屋敷の庭でぼーっとしていた。 甘夫人や関羽とは均実は毎日話している。薙刀をすこし見てもらったり、他愛もない話をしたりと許都での生活のようだった。 だが許都とは違い、時折ぽっかり空く時間ができたりしていた。甘夫人も劉備と二人だけで話したりするし、関羽も自身の仕事がある。許都とは違うそれが、均実にぼーっとさせる時間を与えていたのだった。 今は、ただ庭沿いにある道を通る人間をみている。 別に何かを期待しているわけではないが、こういう時、屋敷の中を歩き回っている人々の観察をするのが、最近の均実のマイブームだった。 それぞれがそれぞれに歩き方も違う。どかどか歩く人もいれば、しずしず歩く人もいた。……どかどか歩いている奴がいるなぁと思うと大抵張飛だったりする。 全てどこか違うものだ。その違いを見つけるのはいい暇つぶしになった。 その中でも劉備が一番よく通る。屋敷の奥に近いほうにいるのだから、当然かもしれないのだが。 彼について歩いている人間がその度に違う。それも見ているだけで結構面白い。 また劉備が廊下を歩いていくのが見えた。 彼の動きを目で追う…… 適当に開いていた目が、大きく開かれる。ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。 彼の後ろに従っていた人物……見覚えがある。 どうしてここにいるのか。 そう思ったが見間違いではないはずだ。劉備が消えた角を追うようにして曲がると、劉備が一人の兵から声をかけられていて、しばらく行った所で止まっていた。何かを話している劉備を別にして、均実はその光景を何度も目をこすっては確認した。 背が小さい人と、眠っているかのような細い目の人。 庶と広元。間違いなかった。 均実が隆中を出るときには、また彼らは潁川に行っていたはずだ。どう計算してもここにいるのはおかしい。 だが他人の空似にしては似すぎている。 そのとき劉備が均実に気付いた。話しかけられている兵の話を一旦止めさせ、こちらに向けて軽く手を上げていた。 「均実殿、どうかしたのか?」 甘夫人のところによく行くために、均実は必然と劉備とも話をしている。そのせいで結構気軽にあちらも均実に話しかけてくるようになっていた。 劉備のその声に均実は笑みを浮かべようとしたが、そのとき奇妙な顔をした広元がこちらをふりむいた。 先程の劉備の言葉を広元は訝しく思ったのだろう。二三歩こちらに歩いてきてから、驚いたようにその細い眼が開かれた。 あ、気付かれたな。 均実はそのことをその反応から読み取った。 均実殿って、なんでここに? 同名か? いや、あれは女だろ?……とか思って近づいてきたのだろう。 女装の均実を広元は初めてみる。それに今の今まで均実のことを男だと思っていたはずだ。しっかり見ないと、わからなかったのは仕方がない。 庶も数秒のタイムラグがあったが明らかに広元より早く、その表情が変わる。呆然としたように口がゆっくりとあけられた。 うん、やっぱりわからなくもないもんなんだなぁ。 女装をしたときの周りの対応の変化から、よほど別人に変身してしまうのかとも思っていたが、そうではないようだ。 「庶ムグっ……」 名前を呼ぼうとして口をふさがれた。 一瞬で側まで移動した広元が、均実の口に手を当てている。目で問うと小さく首を横に振られた。 ……呼ぶなって事? 「単福殿は均実殿と知り合いなのか?」 広元の姿で陰になり見えないが、確かにそこにいる劉備の声がした。 均実がもう声を発そうとしていないのを感じ取ったのか、広元がどいてくれると庶が劉備と話していた。 「はい、以前すこし。」 「そうか。……先程の件に関しては考えておこう。それではわしは少しやることがあるのでな、失礼する。」 待っていた兵に再び劉備は話しかけられ、一度頷いた。そしていつもの笑みを浮かべて、劉備はそう去っていく。 奇妙な沈黙がその場にできる。 ……この空気、どうしろって言うんだ。 均実は微妙に困っていると、庶が場所を変えようと提案した。 広元も一緒にそこを退くと、誰もいないのが確認できるような場所まで歩いていった。 一度大きくため息をつくと、庶が均実に振り返った。 「何でここに……」 「こっちのセリフです!」 均実は庶の声にのっかるように言った。 移動している間に、少し止まりかけていた頭は正常に働きだしていた。 「潁川に行ってるんじゃなかったんですかっ?」 