徳操は門のところでぼんやりとたたずんでいた。遠目から見るとその姿は、まるで誰かに立たされているような哀愁を感じさせる。 側に生えている木の枝をみているようだが、鳥が数匹いるだけで変わったものはない。 だが彼にとってはそれが何か楽しいようだ。口元には淡く笑みが浮かんでいる。 しかしその笑みは口元だけ。目は凍るように冷たい。頬の筋肉もほぼ使われておらず、彼のいつもの笑みを知る者からみれば、無表情といってもほぼ間違いなかった。 庵にいると何かと人と話すことになる。主に塾生とだが、今は居候している均実や、時折訪ねてくる客とも様々なことを談じていた。 彼はここ数日、一人になるとよくこんな表情をしている。だがそれを誰にも気付かせてはいない。 一つ、心にひっかかっているものがあった。 こうするのが一番だと考えていたのに、結果が思ったようにでない物事があった。 このままでは…… 徳操がゆっくり目を閉じたとき、鳥が慌てて飛び去った。 「先生、何してらっしゃるんですか?」 人の気配を感じたのだろう。 この声は居候人のものに違いない。 「先生だと?」 均実の言葉に劉備が反応した時、徳操はゆっくりとそちらに顔をむけた。。 「おや〜? 劉将軍じゃないですかぁ。ずぶ濡れでぇ。これはこれはぁ大変でしたねぇ。」 徳操はすぐいつもの微笑に戻っていた。 彼にとっては劉備がここにいることは、それほど予想外のことではなかった。 だからさきほどの思考すら完璧に隠せてしまっている。 「お知り合いですか?」 均実が驚いてそういうと、劉備が頷いた。 「以前、古城にいたときにふらりと訪ねてこられたのだ。 数日、色々お話をうかがって、気がつくと煙のように消えていたのだが……」 「あの時はぁ、突然お暇してしまいすみませんね〜。」 それほど謝罪の気持ちがこもっているようには聞こえないが、いつもの口調でそう言う。 「そういえばぁ、名前すら言っていませんでしたねぇ。 私はぁ司馬徽と申します〜。」 「……あの水鏡先生でしたかっ。噂では聞いておりましたが、まさか!」 劉備はしばし考えたのちに、こう叫んだのだった。
服を変えて、ようやく濡れ鼠から人間になった劉備は、徳操と共に庵のある一室で話をしている。 だが均実はその部屋に顔を出さずに、劉備がつれていた馬を見にいった。 「将軍はどうされましたか?」 「先生と話してます。」 その毛並みを梳いてやっている家人に問われたので答えると、得心が行ったように家人は作業を続行した。それを気持ち良さそうにされるがままになっているその馬は、ようやく乾いてきたようだ。 均実が近寄っていくと一瞥をくれただけで、また顔を前方にむけた。 「触ってもいいですか?」 首元を梳いていた家人に声をかけると、了承をもらえた。 均実も乗馬はできる。だから馬と触れ合うのも嫌いじゃない。 落ち着いた光をやどした瞳をもったその劉備の馬は、飼葉を食べているときに突然やってきた均実が鼻筋をなぜても、驚くような素振りすらみせなかった。堂々としていて、けして怖気づくようなことがない。 戦場を走りまわるなら、こういう馬なのだろうと均実は思った。 どういうのが馬としていい馬なのか均実は知らないが、この馬はきっといい馬なのだろうと確信できた。 それにしても……と均実は馬を撫でながら考えていた。 徳操が名乗ったことで劉備が驚いていたことが均実にとって驚きだった。 突然訪ねてきた名乗りもしない男に、劉備は話を聞いたということだ。 その状況で見識の深さをみとめられた徳操も驚きだが、そんな男とも普通に話をするという劉備の方が驚愕だった。 彼はけして新野で一介の武人ではない。軍すらも持ち、州牧にも一目置かれている。 そんな立場の人間が、身元不明な人間すら近くにおくというのは…… 徳操だからだろうか? ふと均実はそんな考えが浮かんだ。 彼の独特の雰囲気に、劉備が何か同調するものを感じたために異例をも作ったのだろうか。 そういえば州平が、徳操は思わぬところに知り合いがいるといっていたことを、均実は思い出していた。 「的盧ですね。」 突然後ろから声を掛けられ、均実は驚いて振り向いた。 「新野にいる皇叔も同じ馬をもっておられると、聞いたことがあります。」 その州平だった。 なんだか久しぶりに見た気がする。