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均しき絆 作者:奇伊都

第30回   博望戦 追撃

 博望の山の麓に広がるように劉備は陣を敷いた。
 その陣は平凡な形で、城を取り囲むわけでもなければ、どこかに兵力を集中させているわけでもない。つまりは特に変わった陣形ではなかった。
 だからなのかもしれない。緑が覆うその地は、無骨な戦の用意がなされていても、どこか平穏な感じがする。戦場独特の緊迫感が表れていないようだ。
 それははるばる許都からやってきた自分を迎えるに、その兵の少なさからかあまりにも華奢なものに思える。
「劉備には良い参謀がおらぬとみえる。」
 横にいた李典に夏侯惇は笑みをみせた。左目を布で覆うようにしていて片目しか見えないが、それが余計のその笑みに凄みを付け加える。
 総大将である曹操の従兄弟で、百戦をかいくぐりぬけてきた猛将である。以前戦いで左目を射抜かれたが、その後も勇猛さに衰えはなかった。そしてこの出兵の大将を任され、その気概はますます膨らんでいた。
 李典はその覇気から曹操に近いものを感じながら、示された陣を見下ろす。
 劉と書かれた旗が風になびいているのが見える。この城に夏侯という旗がたっていて、ここに夏侯惇がいるように、劉備自らがあの陣にいるという意味だった。
 だがそれにしては、ここから見える兵の数は明らかに少ない。こちらが大軍であるのはわかっているし、劉備に集められても一万もないはずなのも理解はしている。だがあまりにも少ない。兵を鍛えているとは聞いていたが、このように少数では、自分達が連れてきた大軍に敵うはずもない。
 間違いなくあの旗は偽装だな。
 そう思った。
 その時そんな李典のすぐ横に于禁が立った。
 冷静な判断力が曹操に買われている男で、李典と同様、今回の戦には副将として従軍している。
 その彼は何も言わずにただ陣を睨んでいる。
 それを自分の言葉への同意だと感じたのか、夏侯惇は李典がさきほどみていた劉の旗に目をやる。
 組織の要であるはずの劉備を、こんな敵近くの、しかも無勢の中に置かないだろう。あの陣に、劉備がいるはずはない。いたとしても三下の将だろう。
 曹操が手をだしてきたのに、何の対応もしないのは客将の立場では、劉表に対してまずい。だがどうせいつもの牽制だと考えているのだ。ただ兵の数が多いために、そんな偽装を行って、こちらにプレッシャーを与えているつもりか。
 城の上から陣を見ていた夏侯惇は、その見え見えの策しか立てていなさそうなその陣をそう判断した。
 一方、于禁は一瞬目を細めてから、
「……あれはなんでしょうか。」
 と問うた。
 于禁の示す方向を見ると、慌しく何人もの馬や兵が忙しく陣の中を駆け回っている。
「命令が行き届かず、混乱でも起きているのだろう。
 ほれ、あそこに座ってふざけている兵までおるわ。」
 夏侯惇は笑みをおさめずに言った。
 確かに地に座り込んでは、杯をかかげている兵たちの集まりがいくつかある。見れば陣からかなり離れたところまで、それは点々としている。それを諌める命令があちこちに飛んでいるのだろうが、一向に兵たちは腰をあげない。
 様子を見るために二日ほど城にこもっていたが、その酒盛りは終わるどころかどんどん場所を広げているようにみえ、ほぼ陣などあってないようなものだった。
 これが笑わずにいられるか。あまりにも相手の士気が低いように見える。
 今回の遠征は、しぶる曹操を夏侯惇が説得したものだった。
 今、我らは力を蓄えねばならん。
 そう言う曹操はその鋭い眼光を、たとえ従兄弟である自分にも緩めることなどしなかった。出兵をそのようにはねのけられては、夏侯惇は何度も今劉備を攻めることの利点を説いた。
 袁紹が死んだことで、それまでは一応のまとまりをとっていた袁譚、袁尚に亀裂が入っている。水面下で兄弟間の争いが起こっているのを察知した。曹操は参謀の言をいれ、兄弟争いによって袁譚らが力を削いでいくのを待つことにし、許都に戻ってきたのだ。
 だがいつかは再び北に攻め入らなければいけない。だからそれに備えて兵を休ませ、兵糧を蓄えるという曹操には、今回荊州を攻めるつもりなどなかった。
 だが夏侯惇には今が機のようにしか思えなかったのだ。
 劉備が荊州に逃げ込んでから、兵を鍛えているというのは何度も頻繁に聞いたことだった。あまり長く彼を放っておいては、大きな癌になるのは間違いない。
 素早く叩いておく必要がある。
 そしてそれは間違っていないように見えた。
 だがそうまでして出兵したというのに、これはなんだ。
「夜にでも攻め入れば、簡単に蹴散らせよう。
 兵をそれまで休ませろ。」
 つまらん。
 曹操に意見してまで気負ってきたものがその士気のなさをみると、あまりにも必要なかったように思えてきた。
 劉備を過大評価しすぎたか。
 夏侯惇はあまりにも隙がありすぎるその布陣に、力を抜いた。
 その振る舞いに于禁が顔をしかめたのを、李典は見逃さなかった。
「于禁殿。何か気にかかることでも?」
「いや。ただ……私は城に残りましょう。」
 そう言ったきり口を閉ざした于禁に、李典は嫌な予感を覚えた。



