思いっきり大笑いされたので、悠円は怒ってみた。だが目の前の年上の女性は、いつもどおりにそれを笑って返した。 「ごめんって。」 均実のその心のこもっていない謝罪に、悠円は振り上げていた手を下ろす。別に最初から殴ったりするつもりもなかったが、いつもこうやって下ろしているような気がするのは、間違いではないだろう。 なんだかいつもからかわれてる気がする……。 悠円は口をとがらせながら、軽く均実を睨んだ。 均実の離れの一室。こうやって自分が怒っては、均実が笑って話が進むという光景がここで何度繰り返されただろう。 庶も笑いながら、それを何度もみていて、いつのまにか均実と共に悠円をからかう側に回っていた。 「ほら、もう一回話してみな。今度は舌を噛むなよ。」 そう言われたので、今度は庶の方を睨むと彼は痛くもかゆくもないというように笑っている。 ……絶対からかわれてる。 ようやくそのことを自覚しだした悠円は、ゆっくりと言葉をつむいだ。 今度こそ間違わずに言ってやるっ! 「教えてくれれば僕だって、できますよ。均実様はいつも全部抱え込むんだから、少しぐらいまかせて……くださいよ。」 少し危ういところもあったが、何とか成功して悠円はホッと息をはいた。 ここ最近使いだした敬語は、やはり難しい。意識していないと舌を噛みそうになる。 均実はその言い方に少し笑みを浮かべながら、 「別にそんな抱え込んでるつもりはないんだけどなぁ。」 といった。 何の話を騒いでいるのかというと、実は均実の勉強の話だった。 均実があまりにも根をつめて勉強しすぎているのを、悠円は何度も目撃している。昨日など、夜中に悠円がこの部屋に忘れ物をして帰ってきたときまで、延々と机に向かっていたらしい。 夜中といってもあたりも白み始めたころだ。あれでは体をいつか壊してしまう。 だがいくら悠円が言ってもきかない。 だから旅からちょうど帰ってきて、ここを訪ねてきた元直に、悠円は均実を叱ってくれるよう頼んだのだった。 悠円はなんとか話題が元に戻ったことを知り、再び不満を言った。 「秘密にするの好きですよね、均実様は。」 この屋敷では自分が一番均実の側にいるはずだと悠円は思っている。だが均実は自分をからかう対象にこそすれ、相談相手としてはみてくれていない。 庶は均実よりも年上だ。均実は自分よりもまだ頼りにしているように見える。 早く大人になりたい。だからまず敬語を使えるようになりたいと思ったのだ。 悠円の言葉に庶が少し笑った。 「目的も話さずに、勝手に実行してしまうからな。すこしはこっちも頼ればいいのに。」 「それはこの前も謝ったじゃないですかぁ。」 罠事件は剪定をやるきっかけを作るためだったと白状した均実を、庶は前に叱っていた。それを庶に持ち出されて、均実は降参といったように両手をあげる。 その仕草が、ちゃんと本気で自分達が心配しているのを汲み取ってくれていないような気がして、ふてくされながら悠円は庶に同意した。 「先生だって均実様は何も話してくれないって言ってたよ。」 「え?」 悠円の言葉に均実が聞き返すと、 「ああ、それは私も前に聞いたな。」 庶が意見を付け足してきた。 「元直に話せて、私には話せないのか。と私に言われても困るんだけどな。」 「……隠し事に気付かれてるのはうすうすわかってましたけど、そんなこと言ってたんですね。」 小さくため息をついてから、均実は苦笑しながら言った。 「話してしまえばいいのに……」 悠円がつぶやくように小さく言ったのを、均実は微笑んで首を横にふった。 ここにいる三人は、均実の目指しているものを知っている。そしてそれを亮や純にばらしたくないと思っていることも。 だが悠円にはわからなかった。 大切にしたいなら、大好きな人なら、隠し事などしないほうがいいんじゃないか。 「亮さんも純ちゃんも大事に決まってるじゃない。……でも私が、駄目なの。」 と言われ、ますます悠円にはわからなかった。 だけどそれはどうしても均実にとって必要なことらしい、それだけは理解できたので、悠円は黙り込んだ。 均実は悠円がそれ以上何もいわないのを見てから、庶に向き合って言った。 「それにしても今回もまた、母君は潁川から出ようとしなかったんですね。」 徐庶がよく旅にでるようになっていた。母を呼び寄せるために何度も潁川と隆中を往復しているのだと言う。 一度旅にでると、何ヶ月も帰ってこない。ちょうど劉備が新野にいったころから、何度も行っているが、未だに庶の母はこの隆中にこなかった。 庶はこれには答えず、ただ笑みを浮かべていた。 「広元殿も最近は一緒に行かれてますよね? そんなに頑なになるほど、潁川っていいところなんですか?」 均実はそう繰り返し質問したが、回答を得る前に、 「僕は隆中のほうがいいと思いましるいっ………」 「舌を噛んだね。」 「無理に敬語を使うからだ。」 悠円が凄く苦そうな顔をしたのをみて、二人とも彼をからかったのだった。
