平和だった。ずっっっっと平和だった。……つまり、暇だった。 『三顧の礼』がいつ起こるかがわからなかったので、均実の勉強を励む日々は続く。 長期戦を覚悟はしていたが、均実もいい加減イラついてはいた。 いつになったら『三顧の礼』が始まるのだろうか。純も詳しい日まではわからないといっていたので、均実には待つことしかできなかったからだ。 季邦からの書簡が届いていた。彼が仕官してからそれは、たびたび均実に送られてきていた。 周囲の人間の愚痴や、未だ仕官しない均実や亮への羨望などなど。そして何より多く書かれているのが、襄陽城での二派の分裂についてだった。 劉備に対する擁護派と追放派。 新野に劉備がいくことになったのは、追放派の勝利に一見みえそうだが、実は擁護派の勝利だった。 劉備を生かしておいては、後々の禍根となるという主張により、追放派は劉備の荊州入り自体を批判していた。そんな劉備が荊州に実際入ってきたのだから、あと考えるのは……暗殺。 だが襄陽から劉備がいなくなると、そう簡単に手を下すことができなくなる。 擁護派はそう読み、そして国防にも一役買ってもらうという一石二鳥を狙ったのだ。 季邦の兄である蔡瑁は追放派に属しているらしい。 政界でそんな激しい攻防が起ころうが、すくなくとも隆中は平和に違いない。 均実は毎日畑仕事をしながら、薙刀を練習し、そして……相変わらず村娘からの贈り物が絶えない日々を過ごしていたのだった。
そんなある日、懐かしい楽器の音が聞こえてきた。 「……琵琶?」 珍しい。 均実はそう思った。 ここ数年、その音色を聞いたことはない。 音に導かれて歩いていくと、それが琵琶の音だけではないことがわかった。 琴の音が琵琶に寄り添うようにして、屋敷に響いている。弦楽器独特の余韻が耳に心地いい。 音源をさがして歩いていくと、一つの部屋に行き当たった。 中を覗くと、亮が琵琶を弾き、純が琴を鳴らしている。 この夫婦は本当に仲がいい。ケンカなどみたことがない。 ただ一向に子供ができないことを呉にいるという亮の兄、瑾が心配しているようで、瑾からの書簡がくるたびに、またそのことが書かれている、他に話題はないのか、と亮がぼやいていたのを均実は聞いていた。 そうだよね。なんでこんな仲がいいのにさ…… 「均実殿?」 琵琶の音が止まり、つづいて琴も静まった。 均実が入り口に立っているのに、亮が気付いたのだ。 「お邪魔してしまいましたか?」 「いや。何か用でもあったかい?」 「いえ、ただ音色に惹かれて……」 嘘ではない。 その音楽が途切れてしまったことに均実はなんとなく気まずさを感じつつ、そう答えた。 「亮は琵琶が弾けるというから、私は琴なら弾けるという話になってね。それで一度あわせてみないかってことになったの。」 琴の音を数度鳴らしながら、まったく気になどしていないように純は言った。 亮は苦笑いをうかべ、謙遜した。 「久しぶりで拙いものだがね。」 「いいえ。上手だったわ。ねぇヒト?」 「え、……うん。」 そんな亮に、純が否定する。肯定を求められ、均実も頷いた。 確かに亮の琵琶の絶品とは言わない。だがけして下手ではなかった。 何より鬼気迫るような悲しみが伝わってくるような気がして…… 「ヒトも何か楽器ができればいいのに。」 純が無理をいう。 勧められるがままに部屋にはいってきた均実は、顔をはっきりとしかめた。 均実が不器用だというのは、純が誰より知っていることだろうに。 だがそんな均実に気付かないかのように、 「なら笛をやってみないか?」 亮までそんなことを言う。 そんなちょっと〜……、亮さんまで…… 均実が辞退しようと口を開きかけた時、純がその提案にのった。 「それ、いい。三人で合わせられるし。 ね、ヒト。楽器がやれると楽しいよ。ね、やろ!」 均実はうっと言葉につまった。 ……遅かった。もう辞退はできない。 自分がいいと思ったことは絶対にやらすのが、純が純であるゆえんである。 こうなっては断りきれないことは、均実が長い時間をかけて覆せなかった事実なのだ。そのためしぶしぶ頷く。まったく気がのらないが、断るのは不可能だ。 ただしこれは言っておかなくては、 「できなくても、文句言わないでよ。」 「大丈夫。ヒトならできるって。」 ……どこにそんな証拠があるんだっ! 声を大にして叫びたいそんな主張を、均実は喉の根元までだしてきたところでこらえた。 純が笛を用意してもらうといって、均実の主張を聞く暇もなく、部屋を飛び出していったからだ。 その姿をみて、均実はため息をついた。 「すみません。いつまで経っても、落ち着きがないですね、純ちゃん。」 嫁いだからといって、性格が変わるわけではない。もともと体を動かすのは均実と同じく好きなほうだから、純は工作をしているとき以外は何かと屋敷内を動き回っていた。 じっとしていられないのは均実も同じなのだが、純と一緒にいるとなんとなく保護者のような気分になってしまう。 別に純の性格に自分は何の責任もないのだが、ついそう思ってしまうのは習慣のように身についているものなので致し方ない。 