亮とはよく会っているようだが、最近そういう場に顔をださなかったから仕方がないかもしれない。 「以前江夏であった反乱のときの戦利品らしいですよ。あまりいい相を持っていないので、幾人かに乗るのは止められた。と聞いていますが、それでも乗っておられるとは皇叔は大した人物なのかもしれませんね。」 そういわれ、均実はさきほどの考えを訂正した。 やはり劉備自身が、変わった人物なのだろう。 州平は均実の横を通り、的盧を撫でた。これがその本物の皇叔の馬だとは思っておらず、ただ徳操の客の馬だと考えているのだろう。 彼は亮の友人の中で、最も仕官からほど遠いところにいる人物だった。 一時期、仕官をするつもりなのかとよく聞いてきた。昔、その問いにNOと答えたことがある。だがあまりにも何度も聞いてくるので、仕官するなら劉備にしようかと思っていると彼に話してある。 そのとき州平は顔をゆがめて、仕官などするものではないと言っていた。結構熱心に説得された覚えがあるが、均実は考えをかえるつもりがなかったのであまり真面目に聞いていなかった。ので何故彼がそんなことをいうのかは知らない。 だが劉備に仕官することを諸手を挙げて賛同してくれることはないだろう。 だから珍しげにその馬に触れている州平に、わざわざ「本当にここに今、皇叔がいる」と教えてやる必要は感じなかった。 とは言え、州平がここに来た用事にもよる。もし徳操に会いに来たなら、劉備のことを言わざるを得ないだろう。 「州平殿。先生に御用ですか?」 均実が話しかけると、州平は馬から離れた。 「いや、均実殿。君に孔明から言付けを預かってきましだ。」 言付け? 屋敷からここまではそれほど離れていない。わざわざ頼まず、亮が自分で言いに来ればいいのに。 という均実の疑問は州平の言葉によって納得がいった。 「今、黄承彦先生が屋敷に来ていて、孔明は相手をしていますよ。」 「……また縁談の話ですか。」 すこしうんざりしたように言うと、州平も笑った。 均実がここにくることになった話は、きっと聞いているのだろう。 「孔明がここに君がいることを、あまり隠し通し続けるのは無理だと言っていました。」 ……まあそうだろう。 承彦が亮に自分の行き先を聞くのは予想がついていたことだ。 彼のあの訳もなく勢いのある説得術を亮がかわしきれるかというと少し、自信がない。 均実には亮を責めることはできなかった。 自分だって純の説得はかわしきれないのだから。 「数日はごまかせると思うが、それ以上は無理だと思っていてくれと。」 「わかりました。それをわざわざ言いに来てくれたんですか?」 「孔明が頼んできたましたからね。」 話を聞くと、亮と州平が話しているときに、突然また大量の縁談話を抱えた承彦がやってきたらしい。均実がいないことを承彦が知ると、兄として話だけでも聞けと亮は捕まったという。 そんな亮に小声でそういいに行ってくれるよう頼まれたら、州平も少し憐れに感じて断れなかった。 「ここにいれるのもあと数日か……」 均実は苦笑いを浮かべた。 また旅に出ることはできない。亮のことがわかる範囲の場所にいないと、『三顧の礼』が始まったかどうかわからないだろう。 それでは歴史を変えるためのとっかかりを手に入れられない。 さて……どうしようか。 均実は劉備がいるであろう部屋のほうをみながら考えていた。
「この劉備を助けていただけませぬか?」 向かい合った状態でそう言ったが、徳操は笑みを浮かべて首を横にふるだけ。 劉備はじっと彼を見ているが、対する瞳は柳のごとく視線を受け流していた。 徳操はときおりフラッといなくなっては、長い時は数ヶ月いない。確かに知識は幅広く奥深いものをもっているが、きっと一つのところに留まることはできない性格なのだろう。 以前古城に来た時も、同じ事を頼んだがいつもこの笑みでかわされていた。 劉備だけじゃない。他のどの英雄にも仕える気が彼にはなかった。 諦めたようなため息を劉備がつくのを見計らったかのように、徳操は問いかけた。 「さてぇ……何故ここにおられるかをぉ、お聞きしてもよろしいですかぁ?」 穏やかだが拒否を許さない。そんな声音だった。 世話になったのに、事情もいわないわけにはいかないだろう。 