言い方しかしないだろうことを。
 だがそれでも、打てる手は打たなくてはいけなかったのだ。
 やはり私の主に足る男だ。
 自らの目が間違っていなかったことを知り、徐庶は劉備に仕えることができたことを、誇りに思った。そして……
「私よりも遠くを見通す目を持つ者を知っておりますよ。」
 劉備にそう答えた。



 命からがら戻ってきた夏侯惇を、城から兵を出した于禁が保護した。
 ほぼ孤立した状態で、よくぞここまで帰ってこれたと思う。
 夏侯惇ははめられたことを知った時の、底冷えするような恐怖を思い出し身震いした。
「ご無事ですか?」
「ああ」
 李典が様子を見にきた。それに吐き出すかのように答えると、夏侯惇はようやく落ち着いてきた。兵全体を見回しても、大きな損傷はない。
 何より将である自分や李典たちが全員無事だった。
「兵の歩みが遅かったのは、あちらの策のせいか。」
 その李典の報告を聞いて、夏侯惇は呻いた。
 追撃というのは勢いにのっているだけ、余計に兵は早く動くものだ。だからあの兵の歩みの遅さは異常だったといえる。
 してやられた……と夏侯惇が顔をしかめていると、そこに兵をまとめ終えた于禁がやってきた。
 彼も渋い顔をしているが、策にはめられて気分を害しているわけではなかった。
「今回劉備は本気をだしてはきておりませんな。」
「何?」
 于禁のその言葉に夏侯惇は眉をあげた。
「こちらを殲滅するつもりなら、伏勢を同じぐらいの地点で両側から攻め立てれば、軍は完全に分断され、こちらも大将を救うことすらできませんでした。」
 冷静な分析に改めて肝が冷える。
 劉備の今回の策をたてた人間はおそらくそこまで考えていた。徹底的にこちらを叩いてしまうこともできた。
 だがもし本当にそれをすれば、さすがに曹操も黙ってはいなかっただろう。
 この程度の損失なら眉を一瞬しかめるだけで、それほどの痛手ではない。
 見通している。そこまで。
 被害は少ないとはいえ、総大将である曹操が反対していた中での敗戦。こちらは一旦退かざる得ない。
 劉備にまだ曹操と本格的に矛を交える気がないなら、あちらにとって上々の結果だろう。
 そう、これは徐庶の計算どおり。
 あえて完全に敵の兵を分断させることをせず、何とか城まで帰れる程度に兵を乱すにとどめたのは、勝ちすぎないようにという加減と、慌てた夏侯惇が玉砕覚悟で劉備を追ってこないようにしたためでもあった。
「このような策。何者が考えたのか……」
「それはわかっております。」
 于禁はそう言った。
「捕虜を数人ですが捕まえました。」
「ほう……」
「単福という者だということです。」
 于禁の言葉に李典は目を見開いた。
「単福……それは聞いたことがある名だな。」
 夏侯惇がこちらをみるのに気付いて、李典は首を振った。
「わしは知らぬが……以前、確か程?殿がそんな名前の者のことを言っておられたことがあったように思う。」
 程?は今、許都で曹操と共に内政の充実に当たっている。
「そうか」
 夏侯惇は頷き、兵を率いて一旦許都に戻ることを決めた。



 新野の屋敷内にずっといた均実には、戦の詳細などわからなかった。全てが終わった後徐庶から聞いた話によると、危ないところを劇的なまでに逆転して相手を追い払ったという。
 博望の危機は去った。
 これを境に徐庶は劉備に重用されることになる。
 そして……亮を推薦したという。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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