隆中にも居酒屋がある。小さな店で老人一人が切り盛りしている。やっていけるのだろうかと問うと老人は、別に稼ぎたいわけじゃない。ただの娯楽だ、とカラカラ笑った。 その言葉を証明するように、店の中に客はあまりいない。 「この一年。また長いこと、弟さんの姿をみなかったがどこかにいってたんかい?」 この爺さん、酒を飲むのが一番好きで、次に人と話すのが好きと公言している人物だ。 店に入ってすぐ、挨拶後そういわれて、均実は曖昧に笑った。 亮には均という弟がいた。過去形なのはもう亡くなったからだ。 だがその亡くなったということを知らない人間は多い。というのもあまり亮は人付き合いをするほうではなく、その喪式もほぼ身内だけで済まされたからだ。 そのせいで均実がその均に間違われるのはいつものことだったで、もう否定する気もおこらなかった。 亮はにこやかに応対する。 「ええ、すこし旅行に。」 「そうかそうか。旅はいいの。最近は物騒だが……」 「お〜い、ここだ。孔明、均実殿もきたのか。」 その少ない客の一人が手を上げて、店の入り口で老人に捕まっていた二人を呼んだ。 孔明というのは亮の字である。 亮の友人である除庶は、今日ここに亮を呼んでいたらしい。そして残って畑仕事を続けようとする均実を、亮がひっぱってきた。 すこしは気分転換をさせるべきだろうと考えてのことだ。だから均実も断りきることができずについてきた。 老人に断って話を終わらせると、彼はすこし不満そうな顔をしたが注文を受けて、厨房に入っていった。 庶の他に崔州平もそこにいた。彼も亮の友人の一人だ。結構、礼儀正しい性格をしているが、庶とよくつるんでいるせいか、時折失礼なことを言う。 両方、すでにその手には酒の入った杯がもたれていた。 「また爺さんから逃げれなくなってたな。」 「別に。ただ、話をしていただけだろう。」 「その話が長くて皆、適当にきりあげるのに、まったく孔明は律儀ですよね。」 呆れたような声に迎えられて、亮は苦笑した。 「おや、広元もいるじゃないか。」 一人歓迎の声をあげずに、ちびちびとマイペースに酒を飲んでいる男がいた。 「あ、お久しぶりです。」 均実が頭を下げると、こちらをチラっとみて、広元はまた杯に口をつけた。目が開いていないのではないかと思えるほど細い。 除庶が喋り好きだとすると、彼、石韜は逆に無口だった。もちろん広元というのは彼の字である。 均実は隆中に戻ってきてから、庶や州平には一度、出迎えられた時会ったが、広元はちょうどその時留守をしており会っていなかった。つまり丸一年ぶりにあったことになるのだが、元々亮の友人であるし、それほど極めて均実と仲がいいというわけではないが、そのそっけなさには均実もがくっときた。 時折するどい指摘をするくせにかなり無口な広元は、皆から普段は寝ているのだといわれてからかわれている。その細い目のせいもあるだろう。 席につくと、当たり前のように酒が机に置かれ、均実も注がれた杯をもたされた。濁り酒で透き通ってはいない。なんとなくひな祭りの白酒を連想させた。 このころの製酒の技術はそれほどではなく、アルコール度数も現代のものに比べるとかなり低い。 だが均実はかすかに漂う酒の匂いに眉をひそめた。 一応未成年になるのだが……、ここではそういうモラルは通用しないらしい。均実が酒の入った杯をもっていることを、誰も咎めようとはしない。 「呑まないのか?」 庶が咎めるどころかそう聞いてきたので、亮のほうをみると彼は静かに飲んでいた。 持たされたまま固まっているわけにはいかないので、均実は口をつけた。 「……」 「どうだ?」 「おいしくもないけど、まずくもないですね。」 正直な感想だ。好んで呑みたいとは思わなかった。 アルコール度数が低いせいか、量を飲んでもあまり酔わなさそうに感じた。……飲む気はないが。 均実の言葉に庶は苦笑すると、州平は肩をすくめた。 「別に呑む必要はないんですよ。ただどこかに仕官したりするとなると、ある程度は呑めないといけませんが。