彼は隆中で共に暮らすことを了承しない母を説得しに、潁川に行っていると聞いていた。 ここに何故いるのかというのは、本当にこちらのセリフだった。 「母上はもうここに連れてきている。わざわざ潁川に行くまでもない。」 庶は首を振りつつ、そう言った。 「私は玄徳殿に仕えたからな。」 劉備が新野にいくのとほぼ同時ぐらいに、庶は旅を始めた。旅にでるとなかなか帰ってこなかったのは、潁川に訪ねるのではなく、ここで劉備に仕えていたからだという。 そんな説明をされてから、均実はさきほどの劉備の言葉を思い出し、顔をしかめた。 彼を劉備はなんと呼んでいた? その名前は…… 「……単福って庶さんのことだったんですね。」 「昔、使っていた仮の名なんだ。」 純はそのことをわかっていて黙っていたに違いない。 庶はもう隠すつもりはないのだろう。一旦そこで切ると、止めずに続けた。 「本名の徐庶という名を使うのは、少し……都合が悪くてな。だからここではそう名乗っている。」 微妙に言葉を濁したのは気になったが、均実はそれより気になったことがある。 純が黙っていたのは、均実の反応を楽しんでいたからだろうが…… 「どうして……庶さんは自分が単福だって教えてくれなかったんですか。」 彼が黙っている理由はどこにもないだろう。 「歴史で私が玄徳殿に仕えることが決まっているから、仕官を決めたわけではないからだ。」 そう言うと、庶はゆっくりと順を追って話しだした。 「以前均実殿がその名を出した時、教えていないはずのその仮の名を、均実殿が言い当てたことで、君が読んだという本がこの世界について書いてあるのは確信できた。 だが自分の未来は自分で決めるつもりで、ここにきた。」 たとえ歴史でそう決まっているのだとしても、納得できなければ仕えるつもりはなかったという。 均実殿には悪いがな、と少し苦笑しながら。 庶を信頼はしているが、そこまで期待しているわけではなかったので、均実も気にしていないと言った。 それは仕方がないことだろう。自分の人生を他人のために犠牲にするなんて、そこまでする奴はきっといない。 均実の反応に少し安心したかのように息をつくと、庶は話を続けた。 「玄徳殿をこの目で確かめて、自分の主と足る男だと思えたら仲間にはいろうと思った。 もともと玄徳殿の噂を聞いて興味はあった。流転の英雄。むしろ売りから突如転身、皆が一目置く武将を引きよせる魅力。 そして実際にここに来てから自分の目で見た、新野での統治。民の暮らし。 ……私は彼を認めた。」 本当に庶が劉備の臣下となろうと思うかは、会ってみないとわからなかった。だから自分が単福だと言わなかったというのはわかる。 しかし均実はそこでもう一つ疑問を抱いた。 「じゃあどうして、仕官することを決めてからも、潁川に行ってるって嘘をつき続けていたんですか?」 仕官を決め、劉備に庶は自分のことを単福と名乗っている。 それは歴史どおり。そして均実が望んだとおり。 だからきっと庶は亮を劉備に推挙してくれる。 しかし彼はまるで隠すようにそのことを伏せ、隆中で均実とは接していたのだ。 徐庶は均実のその言葉に、黙ってしまった。 困ったように顔をゆがめて、口に手を軽く当てている。 「庶さん?」 「……奴も言うかどうか迷ったんだ。」 見かねたように広元がそういった。 続けて説明しようとした広元を、庶は止めた。 自分で言う。というかのように。 「均実殿はきっと私が単福だと知れば、口にはださずとも早く孔明を勧めてほしいと思うだろう?」 その言葉に均実は何もいえない。確かに思ったより『三顧の礼』がなかなか始まらなくて、イラついていたのは確かだった。 そう思っただろうな。 否定はできなかった。 隆中の暮らしは平和で、平和すぎてまるでそこが自分の居場所であるかのように時が流れる。 自分から望んだこととはいえ、均としての立場が苦痛になってきていた。 言えもしない不安が付きまとう。 均ではないのに、均としての扱い。 均ではないのに、均としての暮らし。 均ではないのに、均としての振る舞い。 自分の世界でないはずなのに、自分の居場所がそこにはできてしまっている。 このまま……帰れないのか。 つい囚われそうになるその思考を、均実は必死に振り払っていた。 庶はゆっくり息をはく。 「だが私はまだそれほどここで、高い地位を得ているわけではない。 