新野は曹操の領土との境目に最も近い町と聞いていたから、物々しい警備を予想していたのだが、それほどピリピリしたものはなかった。どちらかというと穏やかな空気だ。 さすがに兵舎などはそうでなかったが、それ以外は隆中と変わりなく平和だった。 襄陽で噂になった均実であるため、もう侍女としてここにはいられなかった。誰もが均実を見ては、あの噂の……と言うので、仕方がなく関羽の客という待遇を受けることになった。 男装ならそれもなかったかもしれない。だが新野にいる限り、女装しろと徽煉は言ってきたのだ。 断りたかったが、甘夫人が均実がきたことを喜び、勢いで滞在中は頻繁に訪ねてくることを約束させられてしまった。そして甘夫人に会うためには男装ではいけなかったので、仕方がない。 救いは以前ほど化粧が濃くなくなってきたことだろうか? 口に紅を乗せる程度に徽煉はしてくれた。「もうこれで十分ね」と言われたが、よく均実には意味がわからなかった。 だがそれによって女装への嫌悪感が、多少なりともましになった。これなら正式に劉備に仕官するまでは女性として暮らしてもいいか。 均実はそう考えていた。 「それにしても……そろそろ男装も難しくなってきたのではないか?」 関羽はそんな均実との会話のなかでそう言った。 それは徽煉のする化粧が初めて薄くなった日だった。 「何故ですか?」 均実は当然、意味がわからず問う。 新野に来るまで男装のままだった。その間、周りに女だと気付かれていたとは思えない。 それを言っても関羽は苦笑するだけだったが、それでもその自分の意見を曲げようとはしなかった。 「何故って、均実殿ももう二十は過ぎたのだろう? さすがに周りも気付くのではないか?」 歳でいえば、確かにそろそろまずいかもしれない。だが体も鍛えているし、そんなばれるようなことは…… 「……そっか。髭、ないですもんね。」 均実は関羽のその黒々としたものに目をとめて言った。 こちらの世界では髭があって男としては一人前だ。ない者は宦官――後宮に仕えるために生殖器をとってしまった文官であったりする。生殖器がない分、男性ホルモンの関係か宦官の声は甲高い。均実の声は男にしてはやはり高いし、このままで将来それに間違われるのは嫌だ。 「いや……まあ、それもあるが……」 「ちょうどいいですし、ここにいる間に何か考えますよ。」 関羽が困ったようにいうのをさえぎって、均実は笑った。 確かに丁度よかったのかもしれない。あのまま隆中にいては、遅かれ早かれ女だとばれていたのではないか。対策を講じなければ。 そして笛の練習に、勉強や薙刀。 それほど生活は変わらないはずなのに、すこし顔色もよくなってきたらしく、関羽が「新野に来て正解だったな」と笑った。 そうやってあっという間に一年が過ぎるうちに、屋敷の噂が聞こえてきた。 とりあえず関羽の妻が均実だという噂や、奇怪な笛の音による被害の話があがるのは、予想していたことだったので無視するが、もう一つの話題に均実は力が入った。 関羽が劉備の供をして、新野を巡回した後で聞いたのだが…… 「単福?」 帰って来た関羽はその名前を出した。 「ああ、なかなかの知者とか。」 「その人が、今話題になってるんですか?」 関羽がその名を持ち出してきたときは、均実も驚いた。 やっぱり本当にいたんだ。 「ああ、何でも自薦でやってきた者らしい。新野での兄者の治世を見るなり、色々良案を出しているというな。例えば戸籍がしっかり整備されていなければ、民はついてこないとか言って、兄者にそれをするよう説得したと聞いているが。」 そのほかに錬兵にも頻繁に顔をだし、末の雑兵にまで名を知られているほど評判がいいという。 関羽の話は確かなようで、彼を訪ねてきた張飛や糜竺といった者も時折単福について話題にだす。 どうやら純の予言は当たり始めているようだ。 実際に会うことがなかったが、それでも単福がここにもいるという話を聞くことで、それは確信できた。このままいけばその単福とやらは亮を劉備に紹介するだろう。なら『三顧の礼』もきっともうすぐに違いないと均実は思った。 劉備とも甘夫人と話しているときに話す機会はある。そのときに隆中に行こうと劉備が考えていることを話していたら、一旦もどるぐらいが丁度いいだろう。 均実は自分が隆中に帰るときは、その時にしようと決めた。 それまでにこの笛の音はなんとかしなくちゃいけないなぁ。 均実が笛に息を吹き込めば、必ず眉間にしわがよる徽煉の顔をみてそう思う。 甘夫人が純の代わりに教えてくれているが、まだ綺麗な音はでない。亮に聞かせることができるようになるまでには、まだまだかかるだろう。 単福という人物に会えるなら会いたいと思わなくはなかったが、均実は今それよりも笛の練習に苦戦していた。
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