劉備は一体何があったのかを話し始めた。 それはおおむね均実の予想通り。蔡夫人にはめられ、兵をむけられたため襄陽から逃げ出し、追っ手をまくために川に飛び込んだという。 「いずれその様なことがぁ、起こるだろうとはぁ思っていましたがぁ、天佑でしたねぇ〜。あの激流にはぁ、並の馬ではぁつぶれてしまうほどの勢いがありましたからぁ。」 徳操はその話に少し眉をしかめながら、そう言った。 話に出てきた川は、緩やかなカーブを描いていて、この辺りで最も川幅が狭くなる。そのため流れも速いし、崖が一方に切り立っていて橋を渡すことすらできない。地元の人間は皆迂回するところだった。 劉備も顔を曇らせた。 「景升殿との関係が悪くならねばいいが……」 いくら命の危険があったとはいえ、立ち退く礼すら劉表にせず襄陽をでてしまった。それが劉備の一番の懸念だった。 今は特に劉表と事を構えるわけにはいかない。何故なら曹操が北征から一旦許都に戻ってきているという情報がはいっているからだ。 内輪争いをしている暇ではない。 劉備の言わんとすることを徳操はわかっているようで、共にため息をついていた。 一方は隠者のごとき生活をしている人間。他方は世間の争いの渦中の人間。 まさにこんなところに一緒にいるとは思えない二人だった。 そのあと徳操はにこやかに滞在を勧めた。確かにあたりももう暗くなっているので、そのほうがいいだろう。 「すみませぬ。突然押しかけたというのに。」 「いえいえ〜。それはいいのですがぁ〜、これからぁどうなさるおつもりですかぁ? いつまでもここにいるわけにはぁ、行きませんからねぇ?」 「……おそらくわしの部下が、このあたりを探していると思うので、それと合流してから新野に戻ろうかと。」 そう言った劉備は徳操を参謀にするのは諦めたようだったが、未練が残っているようで本当に残念そうにみえた。
辺りはまだ薄暗く、霧もうっすらとでている。 だが早く見つけなければいけない。 手勢に辺りをくまなく見て回るように命令してから、新野にも使いをだした。迎えをよこしてくれるだろうが、その前に彼を見つけておかなくては。 そう焦って馬を進めていると、晴れてきた霧の中で目を疑った。 焦っているから見える幻視ではないようだ。 特徴的な馬が、ある庵の前で草を食んでいる。 「この馬は……」 庵のほうをみて、まだ人の気配がしないことに舌打ちをした。 大きく息を吸い、声を出す。 「ごめんっ! 早朝からお騒がせする。」 空気がその声によって振動したのがわかった。 しばらくすると、駆け足の音が聞こえてきた。 家人だろう。そう思っていると、 「子竜殿っ?」 驚きの声に、趙雲は思わず体がはねた。 まさか名乗る前から自分の字を言われるとは思っていなかったし、その声には聞き覚えがあったからだ。 声のほうを見ると、間違いなく均実だった。男装であるため、一瞬身構えた緊張を解いた。 均実の女装姿は、心を構えてから対さないとまずい。 趙雲はけして関羽の恋敵になるつもりはなかった。 一回咳払いをしてから、趙雲はあたりを見回す。 「均実殿……ということはここは、諸葛殿の?」 「あ、違います。ここは私の師の家です。」 均実はそういうと的盧が草を食べているのを見て、納得したように頷いた。 彼がここを訪ねる理由は一つしかないだろう。 「左将軍ならいらっしゃいますよ。」 「本当かっ?」 「はい。」 「……騒がしいねぇ〜?」 そのとき徳操が奥から出てきた。 「先生。劉将軍の配下の方がいらっしゃいました。」 「え〜? ……ああ、そうなんだぁ〜〜。」 目をショボショボと何度も瞬きを繰り返しながら、徳操は趙雲が見える位置に移動した。 すこしいつもよりも語尾が長いのは、眠いからだろう。 趙雲は拱手をしようとした。が 「……あなたは……前に」 そっか。子竜殿も、水鏡先生には会ってるのか。 均実はなんとなく笑いたくなってきた。 徳操が古城に行ったとき、誰も彼の名を聞こうとはしなかったのだろうか。 「子竜殿。この方は、私の先生の水鏡先生です。」 「ああ〜〜、そうかぁ、一度お会いしたねぇ〜。お久しぶりだぁ〜。」 水鏡という名前に、趙雲も聞き覚えがあったらしい。目を丸めていたが、すぐに礼をした。 ……今更ながらに思うけど、私って凄い先生についてたんだなぁ。 