玄徳殿の下にぞくぞくと集まってきている有象無象と、何も変わらないんだ。」 劉備が多くの人間を配下として受け入れているのは均実も見て知っている。 現在庶がその中から突出して用いられているようには、確かに見えない。 「今、孔明を推挙してもけして重用はされない。ひいてはそれと一緒に仕官しようと考えていた均実殿。君もだ。」 「それでは目的が達せられないのだろう?」 広元が庶の説明を補い、均実は頷く。 歴史を変えるほどの大きな事をしでかす必要がある。だが何の実績も持たない奴が推挙した人間を、劉備が重くもちいるとは思えないし、周りも納得しないだろう。 「何か……私の知識が存分に活かせる場でもあればな。」 庶はそういいながら少し顔をしかめた。 ここは襄陽より緊張感があるとはいえ、別に差し迫った危機はない。それに劉備に仕える人間はかなり多くなっている。 だからこそ劉備にアピールする場すら少ないのだろう。 ようやく庶の行動が理解でき、均実は息を吐いた。 言わなかったのは自分のせいだったのだ。 とそう考えた時、そういえば、と均実は広元のほうをみた。 「広元殿は私の目的――、いつ知ったんですか?」 さっきからの口ぶりを聞いていると、均実の事情を広元は知っているようだ。 秘密にしといてほしいと頼んだのに、ばれていることを責められていると感じたのか、庶がすこし気まずそうな顔をした。 「……最初は州平にばれたんだ。」 種明かしをするように、庶は手を広げた。 「アイツは昔、父親が高官だったんでな。そういう場所に出入りしていたことがある。そのときの経験から、仕官した人間が持つ何か独特の雰囲気とやらがわかるらしい。それで見破られて、洗いざらい吐かされた。」 そのときのことを思い出して、正直庶はうんざりした。 崔州平の冷静な声が、大量に徐庶に降り注ぐ。 人に仕えるというのは、権謀術数渦巻く中へ、自らを投じるということだ。そのような覚悟ができているのかと懇々と繰り返し言われた。 彼が何故そこまで言ってくるのか、庶はわかっていた。 過去、州平の父親はその渦の中で溺れてしまったのだ。だから州平はその渦をおそらく誰よりも毛嫌いしている。 一つ一つ、彼の言葉には真摯に答えた。それが彼のしてくれている心配に対して、やらねばいけないことだとわかっていたから。 庶の決意が変わらないのをみて、州平は広元にも言って手伝ってもらうように勧められた。 広元は徐庶と同郷。それなりの関係があり、信頼に足る人物だ。 「それに元直には借りがあるからな。」 広元のその言葉に、庶は苦笑した。 きっと同じ土地で生まれて、長い付き合いだ。何かとあったのだろう。 「さて、こちらは疑問に答えた。今度は均実殿の番だ。 一体何故、均実殿はここにいるんだ?」 庶は話を転じるようにそう言った。 きっとその借りについては、あまり聞いてほしくないようだ。 もしかすると徐庶という本名で仕官していないのと、何か関係があるのかもしれない。 均実もそのことを追及するのは諦め、素直に答えた。嫁とり問題が均実を追い立てて、以前世話になった関羽の元に逃げ込んだのだと。 呆れたように黙って、二人はしばらくその話を聞いていた。 「やはり均実殿は女なのだな。」 話し終えてからようやく広元が口を開いた。 どうみても今の均実の格好は、男ではなかった。 頭に手をあてため息をつくように言った広元に、庶は笑った。 「私もここまでとは思っていなかった。今まで惜しいことをしたな。女の格好もよく似合っている。 この様でいたら、今度は男との婚姻の申し込みが後を絶たなかっただろうな。」 「……眼科の技術をもっと研究することを勧めますね。」 均実のその言葉に庶は気が抜けたような顔をしたが、すぐに真剣な顔になった。 「とにかく、均実殿。もう少し待ってくれ。」 庶はそう言った。 「功を立ててから、必ず孔明を推薦してやる。」 「……わかりました。」 奇妙な感覚だ。 歴史を変えようとしているのに、その歴史通りになることが必要だなんて。 均実は得体の知れない不安が生まれるのを感じた。 だがけしてその理由はわからなかった。
「そうか……」 劉備は眉をよせる。北方に放っている配下の者からの定期報告を受け取ったのだ。 それは曹操の軍勢がやってくるというものだった。
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