「ということが昨日あったんだよ。」 均実は横で話を聞いていた季邦にそう言った。 握っている竿には何の動きもない。まあ別に飯の食材を釣り上げなくてはいけないわけではないので、ゆったりと二人とも湖を前にして座っていた。 「そんなに私は秘密主義かな?」 「確かにな。邦泉はあまり人に相談する奴じゃないとは思う。」 言ってはまずいことは適当にごまかし、悠円の訴えてきたことを話すとそんなふうな答えが返ってきた。 水面に垂らされた糸をみつめたまま、季邦は続ける。 「結局、どこで趙雲を見たかは教えてくれなかっただろ。」 そのことを言われると、均実は苦笑するしかない。 襄陽で誤魔化してから、季邦は事あるごとにそのことにつっかかってきた。別に説明してやってもいいのだが、彼をからかうのが楽しくてそのままにしている。 「いつまであの意識そらしの術が使えるかなぁと試してみたくて……。 次、成功したら堂々の二十回目なんだよね。なんでそんな単純にひっかかるかなぁ?」 「うるせーっ!」 そういったとき、季邦の竿が揺らいだ。魚がかかったにしては甘い揺らぎだ。 季邦は一旦竿を振るい、針を湖から上げた。 「ちっ、食われてるか。」 何もついていない針が日の光で一瞬光った。エサだけを器用に食べていった魚がいたのだろう。 そういいながら季邦は捕まえていた虫を手早くつかみ、針にさす。 「邦泉みたいな魚がいるみたいだな。」 「ひっどいな。私はエサ泥棒っていうのか?」 「それより酷い。」 憮然と均実が言い返すと、季邦はまた竿をたらした。 水面に波紋が生まれ、綺麗に映っていた辺りの風景がかき乱される。 「何も言わずに自分の目的だけを達するどころか、それを誰にも気付かせないんだ。この魚より性質が悪いろう?」 均実は反論ができずに黙った。 徐庶はこのごろ急に始めた均実の行動全てを見て、ようやく均と同じ事をしようとしているのに気付いたと言っていた。 急いでやろうとしたのは事実だった。少しでも早く均と同じ行動をすることができるようになれば、自ら均として振舞うことがより自然になるだろうと思い急いだのだ。 だがきっとそう急ぐ理由もなく、ゆっくりやっていたら庶すら気付かなかっただろう。 ……秘密主義というのも間違いではないのか。 均実はようやく納得した。 「邦泉はそのうち凄まじくでかいことを、いつの間にかやってのけそうだよな。」 歴史を変えるというのは、きっと「凄まじくでかいこと」なのだろう。 季邦が何の気もなしに言った言葉に、均実は笑うことも誤魔化すこともせずにただ 「そうだな。」 と言った。 いつかはやってのけるつもりだ。ならその季邦の予言も間違いではない。 そのとき後ろから足音が、いくつか近寄ってくるのが耳にはいった。 均実が振り返ると、そこには三人の娘がいた。全員緊張しているかのように顔をこわばらせて、こちらをみている。 「あれ? この前の……」 そのうちの真ん中の娘に均実は見覚えがあった。 あぜ道を歩いていた彼女が、背負っていた籠に野菜をいれすぎていたのか、バランスを崩してこけたところを、畑仕事をしていた均実が見つけたのだ。道に転がった野菜を、土を払っていくつか拾って渡してやると、お礼もそこそこに慌てて行ってしまった。 きっと急用でもあるんだろうと思って、その時は別に呼び止めもしなかったが…… 「お、覚えてくれてるじゃないっ」 「ほらっ、早く!」 真ん中の娘ではない二人が、何やら黄色い声をあげて騒ぎたてている。 な……なんなんだ? とりあえず座ったままで話すのは、相手を見上げ続けるので首が痛くなる。立ち上がると、彼女達は皆均実より背が低かった。 ……これがこっちの普通なんだろうなぁ。 均実があまり意味のないことを感心していると、 「あ、あの。……この前は本当にありがとうございました。」 今にも消えそうなか細い声で、真ん中の娘がそう言った。 うつむき加減で言われたので一瞬言葉がききとれなかったが、お礼を言われているのだけは理解できた。 