目の前には崖の下の激流。後ろには軍勢。 道がなかった。 謀られたことに気付いた時には、こちらに逃げるしかなかったのだ。そして今、あの軍勢にとらわれるわけにはいかない。 なら……進むべきは 覚悟を決め、馬の腹を蹴る。 荒く息を吐き、大きくいなないて馬は崖を飛び降りた。 激流に入った途端、馬が沈む。 口元までくる水に慌てながらも、自らを奮い立たせるために声をだす。 「的盧、的盧。ついに祟ったか。」 的盧とはこの馬のことだ。 強固な体格をもち、それに見合うほどの力のあるこの馬は、不吉な相をしているといわれたことがあった。しかも何人もの人間に。 だが全ての物事は表裏一体である。大きな不吉は裏返せば、大きな吉だ。 今こそその吉を呼び寄せろ。 祈るような気持ちで、手綱を握り締める。それが指に食い込むほど強い力で、どうにか体勢を整えようとした。 その祈りが通じたのか。馬が水上に一瞬浮かび上がった。 まるで誰かに助けられたかのように、あとは思ったより楽に対岸についた。 「……吉を呼び寄せたな。」 近くの雑木林に入り込み、さすがに息を切らしている馬から降りて鼻筋を撫でてやると、喜ぶかのように馬は鳴いた。 それに微笑み、そして木の陰から激流のほうを窺った。 ここから飛び降りたところは、崖の上で高くて見えない。だがおそらく追っ手は自分が激流に飛び込んだのをみただろう。もしかすると今、あの上からこちらを見ているかもしれないと思うと、そこから出ることはできなかった。 ……帰らなくては。 馬を休ませるために再び乗ることはせず、手綱を引いて雑木林の中を歩き始めた。
徳操の庵に居候してから、一週間後。 突然転がり込んできた均実に、徳操は何も言わずに置いてくれた。おそらくは亮から話がいっているのだろう。ありがたく均実は自由な時間をすごしている。 そして今、庵近くの竹林で均実は笛を練習していた。 笛の怪奇音は、吹いている均実でさえ頭が痛くなる。あの静かな塾で本を読んでいる塾生達の邪魔をしては悪いと、こちらにきてから均実が見つけた練習場所だった。 均実は眉間にしわをよせた。 頭に締め付けるような痛みがきている。練習のし過ぎで、そろそろ頭が酸欠になってきたのだろう。 大きく深呼吸をしてから、均実は側の竹にもたれかかった。 練習しては休み、練習しては休みを繰り返すのがここ数日の均実の練習風景だった。 竹が風に撫でられ、頭上では葉が擦れ合ってシャラシャラと鳴っている。やわらかく差し込む日差しが、そのせいでさまざまな形の影を地面に落としていた。 結構長い時間ここにいたような気がする。そろそろ戻ったほうがいいかな。でもあと少し……と均実は考えていた。 ふっと目線を落とす。視界に笛が入った。 肩幅より少し長いぐらいか。竹製で息を吹き込むための穴と、指で押さえるための穴以外に、もう一つ穴があいている。だがそれはセロハンテープでふさがれていた。 本来竹の薄皮などを貼って、それを振動させ響かせることによって、よりいい音をだすのだ。しかし純が言うには 「最初はセロハンテープでいい」 らしい。預かってた物の中から取り出してそこに貼ると、温かみのある竹という物質にあまりにも無機質なものが引っ付いているので、すこし味気なく見えなくもない。 試しに本当の竹の薄皮でやってみたのだが……まぁご想像にお任せしよう。ひしひしと日本文明のありがたさを均実が感じたのは確かだった。 ただし純が長い間貼りつづけておくとはがす時に笛が傷むから、練習が終わったらちゃんとセロハンテープははがしておくほうがいいといっていた。よってこの笛の練習をしている限り、均実はセロハンテープを持ち歩いている。 均実はそれが入っている腰につけた巾着袋をチラッと見た。 持ち歩かなくてはいけないなら、と純がぱぱっと作ってくれたものだった。ついでに純が日本から持ってきて均実に渡した物も、どれもそれほど大きくないのでそれにいれてある。 セロハンテープが無くなる前に、ちゃんと吹けるようになればいいんだけど…… 均実は笛に貼られているセロハンテープを見て、そんなことを考えていた。 一回に使うセロハンテープはそんなに量はいらないのだが、もし無くなってもこの世界では買うことはできない。 だが他ならぬ亮の頼みなのだ。