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均しき絆 作者:奇伊都

第22回   梁父吟

 あたりはすこし涼しくなってきた。空気でわかる。今日の畑仕事はもう終わりだった。
 あとしばらくすれば、時の流れに従い夕闇に浸かってしまうだろう。
 亮はそのことがわかっていたが、木にもたれかかった体勢のままで動こうとしなかった。
 狭間の時。昼から夜への時の移り変わり。
 この時間を亮は好んだ。……好むというと少し違うのかもしれない。楽しんでいるわけではなく、ただ静寂の中に存するのみ。大事にしている、というほうが正しいかもしれない。
 人に混じらず、熟考の時間を過ごす。
 時折思い出したように行うその時間が、ここ最近増えてきていた。
 目を閉じ、気を鎮めていると、心が広がっていくように感じる。
 息を吸うために、閉じていた口を少しあけると、冷たい空気が口腔にはいってきた。
 開けた口から、すべるようにして流れ出るものがあった。
 もの悲しき旋律が、透き通る空気に溶けていく。


  歩みて斉城の門を出づる

  遥かに望む蕩陰の里

  里中に三墳有り

  累々として正に相似たり

  問う 是れ誰が家の墓ぞ

  田疆に古冶子

  力は能く南山を排き

  文は能く地紀を絶む

  一朝 讒言を被れば

  二桃 三士を殺す

  誰が能く此の謀を……


「うわっ」
 短いその叫び声に、亮は口をつぐんで声のほうに目をやる。
 均実がバランスを崩し、持たれていた木の後ろから現れ、前につんのめって倒れそうになっていた。なんとか持ち直して倒れることなく立つと、亮が自分を驚いたように見ているのにやっと気付いたらしい。
「え〜と……その」
 なんとなく気まずく感じて均実が何か言おうとしたとき、亮が笑った。
 いつまで経っても屋敷に戻ってこない亮を、呼びにきてくれたのだろう。日が暮れればそろそろ寒くなる。
 その笑みに魅せられるように、均実も笑みを浮かべる。
「もうしばらくここにいさせてくれるかな。太陽が沈み始めるのが見たいんだ。」
 自分のわがままを素直に言うと、均実はすこし困ったような顔をしたが、了解してくれたようだ。
 そのことを亮は嬉しく思いつつ、陽凛にまた怒られるかなとも思った。
 庶がまた旅に出ているせいか、均実は自分によく質問をしてくれるようになった。相談……とまではいかないが、それでも頼りにされていないのではないかと思っていた亮にとって、それは喜ばしいことだった。
 だが屋敷で均実と一緒にいると、陽凛がやってきては何かと口を挟んでくる。弟君もそろそろ自立を考えられなければいけない、とか、亮が均実を甘やかしすぎている、とか。だが純がその場にいるときは何も言わない。一体何が彼女をそうさせるのか亮にはわからなかった。
 必要以上に均実をかまっているつもりは自分にはないし、均実もそれなりに自分で考えて行動しているので、そんなことをいう必要はないと思うのだが……
「……それ、何の歌ですか?」
 均実のその問いに思考を止め、歌っていたのを聞かれていたことにすこし恥じながら亮は答えた。
「梁父吟というものだよ。」
「よく歌ってますよね、最近。」
 均実はその言葉に驚く亮に、続きを諳んじてみせる。


  誰が能く此の謀を為す

  国相斉の晏子


 男にしては高い声が、心地よく亮の耳に届いた。
 均実も覚えてしまうほど、実によく亮はこの歌を歌っている。畑仕事の合間などに意もせず口からでるようで、頻繁にこの歌を口ずさんでいたのだ。
 そのことを改めて指摘された亮は、苦笑しながら均実にもうすこし近寄るように言った。太陽の位置が低くなり、伸びた影でよく顔が見えなくなってきていたからだ。
「意味はわかるかい?」
 自分と同じように均実が木にもたれかかったのを見てから、亮は聞いた。
「まあ、なんとなくは。」
 少し自信がなさそうだが、均実は肯定した。塾で様々な知識を得た均実は、この時代よりも昔の話も学んでいる。斉というのはそんな昔の国の一つだった。
 要約すると、この歌はこういう意味だ。
 墓が三つある。その墓は斉の国での能臣だった者のものだ。
 その三人はあまりにも力を持ちすぎていた。いつかは国を乱すであろうと思われるほどに。
 そこで宰相である晏嬰は、三人に二つの桃を渡す。三人の内、功の高き二人が食べるようにと。
 功を比べることで、あまりにもそれが大きすぎること、そしてその害に気付いた三人は、国の先を憂い、自ら死を選んだ。
 結果、乱を起こさず、その芽を早いうちにつんだ。なんと見事な謀か。
 ――古典の一つである。
 この歌では晏嬰という人のことを、晏子と呼んでいる。子とは人を呼ぶ尊称であり、先生というような意味がある。
 この逸話の他にも様々な優れた策を出し、名宰相といわれた人。それが晏嬰だった。
 亮はため息をついた。
「もし私が晏子と同じ立場に立ったなら、どうするだろう。……そんなことをよく考えていたんだ。」
 亮はそう言って、木にかけている体重をより大きくした。
 その目は遠く、山並みに沈もうとしている太陽を睨んでいる。
 劉備が荊州に行ってから、地に伏せていた賢人達の動きが活発になってきているのを亮は知っていた。徐季の話などから考えると、劉備の下に人材が集まっているらしい。
 仕官を自分も考えなくはない。この世界に安寧をもたらす、そんな英雄達を助けることに魅力を感じるのは確かだ。
 だが……
「誰かを犠牲にしたうえでの安寧を、望むのだろうか。」
 晏嬰が行ったのはそれだった。後の世の安寧のために、人を殺した。
 大きな燃えるような円をした太陽が、空を自らの色に染めながら落ちていく。
 それに重なるように思い出すのは、幼いころ下邳で見た大量の死人。
 夕日に埋もれながらも、もう冷たくなったかつて人だったものから流れ出る血が、まるで赤い川のように見えた。
 あの殺戮が戦の傷痕であり、あの先に望む安寧があるのだとしたら、自分には望めないのではないか。そのような策を献ずることなどできないのではないか。
 だが劉備は、まさにあの殺戮を古城で行ったのだろう。
 望むもののために、人の命を捨てたのだ。
 亮が知らず険しい顔で夕日を睨んでいると、