均実は感心していた。 「殿がこちらにいるということは、助けてくださったのですね。心からお礼申し上げ」 「いえいえ〜。私はお話していただけですよぉ。ではぁ〜、呼んで来ますねぇ〜。」 徳操は自分のペースでそういうと、再び庵の中に入っていた。 目の前に百戦錬磨の武将である趙雲がいようが、天子の叔父である劉備がいようが、徳操の態度は全然かわらない。 逆に趙雲のほうが、徳操のペースにのみこまれているように見える。 「……凄い方だな。」 「はい。間違いなく。」 均実は否定することはなかったが、笑って応えた。 凄い人なのは均実も知っている。だがどれだけ凄い人であろうと、徳操はまったくそのようなことを感じさせない。……だからこそ凄いのかもしれないが。 「それにしても久しいな。あいかわらずの格好か。」 劉備が新野に行く前に襄陽で一度会っただけなので、確かに久しぶりだ。 呆れた表情もそのときのままで、趙雲は均実の男装を示した。 「はい。これが性にあうんですよね。」 悪びれもせずいう均実の言葉に、趙雲は笑みを浮かべた。 だが次の瞬間には眉をしかめる。 以前襄陽で会ったとき関羽が均実のことを痩せたと言っていたが、あの時以上に…… 「やつれた……か?」 均実は口元をゆがめた。 「まぁ、ちょっとした気苦労がありまして……」 「気苦労?」 「良縁を勧められているんですよ。嫁のね。」 趙雲は絶句した。 隆中の話を聞くと余計に絶句することになる、女の格好さえすれば天女とまでその容貌をうたわれる均実は、どうやら男としてももてているらしい。 まったく男装など、いつまでも続けているからだ。 そう思いつつ均実を観察すると、なるほど確かに男といわれれば納得しても構わない程度にしっかりとした体付きをしている。 運動が足りている証拠だ。 だというのに顔色が悪い。よほどその縁談話を勧めてくる者はしつこいのだろう。 「新野に共にこないか? 見合い話からの避難にもってこいだろう。」 あまり考えずに提案したが、なかなか名案かもしれない。 関羽は普段真面目すぎる。からかうには均実が一番だ。 趙雲はそんなことを考えていた。 「……そうですね。」 均実は言われてから初めてその案を考えた。 そう言われれば、どうしても隆中にいなくてはいけないわけではない。 『三顧の礼』が始まったかどうかさえわかればいいのなら、劉備の近くでもいいのだ。 断る理由はない。 というか結婚推し進め魔人がどうせそのうち探し当てるだろうここより、新野のほうがそういう意味では安全に違いなかった。 劉備も外に出てきて、趙雲と再会した。 彼らはすぐにでもここを発つつもりのようだ。 「行くか?」 「はい。」 再び問う趙雲の言葉に答えて、均実は亮の屋敷の方向をみた。 今度は戦場を見にいくことではなく、ここを離れることのほうがメインだ。 亮さんに心配かけないように、できるだけ危ないことはしないようにしよう。 とだけ思うと、自分の荷をとりに一旦部屋にもどった。 そして徳操に亮への伝言を頼む。理由はなんとでもできた。 薙刀を教えてもらってくる。 均実が薙刀を関羽から教えてもらったことは亮も知っているし、これで納得してくれるだろう。 徳操は趙雲らと共に行こうとする均実に、声をかけた。 「新野に行くことはぁ君にとってぇいいことかもしれない〜。」 意味がわからず均実は問おうとしたが、徳操は笑みをたたえて黙ったたまま見送った。 新野に向かう途中の樊城という土地で趙雲とは別れ、劉備を迎えに来ていた関羽と合流することとなる。趙雲は常時ここを守っているらしい。 後の樊城で働く者たちの間で一時期、不穏な噂が流れた。 襄陽でまずいことが起きた。例えば劉備が劉表とけんか別れをした、有力な劉表の臣下を劉備が殺してしまった、などというものだ。 それは劉備の供を交代する時、趙雲と話していた関羽の顔が引きつっていたためだった。 ……聡明な読者なら、その噂が完全に間違いであり、関羽が何故顔を引きつらせていたのかはお分かりだと思うので、趙雲と関羽との会話の詳細は述べないこととする。 関羽は樊城をでてから、大きくため息をついた。 「雲長殿?」 そして横を行く均実が聞いてくるのを、また引きつった笑みでかわしていたのだった。
|
|