建安七年。江夏という荊州南部の土地で謀反が起こる。 劉備は客将としての待遇の礼に、いともあっさりとその反乱を鎮めてみせた。 その功を称え、そしてその強さに期待し、劉表は北方の地、新野というところへ劉備を行かせた。場所としては、曹操の勢力範囲と劉表の領地の境目に最も近い土地だから、曹操を警戒してのことだろうといわれていた。 だが均実は季邦から、そのことについて流れているという噂を聞いた。 その圧倒的な強さに怯えた劉表の近臣が、襄陽から劉備を追い出すことを進言したらしい。 新野へ出立することを聞いた日、均実は再び劉備たちの屋敷を訪ねた。薙刀についてや、そういった噂が流れていることについて関羽に聞きに行ったのだ。 薙刀については新しい形をいくつか教えてもらえたが、その噂の真偽に関しては関羽にはわからないことらしかった。 「次に会うのはいつになるかな。」 関羽は帰ろうとした均実にそう聞いた。 「以前、予言はうちどめだと言っていたが、これはわからぬか?」 「……いつかはわからないですが」 また会うことになる。 均実が前置いてからそういうと関羽は、そうか、とだけ言って均実を見送った。 時期はわからないが、劉備に自分が仕官すればいずれそうなる。均実はそう考えたのだった。 新野に行った劉備の噂が、しばらくするとチラホラ聞こえてきた。仁愛深い執政にその地の者は皆、劉備を慕っているという。 誰もが劉備を劉表と比べていた。 その比較の答えが、荊州の平和にとって最も危険な因子であることは間違いないだろう。季邦とも均実は話したが、けして明るい話題になることはなかった。 一方、新野より北のほうでも異変は起こっていた。 袁紹が死んだ。遺言では三男の袁尚を跡継ぎと指名したという。 それに前後する劉夫人の壮絶な噂を聞き、均実はぞっとした。 袁紹が死ぬやいなや、彼女は袁紹の愛妾(妻ではない女の人)の五体をばらばらにして殺したという。その上、その家族すら逃亡先まで追いかけ殺させたらしい。 わが子の他に、跡継ぎとして名を挙げる者を牽制するためか。それにしてもやりすぎのように思えた。 徐季からの情報だったので信憑性は低くないが、あまりにも残酷な話だった。亮が純にはこの生臭すぎる話を聞かせないことにしようと言ったのを、均実は その方がいい と思って同意していた。
|
|