均実はすこし驚きつつ、彼女をみた。そんなに大した事をしたつもりはない。 「わざわざそれを言いにきてくれたんだ。それにしても、よくここにいるってわかったね。」 「……別に不思議なことじゃねーだろ。」 後ろでボソッとつぶやいた季邦の声に、均実は首をかしげたが意味はわからなかった。 「これ、大したものじゃないんですけど……もらってください!」 問いかける前に、注意がそう均実に言った娘にむけられた。 意を決したように真ん中の娘が凄い勢いで差し出したのは、小さな竹籠に五つか六つ柿が入っているものだった。 「え、いいの?」 「は、はい……」 「ありがとう。」 均実が笑みを浮かべて礼をいうと、娘達は一斉に顔を真っ赤にした。どうしたのか問う前に、慌てて踵を返すと来た道を戻っていく。 その俊足は均実のかけようとした声が届かないだろうと思えるほどの距離まで、彼女達を運んでいた。 後には残された柿の籠をもつ均実と、釣りをし続けている季邦がいるのみ。 「どうかしたのかな?」 均実はそういいながら、先程と同じ場所に腰を下ろした。 さきほどのつぶやきからずっと黙っていた季邦のほうをみると、つまらなさそうに彼は頬杖をついていた。 「それ、本気で言ってんのか?」 「は?」 「……お前、間違いなく臥竜先生の弟だな。」 季邦が呆れたような声をだして、均実が今もらった柿を指差した。 「わざわざ女が男に、しかも釣りしてるところにまできて贈り物をするって、どういうことかわかってるか?」 「どうって?」 「好意を持ってるに決まってんだろ。今の態度からもわかるだろうが。」 ……え〜と、つまり? 均実は抱えている籠をじっとみて考え込んだ。 さっきの娘は自分に好意を抱いてるということで……って 「え!」 「遅い!」 やっとその意味に気付いた均実に、季邦は容赦なく突っ込んだ。 いや……だって気付かなくても仕方ないでしょ。私女なんだし。 とは均実も口に出してはいえないため、その突っ込みは甘んじて受けた。 「それにしても……何でここにいるのがわかったのかな?」 「嫁をとられてから、臥竜先生の周りは静かだったろ?」 「へ……あ、そういえば」 均実は言われて思い出した。純がやってきてから、亮にモーションをかけてくる娘がいなくなっていたことを。 もとから亮は気付いていなかったので、何も言わないし、特に支障もなかったので忘れていた。 「そのしばらく落ち着いてたのが、また再発したんだな。 今度はお前が標的になってる。お前もそれなりの顔してるし。好意を持っているのは、何もさっきの娘たちだけじゃないんだろう。 隆中の娘たちの話題は、今お前のことばかりだ。どこにいるか、何をしてるかなんて、すぐわかるだろ。」 ……なんかそれってストーカーっぽいな。 均実は微妙な気味悪さを感じながら、季邦の言葉を聞いた。 それにしても以前、周りの娘達が亮に気持ちを寄せているのに、まったく彼が気付かないことを笑ったことがあったが、自分も十分笑える対象だったらしい。 でもやっぱり私は女だしなぁ。気付けなかったのはそのせいだろう、うん。 均実はそう思いつつ、どうしようもないその現象は放っておくことにした。均実にそちらのケはないし、あちらも均実のことを男だと思っての行為なのだから。 何かと贈り物がやってきたりしていたが、それからは均実も丁寧に断っていた。きっとそうしているうちにその熱も冷めてくるだろう。 隆中での生活は、大方その様なもので、特に問題もないようにみえていた。 だが次の年、劉表の正妻である陳夫人が亡くなったため、蔡夫人が実質的に正妻となった。これで隆中にも、目に見えての変化がおこる。 季邦が、劉表に仕えさせられることになったのだ。彼の意思は無視で、蔡家が決定したことだった。 「城内で使える駒を増やしたいのさ」と自嘲的に笑って、季邦は塾をやめて襄陽へいってしまった。 まるでそれとは入れ違うかのように、劉表の長男劉きが空席になっていた江夏太守(郡の知事のようなもの)になる。 長男が父のもとを去り、下の子が父のもとに留まる。この構図はまさに袁紹の跡目問題を思いおこさせた。 このままでは季邦が言ったとおり、第二の跡継ぎ争いは避けられないだろうな……。 均実は悠円に心配されるほどの量の勉強を続けつつ、いつかくるだろうその争いの余波を考えていた。
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