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均しき絆 作者:奇伊都

第29回   博望戦 玉石混合

 博望という地がある。草木生い茂り、自然の恵みが豊かな場所だった。
 そこにある城を博望城といい、曹操の権力下にある。
 だがそこは新野にほど近い。そこに兵を大勢動かすというのは、まさに劉備にけんかを売っているようなものだった。
 これまでも数度、牽制のように少数の兵はやってきた。最初のうちはその度に兵を出したが、実際に戦いにはならなかった。無意味なその出兵を繰り返させることで、領民の心を劉備から引き離す策だろうとされ、最近はその城の動きは観察するだけで放っていたのだった。
 いくらかき集めても一万にも満たない兵は、新野の地で徴兵した者を多く含んでいる。度重なる出兵は、農業の人手を奪い、結果兵糧に影響もでる。
 だが……
「旗に夏侯の文字あり。兵はおよそ十万。正確にはわかりませぬが、これより少なくはありません。」
 斥候のその報告に、場はざわめきたった。
 今回は相手の兵の数の桁が違う。出兵しないわけにはいかないだろう。
 軍勢の報告を受けた次の日。軍議を開いたのは、それに対する策を練るためだった。
 この新野での劉備の徳の篤さを称える噂を聞き、やってきた賢人達が左右に並んでいる。
 壮観だな。
 現在の状況を飲み込み、そして策を考えている者が何人もいる。
 今までこのようなしっかりとした軍議を開いたことは少ない。知識を持ち、策を練る者が少なかったため、そういう者に劉備が内々に相談し……というので済んでいたのだ。だがこれからはそうもいかない。
 大所帯になったものだ。
 劉備は改めて、この新野で得た物を考える。
 劉表は軍の補給をしてくれた。兵糧や武器。ありがたいことこの上ないが、最もありがたかったのはこの人々だった。
 頼りにできる参謀が自分の陣営にいないのは、劉備もわかっていた。
 曹操は名のある賢人を探し求め、そして江東の孫権も先代からの参謀や新規にいれた者の数は多いという。
 覇を唱えるには参謀が不可欠なのだ。
 定まった場所を今までもたなかった劉備には、そうやって知識人を集めることが難しかった。
 だからこうして人が集まってくるのは本当にありがたかった。
 だが……
「戦うならば今の兵力でいけるだろう。」
「しかしこれを倒しても、次は曹操が出てくるぞ。」
「北方はまだ片付いたわけではない。それはないだろう。」
「待て。これがいつものように、ただの陽動である可能性はまだ捨てられぬ。」
「だがこの大軍。出兵せぬわけにはいくまい。」
 バラバラと発言される言葉を、ただ耳に入れ続ける。時折その大きな耳にほじくるように手をやる以外、劉備は何も言わなかった。
 孫乾も地図を見ながら、つぶやく。
「城にこもられては厄介だな。」
「誘い出すにも古城のように簡単には乗ってこないでしょう。」
 同じく糜竺もそう言う。
 古城で少数の兵で始めに攻めさせて、相手がうってでたところに本格的に軍を投入するというのは、あの城に大した将がいないことがわかっていたからできたことだし、何よりこの兵力差では全ての兵をださないと、相手をうって出させることができない。
 それは確かだろう。だが……
 劉備は気付かれないようにため息を吐いた。
 玉石混合であるはずのこの場所での発言、全てに。
 孫乾や糜竺の発言にすら。
 琴線に触れるような意見は未だ出ていない。
 視点がどれも曹操にしか向いていない。これでは……
「此度の戦、相手は博望の軍勢のみにあらず。」
 そんなときだった。よく響くその声が、劉備の耳に届いた。
 質の違うその意見に皆が静まり、そちらをみた。
 やはり玉は玉か。
 最近これは……と思うような良政のための案を見るたびに、それを考えたのがこの男だということを劉備は驚いていた。
 それほど大きくない体躯で、こちらをまっすぐに見据えている。
 劉備は目をそちらにむけた。
「単福殿。いかなる意味か、考えを聞かせてもらえるか?」
「背後の味方を忘れてはなりません。下手をすればこちらのほうが、性質が悪い。」
 徐庶が滞ることもなくスラスラと言ったその言葉に、数人の息を呑んだ音がした。
 劉表は頻繁にこの新野を訪れている。
 それは州牧の領地を見てまわるという職務ではあるが、劉備の動向を気にしてのことなのは誰にでもわかることだった。
 いつか自分にむくかもしれないその牙を、研ぎすぎていないか確かめるように。
「劉州牧殿がここに殿をおく理由は、曹操への牽制と考えてもいいでしょう。
 されど今それと同時に、殿の威光を恐れています。何度もくる巡視がいい例です。」
 そして劉備は劉き寄りの姿勢をとっている。そのために次男である劉そうを推していて、力の強い蔡家からは反感をもらっているのだ。蔡家から劉備に対する劉表の疑いを煽られるようなことが、ふきこまれている可能性もあった。
 襄陽での蔡夫人の謀は事なきを得たが、あれは劉表の許可をとっていなかったと聞いている。だがおそらく劉表の許可さえ下りれば、より執拗な策を練ってくるに違いない。
 その許可を下ろさせるための疑心を、劉備は警戒すべき立場にいた。
「ここで大勝をおさめれば、その疑心はもっと膨れ上がるに違いありません。」
 徐庶の話に皆が言葉を失う。
 劉備が治めているとはいえ、新野は所詮借り物である。
 言うなればここに劉備がいることができるのは劉表の善意であり、いつ劉表が敵に回るかなど、誰にも保証できなかったのだ。
「して単福殿はこの戦、どうするべきと?」
 劉備はただ無表情に言った。
 玉を見つけた喜びを顔に表すことなど彼はしない。
 突然玉だと思っていたものが石に変わることも、よくあるのだ。
 あくまでも試すかのように、徐庶を見つめた。
「……玄徳殿は良い馬をお持ちだと聞いております。」
 一つの策を庶は提案した。