できる限り聞いてやりたかった。 『忘れるわけではなく、いつまでも引きずり続けないために。』 均実は目を笛から離した。 『……私のために、吹けるようになってくれないかい?』 この練習は日本に帰るためにやっているわけではない。 歴史を変えようと決意してから、自分の行動はそのためばかりだったような気がする。 大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出すと、また均実は笛を構えた。 指がすこし引きつるように痛んだので、一瞬握ってまた開く。やはり長い時間練習しすぎているようだ。 実質屋敷にいたころと練習量は変わっていない。 だが ブヘッ……ポフーピッ…… どうやってもスムーズな笛の音にはならなかった。 「おっかしいなぁ?」 均実は首をかしげながら続けていると、背後でシャクッと落葉を踏む音がした。 ふりむいてみると……まずその異様な格好に言葉をなくした。 なんでずぶ濡れなんだろう? 一人の男が、馬をつれこちらを見ていた。馬も男も全身に水を含んでいる。 だがそのマイナス点を差し引いても、これは立派な馬だと均実は思った。 四脚と眉間が強調するように白いが、後は綺麗な毛並みをしている。たてがみや尾がしっとりと垂れているが、大きさも関羽の赤兎馬に勝るとも劣らずだろう。 そして男の容貌はどこかでみたことがある。 ……ってこの人って。 「玄徳様?」 均実の言葉に劉備は驚いたようだ。 本当にだいぶ前になる。 襄陽で均実は劉備の姿と会っているが、あのときと濡れ鼠であること以外、何も変わりないように見える。 腰に挿している剣を握り、こちらを睨んできた。 「何故わかった?」 どうやら劉備は均実のことがわからないらしい。 「……襄陽でお会いしたんですが。」 「襄陽で?」 怪訝そうな声がそれに答えた。 今は男装をしているからだろうけど、う〜ん……そんなに私って女物着たら変わるのかなぁ? 均実は首をひねった。 さすがに女装をしているときは回りの扱いが違うことには気付いている。 だがどこまでも自分のことには疎いのが均実だった。 いつも高そうな物ばっかり着せられるもんなぁ。 女装するとき徽煉がもってくるものを思い出す。……きっといい物なのだろう。 そう納得していた。 ……いい物であるのは確かだが、いい加減気付いてもらいたいものだ。 均実が考えている間、劉備は困惑した表情を浮かべているが、けして剣から手を離さない。剣を鞘から抜いていいものか、迷っているようだ。 こちらは丸腰だし、何より劉備と戦う理由がない。別にこのまま沈黙を続ける必要もないだろう。 「そちらのいう天女だそうで。」 均実の言葉に劉備はパカっと口をあけると、肩の力をぬいた。 「均実殿……か」 あからさまに気がぬけたような声を出されて、均実は首をかしげた。 それにしても劉備がなぜこんなところにいるのだろうか。彼は新野に…… そこまで考えて、仕官している季邦からの書簡を思い出した。 季邦の姉、蔡夫人が劉備を亡き者にしようとしている。最近は刺客まで送り込まれたことに、季邦はほとほと政争に嫌気がさしたような文章で伝えてきていた。 おそらくはその蔡夫人に何か謀にでもかけられて、命からがら逃げてきたのではないか。 「しかし何故そんな格好を?」 女の格好をしているときの均実しか知らなかった劉備の疑問は最もだが、その説明をここでするよりも、もっと気にするべきことがあるだろう。 少し呆れながら、均実はそれを指摘してやることにした。 「私の格好のことを言ってる場合ですか。その格好じゃ風邪をひかれますよ?」 均実がそういうと、劉備は自分の姿を改めてみて笑った。 頭から足の先までぬれていないところはない。そんなに暖かい時期じゃないし、このままうろついていればどれだけ劉備が体を鍛えていようが、風邪をひいてしまうだろう。 「ああ、そうだな。」 その横で水を弾き飛ばすように体を震わせて、馬が鼻を鳴らした。 彼も風邪をひくと主張したいのだろうか。 「近くに私の師の庵があります。そこにいらっしゃいませんか?」 劉備は頷くと、徳操の庵にもどる均実についてきた。
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