 闇があたりを覆ってから素早く兵をすすめた。
 まるで激しき川の流れの音のように、腹に響く低い音が連続的に辺りを埋め尽くす。大勢の者が一斉に地を叩いて前へ進む音。
 これは戦場に向かう心を鼓舞させる。
 勇み立つ心のまま、まっしぐらに劉備の陣へむかう。
 が、まったく相手に手ごたえはなかった。
 いくらかの干戈を交えた後すぐ、兵がとるものとらず我先へと逃げていく。命をかけようという戦意すらないらしい。
「これしきのものかっ」
 簡単に退散する相手を追いつつ、夏侯惇は苛立っていた。
 もう陣の中まで攻め入ることができたが、あまりにもあっけないその戦に、肩すかしをくらったような気がする。
 対抗してくるならともかく、相手は逃げることしか考えていないようだ。陣もあっさり捨てて、もうここには兵がいないように見える。陣はたいまつのおかげで、なんとか辺りを見ることができるが、外に散った兵たちは、一体どこにいるのかすらこの闇夜ではわからなかった。
「将軍、劉備がいました。」
 李典が馬を駆って近づいてきた。
「劉備が? 間違いないのか?」
 夏侯惇は自らの推測が間違っていたことに驚いた。
 どうやら陣から逃げ出すのを見た兵がいたらしい。劉備の風貌には特徴があるので、間違いはないだろう。
 こんな陣に一体何故、劉備自身がでてくる必要があったのか。
 ……ただの間抜けか。
 この兵の逃げざまを見ていると、その上に立つ劉備はそう思えてきた。
 少し多く曹操が博望に兵を送ってきたらしい。よし、どれほどの数か物見遊山がてら見に行くか。
 そんなことでも言ったのではないだろうか。
 まったくこちらが本気で攻めてきていることに気付かず、ぎりぎりまで陣に留まっていたのかもしれない。
「ちょうどいい。首をかっ斬ってやる。奴はどちらに逃げたっ!」
「将軍、悪い予感がします。一旦城にもどられたほうが……」
 意気があがる夏侯惇を李典が諌めた。
 あまりにもあっさりしすぎている。
 そのことに不安を感じたのだ。
 しかし夏侯惇はそんな弱気な李典を馬鹿にするように、鼻から大きく息をだした。
「予感などで兵は動かせん。優勢であるのに兵をひく利がどこにある。」
 李典の進言をそう却下したとき、夏侯惇の目から暗さが奪われた。
 無人だった帷幕や、意味を成さない柵に火がかけられていたのだ。秋風が炎を煽るように吹き、すぐに辺りは真昼のように明るくなった。
 もとより他人の領地だ。本気で守るつもりもないのだろう。
 劉備の考えがそうであると思えば、ここまで不甲斐ない戦いぶりもよけい納得がいく。
 踏み荒らすかのように陣を探ると、飼料や兵糧にまで火がついている。渡すぐらいなら焼いてしまえと言わんばかりに。
 その時それを焼く明かりで、夏侯惇にも見えた。
 はためく劉の旗の下、大きな耳をした男が兵を引きつれ一目散に逃げていくのを。まるでそれを確認させたのを確かめるように、その男がこちらを振り向いたのを。
 見間違いようがない。
「おのれ大耳め。馬鹿にしおって!」
 それを挑発とみなした夏侯惇はいきり立つ。思い切り馬に鞭をくれると、その方向へ走り出した。
「将軍っ!」
 声を荒げて呼ぶ李典の声を背に、夏侯惇は劉備の後を追った。



「始まりましたな。」
 孫乾の言葉に徐庶は頷いた。
 戦場からそれほど遠くない山の中腹、せり出した岩盤の上でたいまつの動きを彼らは見ていた。
 闇にその赤い炎はよく映えた。
 城から飛び出してきた夏侯惇の軍は、劉備が陣をはった場所にしばらく留まり、その場所が明るくなった後、進路をある一方向に定めてそこから飛び出していった。
 徐庶は少し血の気を失っている唇を噛んだ。胃がキリキリとなりそうな気がする。理論上、そして計算上は問題がないが、全てが読みどおりいってもらわないと、その進路の先にいるであろう人間が危ないのだ。
 それだけがこの作戦の唯一の留意点だった。だがその一番の危険にさらされている人物が徐庶の進言したこの作戦を推したため、最終的には実行が決まったのだ。今となっては無事を祈るのみである。
 もうすでにそれぞれの配置に武将はついている。あとは機を待つだけだった。
 ここにも一人武将がいる。不測の事態が発生した場合に、すぐに的確な場所に兵をだせるようにと、ここにいてもらったわけだがここまでに何の問題もない。
 このままなら彼には戦場で舞う機会はないだろう。
 古参の将であり、劉備の友人でもある簡雍は、ここからの眺めに次のように言った。
「おお。奴ら、よく追いかけるな。殿には必死でお逃げ願わないと。」
 あまりにも緊張感のない声だったが、簡雍はそのたいまつの動きを目で追っていた。
 肝が据わっているのか、それとも戦場に慣れているのか、あるいはその両方か。どこか楽しそうなのは大したものだ。そう思っていると簡雍は徐庶に笑いかけた。
「単福殿、わしの出番はなさそうだ。」
 少し残念そうなその声に、徐庶は目の前の景色を見る。
 そして口元に笑みを浮かびあがった。
「かかりましたね。」
 徐庶のその言葉に、孫乾も笑みを見せてから伝令を飛ばした。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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