 軍議が終わる。全面的に徐庶の策を採用することとなった。
 数人異論をだしたが、どれも徐庶に論破されていた。
 面白い。と劉備は思った。
 どちらかといえば徐庶はあの場の中でも若い。だが居並ぶ知識人たちを納得させ得るその弁論力を持っている。そしてその弁論力と、提案された策とに妙にギャップがある。
 まるで子供の単純さと、大人の熟慮を混ぜ合わせたようだ。
 最終的には劉備が策の採用を決める。その決定に迷いはなかった。
 徐庶には作戦の立案者として、孫乾に同行してもらい、それぞれの武将を配置につかせるように手配させた。
 劉備も今回の作戦には出陣する必要があるため、準備をしなくてはいけない。だが彼はその足で兵舎のほうには向かわず、ある一室に通してあった男に会った。
「蔡瑁殿。お待たせした。」
 ゆっくりとその男は振り向いた。
 劉表の側近の一人、蔡瑁。読者は覚えておられるだろうが、季邦の兄でもある。
「どのように曹操めを防がれるおつもりか?」
 拱手することすらそこそこに、急くような早口で蔡瑁はそう問うた。
 気が短く、小心者。
 それが劉備にとっての彼への評価だった。
「もう戦は始まっております。詳細はお話しできかねまする。」
 徐庶の指摘は的確だった。
 こうやって、曹操の軍勢が攻めてきたという連絡をしただけで、様子をわざわざ見に彼がやってきていた。
 大勝するわけにも、負けるわけにはいかない今回の戦だが、ある程度辛勝というイメージを彼には見せなければいけない。それほど劉備は大きな力を蓄えているわけではないのだと、焼け石に水としても疑心を持っている劉表に進言させ、また蔡家自身にもそう思ってもらうためには。
 兵同士がぶつかるような場面でも、腹の探りあいが当然のように行われる。
 単純な張飛がこういう時、劉備にはうらやましく思えていた。
「お手並みのほうはじっくり拝見させていただきます。」
 少し癇に障るような嫌味な言い方で、蔡瑁は笑った。
 小物だな。だが権力を持っているだけ、始末が悪い。
 劉備はその思いを顔にはださず、ただ礼をした。
 宿舎に送るように手配してから、一人残った部屋で劉備は誰にも聞こえぬよう笑みを漏らす。
 私には良い参謀ができたな。
 それがわかっただけでも、今回の戦には価値があるように思えた。


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Novel Editor by BS CGI Rental
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