「綬は何かと均実殿のために動くの好きなのだろう。」 亮の言葉に均実は微笑む。 そういうところがないとは言えない。自分が頼みごとをしたときに、純が断ったのをみたことがない。 均実もそれは重々わかっていることだった。 それにしても亮は純のことを本当に大切にしている。あの明るい純の笑顔が曇らないように、細心の注意を払ってくれているのがわかる。 聞けば十人中八人は眉をひそめ、神経の弱い人なら倒れたくなりそうなことが、この乱世では頻繁におこっている。だが徐季を通じて亮と均実はそれらを知っているが、純の耳には入らないようにしていた。 あの純真無垢な親友には、そんなことを均実も教えたくはなかった。 だから言っていない。季邦からの書簡にかかれていた、新野の劉備に何度も刺客が送り込まれたことなどといった、今の世の中の動きもできる限り。 純にはいつまでもそんな話とは無関係なところで、笑っていてほしいと思えていた。 均実が立ったままなので、亮は座るように言う。 静かな雰囲気の中で均実は亮を見た。 彼は親友の夫。自分とは兄弟。なのに歴史に名を残す偉人で、別世界の人間……よく考えなくても、奇妙な関係だ。 普通に日本にいたら、出会うはずもなかったんだよなぁ。 ベン…… 均実の思考に滑り込むように部屋に再び響いたその音は、確かにだいぶ前に聞いたものと同じだ。 亮は手に持った琵琶の弦を、さするかのようにして響きを整える。 悲しげなその音は、何も変わっていない。 だからつい、均実の口から考えていたことが漏れた。 「琵琶は……弟さんが亡くなられてから、私を送り出してくれた時以外弾かれていなかったんですよね?」 「……甘海に聞いたのかい?」 もう一度鳴らそうとしていた手を止めて亮は顔をあげた。 以前琵琶の音を聞いたのは、下邳にいくためにここから出て行く見送りに、亮がひいてくれたときだった。 そのとき甘海が亮の弟、均が亡くなってからひいたことがなかったといっていた。 きっとここに帰ってくるようにと願いをかけたのだと、その音色は思えた。けして死んではいけないのだと。そう思わせられた。 そうやって亮の琵琶の音を背にして均実は隆中を旅立った。 忘れられるものではない。 「どうして……今?」 何だかわからない。 ただどこか寂しいような気がして、均実はそうつぶやくような小さな声で聞いた。 「綬が、弾けるのに弾かないのはもったいないって言ってね。」 亮は笑った。 無理を純が言ったのだろうか。まったくと均実は呆れた。 それにしても亮は純に優しい。何か思い入れでもありそうな琵琶に対するわがままにまで付き合って……。 妻だから。 その答えは、何故か空しく聞こえた。 ……どうしてだろう? 妻だから、夫である亮が優しいのは当然なのに。 均実がわからずに黙っていると、亮は琵琶を静かにおいた。 「だが……やはり駄目だな。琵琶を弾くと、均を思い出してしまう。」 均実は驚いて顔をあげる。 思いもしない名がでてきた。 ここ数年はずっとその名を使っていた。だが亮が言ったのは自分のことではない。自分でないころの均。彼が一体、亮の琵琶と何の関係があるのだろうか。 均実の疑問にあわせるように、亮は答えた。 「生前、一緒によく音を合わせたんだ。」 「……琴とですか?」 「いや、笛とだよ。」 均実は言葉を失った。 亮はそれをみて、すこし苦く笑った。 「君を均と重ねるつもりは、本当にない。それは確かだよ。 それでも……吹けるようになってくれないかな?」 予想もしなかった要望だった。 均実から均がやっていたことを、やらせてくれと頼んだことはある。だが亮から頼まれたのはこれが初めてだった。 均実が何も言えずに、亮を見ていると、亮はこちらを見据えた。 「ちょうど、いい機会だと思うんだ。 忘れるわけではなく、いつまでも引きずり続けないために。……私のために、吹けるようになってくれないかい?」 その顔が悲しげで、あまりにも切実な願いに聞こえたから、均実は漏れそうになるため息を口のなかで殺した。 あの夕日の中で聞いた独白と同じ声。 彼はどうにかあがくようにして、自分の中での覚悟をつけようとしているのだろうか。 断ることは……できなかった。 均実の目に了承の光が宿ったのを確認して、亮は微笑んだ。 だから均実も微笑んだ。自分が笛を吹くことで亮の心が軽くなるなら、それもいいのかもしれない。 「奥様はどこにいかれたのですか?」 見つめ合ったままでいると陽凛が部屋に入ってきて、そう声をかけられた。 ようやく亮が視線をとき、陽凛のほうをみる。 「笛を取りに行ったよ。」 手短にこれまでの経緯を亮が説明してやると陽凛は納得した後、均実を一度だけ見た。均実が首をかしげると、何もなかったかのように彼女は目をそらす。 一瞬のことで、あまり好意的な目でなかったのを、均実は気付けなかった。
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