宴席などがありますからね。」 「私は仕官するつもりは全くないですけど。」 「あれ? 孔明。お前、均実殿を水鏡先生のとこに、通わせるとか言ってなかったか?」 均実の言葉に反応した庶が、亮に話しかけた。 「水鏡先生?」 聞きなれない名前がでてきた。 均実がそう繰り返すと、亮が微笑んだ。 「私達の先生だよ。ここからそれほど遠くないところに住んでらっしゃる。そこで塾を開いておられるんだ。」 「仕官するつもりもなく、水鏡先生を師事するつもりか? かなりの贅沢だぞ?」 「そ、そんな凄い方なんですか?」 庶の物言いに均実はすこし引いた。 塾に通うというのは了解したが、庶がそこまでいうような人に教わるつもりで了解したわけではけしてなかった。 三人は笑った。 「凄いは凄いけど……っていうか変わってるよな。散々、劉州牧から仕官の話が来てるのに、全部辞退したって聞いたな。そんなに歳をくってるわけじゃないのに塾を開いて、人材を育てるのが自分の天職だって公言してるし。」 「ええ。それはいいんですが……。時折フラリとどこかに出かけられるんですよね。誰にも行き先を言わずにいくので、行方がつかめない時がよくあります。そのせいか、驚くような人物と知り合いだったりもしますけれどね。」 「だけど水鏡先生の学問の深さは、おそらく襄陽一だろう。天職というのも間違ってはいないよ。まあ確かに変人という名も高いが。」 「天才と変人は紙一重だからな。」 広元ですら、そのあまり開かない口をひらいた。 一様に誉めているような、貶しているようなよくわからない言葉だった。きっと水鏡先生とやらを形容する言葉は、今でた言葉の十倍はあるのだろう。つまり一言言ってやりたい人物ということだ。 いったいどういう人なんだろう。 疑問に思いながらも、口々にその水鏡先生のことを話されて、均実は首をかしげる。 亮もそうだが、ここにいる者たちは、この荊州を治める劉表に、いやそれどころか天下に名前を馳せている英雄の誰にも仕官しようとしていない。もう一人、孟建という友人が亮にはいるのだが、彼は曹操に仕官している。つまり仕官しているのは五人中一人だ。 以前彼らにそのことを尋ねた時は「刻がきていない」といわれたが、今の話を聞くと仕官しようとしていないのは、彼らの先生の影響なのかもしれない。 「私は均実殿が仕官をする気がないなら、それでもいいと思っている。だが塾にいけば友人がきっとできるだろうし、世事にも明るくなる。だから勧めたのだが……」 そこで亮は酒を口に含んだ。 これを言えばまた彼らが心配するのはわかっているが、説き伏せておくのが後々のためだとわかっている。 一呼吸置いてから、庶のほうに目をやる。 「全く家名も何もない、均実殿が水鏡先生を師事するのは周りから見てもおかしいだろう?」 「あ? そりゃぁ先生は一応名士だからな。ちゃんとした家の人間じゃないと、教わるのは難しい……って孔明。お前」 「うん。均実殿を私の弟ということにしようと思っているんだ。」 は? 均実は口をあけて亮をみた。 初めてこの世界にきたとき、亮が均実を彼の弟、均に重ねることを庶は心配した。あのとき亮は重ねてみてはいないと断言したため、その問題は終わったと思っていたが、まだ残っていたのだろうか。 「孔明、死んだ人間を生きている者に重ねるのは、死者に対しても生者に対しても無礼なことだし、不幸にしかならない。それは前にもいったはずでしょう?」 州平が顔を曇らせて、そう言った。 彼がそんなことを言っていたとは均実は知らなかったが、州平もかなり心配したのだろう。庶も険しい顔をして亮をみている。 「均実殿のことをそうは見ていないと聞き、安心していましたがそうでないなら…」 「そうだぞ。孔明、早まるな。」 「均実殿は均実殿だ。それは変わらない。」 二人の説得に亮は穏やかに笑った。 その顔と言葉に、険しい顔だった二人は息を吐いた。 かたまっていた広元の杯を持つ手も、力を抜いたように下ろされた。 