 誰が能く此の謀を為す


 突然、その一節だけが高く響いて空気を震わした。
 亮が夕日から目を離し、均実のほうをみた。均実が真剣な目をしているのがわかる。
「……晏子以外、誰がそれを望めたでしょうか?」
 その遥かなる昔の国での政治の中枢。そんな状況で誰もが危うさを感じていたのは確かだろう。そしてそれを実行したのが晏子だっただけなのかもしれない。
 結果としてその危うさをとりのぞいた晏子は、称えられるほどの名宰相となったが
「晏子は三人を殺すことを決意して、どう思ったでしょうか。心の曇り一点もなく、笑えたでしょうか?」
 亮は目を見開いた。
 歴史上の人物の話は好んで聞いた。その偉業とされる行為を、どういう理由で行ったのかを考えたことはあっても、どのような心境で行ったかなど考えたことはなかった。
 ……確かに思いもよらない発想だ。
 以前、庶に均実と話すことを勧められたことを思い出す。
 夕日の強い日差しに照らされ、赤く染まる均実の顔をじっと亮はみた。
 軽く首をふり、均実は言う。
「例え笑えなくても……望まざるを得ないことだったんじゃないかと、私は思います。」
「犠牲を。……何の罪もない者の犠牲をかい?」
 思わず亮は反駁した。
 均実の言っていることはわかる。晏嬰がそれを望まなければ、おそらく斉の国は犠牲となった者によって荒れただろう。
 だが常に戦の犠牲となるのは、何の罪も負わない者であるのは、かわらない。その死んだ三人は、国を傾けようとしていたわけではない。
 その証拠に国を思って死を選ぶほどの、忠臣ではないか。
 どれほど大義名分整っていようが、どれほど意義のある戦いであろうが、けして変わることのないもの。権力を使おうが、武力を使おうが。
 犠牲となるのは……
 亮の頭に浮かぶは、あの下邳での殺戮の痕。
 どこまでも、地平線まで続く……赤。
「誰もが望みたくないと思うからこそ、望む。
 人の上に立つなら、それが必要になることもあるんじゃないですか?」
 均実のはっきりした言葉に亮は顔を歪めた。
 それをみて、均実は口を閉じる。言い過ぎたと思ったのか、目は心配げにこちらを見ているのをわかって、亮は無理矢理笑みをつくってみせた。
 当たり前のことだ。施政者の痛みや苦しみはきっとそれにある。
 何も間違ったことなど、均実は言ってはいない。
 だが……
「私にできるだろうか……」
 亮のぽつりとこぼした弱音に、均実は何か言いたげに口を開いたが、何も言わなかった。
 晏嬰を思い出し、彼を非難したいがために梁父吟を歌っていたわけではない。仕官した場合の自分の立場を、名宰相と呼ばれた彼と重ねていたのだ。
 初めて徳操に会った時のことを亮は思い出していた。
 叔父に連れられやってきた襄陽。大きな街での大勢の叔父の友人。そのうちの一人で、あの時徳操は今の自分の年齢ぐらいだったのではなかったか。
 今と変わらない穏やかな空気のなかで、彼は自分を見て断言した。
 それが何よりひっかかっている。
「水鏡先生はあの時、私に『治』の相があると言われた。人を治めることができる相をもっていると。
 だが、そんな望みをもつことが、私にできるだろうか。」
 その覚悟はあれから何年もたった今でさえ、もつことはできなかった。
 だが望まざるを得ない状況になったとき、それを望まなければ、きっと人を治めることはできない。
 均実はこれにも言葉を返さず、ただ一緒に夕日を見つめた。
 赤。赤。戦のない隆中でも、全てがその色に染まるこの時間。
 人の命の色のような気がする。
 亮はふと、そんなことを考えた。
 懐かしく、悲しく、愛おしい。
 生きるか死ぬか。それすらも越えたところで、人の命は赤いのではないか。
「そろそろ帰りましょう。」
 しばらくして唐突に均実がそう言った。
 そのまま何も言わずに、木から離れる。
 確かに、もう自分のわがままは叶えられた。太陽も半分以上沈んでいる。
 亮もやっと夕日から目をそらした。
 少し距離をとって、それでも離れすぎずに二人は歩く。
 長い長い影が、道に、畑に、二つ落ちていた。
「……水鏡先生の人相見の結果なんて、気にしないほうがいいですよ。
 私なんて未だに教えてもらえませんから。」
 先を行く均実が振り返りもせず、そう言った。
 均実の場合、けして教えてはくれないそれに、亮が囚われているような気がした。
 少しでも亮の心が軽くなればと、均実は思ったのだろう。
 だが逆に亮は、不思議に思った。
 徳操は、その人物に必要であるだけの助言をする。
 自分が『治』の相を持っていると教えてもらえたのも、今のうちに人を治める覚悟を固める必要があるからだ。
 だが均実には教えていないという。
 それは教えてはならないと、徳操が判断したと言うことだ。
「……均実殿に先生は何をみたのだろうか」
 前を歩く均実に聞こえない呟きが、亮の口から漏れた。

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Novel Editor by BS CGI Rental
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