そのことをわかっていれば、亮が短気を起こすことはないのを彼らは知っている。 落ち着いた声音で、亮は続けた。 「対外的にただ養子にするより、弟としたほうが特別視されないだろう。年齢的にもおかしくないしね。そう考えただけだよ。 今でも結構均実殿が均だと思っている人は多いから、特に問題もないだろうし。 君らの反論も予想はしていたけど、これからのことを考えてもそうするほうがいいと思うんだ。これは均実殿の許都での行動のせいでもある。」 「え?」 均実は驚いて、亮を見た。 許都とは関羽と行動していたときに行った町の名前だ。 隆中に戻った時、甘海がそのときのことを亮に報告していたらしいが、変なことをした覚えは……ありまくるが、何か問題があっただろうか。 「……均実殿、何をしでかしたんだい?」 至極真面目な顔で庶が尋ねてきた。 「しでかしたって……まるで犯罪でもやったみたいじゃないですか。」 「まあ、犯罪ではないね。」 亮はそういいながら、酒を杯に注いだ。 その杯を持ち上げると、すこし口元に笑みを浮かべる。 「曹操に諸葛均だと名乗ったそうじゃないか?」 「ほお……」 「ああ……なるほど。」 庶と州平はそれだけでわかったようだ。広元も一つ頷くと、また酒を飲み始めたが、均実にはいまひとつわからない。 ちなみに亮がいっていることは本当だ。関羽と一緒に招かれた宴で、均実は自分のことを諸葛均と名乗っている。劉備の奥方付きの侍女である徽煉と初めて会った時に、彼女が均実のことをそう思いこんだというのを受けて、日本からきたというのを説明するのがめんどくさい時は、そう名乗っていたのだ。 それを甘海が誰かに――まあ徽煉だろう――聞いて亮に伝えたのだろう。 「あの、それってどこか不都合が?」 「今のところ不都合はないね。一番の問題は私がどこに仕えるか、決めてないということかな。」 急に不安になり、そうきいたが亮はわらった。 「もし曹操のもとへ私が仕官したとき、諸葛均という者はどうした、なんて聞かれると困るだろう? 許都で他にあった人物もいただろうし。」 「……。」 確かに曹操のほかにも、彼の家の執事である延寿や、息子の曹丕にも均実は会っている。 だがどちらにしろ、名乗ったときは女の格好をしていたのだ。弟としての諸葛均では不都合ぷんぷんだと思うが…… 「それに……まぁ気にする必要はないよ。ただの保険のようなものだから。」 均実が何ともいえず、黙り込んでいると諸葛均の名を使ったことを反省しているのかと亮は心配したらしい。何かいいかけたようだが、言いきらなかった。 そんなこんなで均実が対外的には諸葛均という名前を名乗ることが決まった。 それならと庶が悪ふざけをして、義兄弟になれといいだし、杯を飲み交わすよう言い始めた。 「桃園の誓いではないが、酒屋の誓いというのでもいいか。」 字面が美しくないと州平に指摘され、庶は笑った。 桃園の誓いというのは劉備・関羽・張飛の三人が義兄弟になることを決めたものだ。この話は結構有名で、この世界でもだいたいの人は知っている。それの二人バージョンを意識しているようだ。 そのふざけように亮はため息をついた。 酔っ払いの相手をするとき一番被害が少ないのは、全面的に要求をうけいれてやることだろう。 「別にいいが……」 「え、でも亮さん他にご兄弟がいるんでしょ? 勝手にそういうのってやっていいんですか?」 亮が了承しそうだったので、均実は聞き返した。 確か彼には兄と姉がいたはずだ。均実が亮と兄弟になるなら、彼らとも兄弟ということになるんじゃないか。 そう考えたのだが、 「そんなに堅苦しく考えることはないよ。」 そういわれると反論材料がない。乾杯をするように自分の杯を亮が持ち上げた。仕方がなく、均実はこれ以上口をつけるつもりのなかった酒を、もう一口だけ飲むことになったのだった。
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