昼のまどろみ。遠くから聞こえる誰かの声も、何をいっているのか判別する気にもならない。 それは知る必要などないことなのだ。 持っていた書簡に目をやる。何度も何度も繰り返し読んだものだ。他にもそんなものはたくさんある。部屋の外になど出ることをせず、一日中読んでは読んでは読み続ける。 自分に課された拷問のように。 立派な家。立派な調度品。立派な服装。 それに包まれるようにしている自分が、生気のない顔をしているのは滑稽に思えるが、別に笑いたいとも思わない。 ……思えない。 むしろ泣きたいと何度思っただろう。そして何度泣いただろう。 窓辺に寄りかかるようにして座っていた。外を見ると、整った庭が目に入る。そのとき鳥が二羽、池のすぐ近くに舞い降りてきた。 つがいなのだろうか、それとも兄弟、友人か。互いに地をつついては、ヒョコヒョコと歩いて移動する。池の水を啄ばむようにして飲む姿が、なんとも愛らしい。 そっと窓から手を伸ばした。 届くはずもないのはわかっている。それでも伸ばさずにはいられない。 手の中からこぼれてしまったもの。いつまでも続くのだと思っていたもの。まるでそれの象徴のようだ。 絹の袖はさらさらと滑り、窓から外に出た。伸ばし続けても無意味なのはわかっている。だがその手がピクリと止まった。 父が庭に下りた姿が見えた。 鳥達も気付いたらしい。警戒するようにそちらを見て、飛び立っていった。 「あ……」 空に向かい、二羽で去っていく鳥を目が追う。 どこまでも二羽で。二つの点となり、ここから見えなくなるまで。 「どうした。何かあったのか?」 空を見つめ続けている娘へ、不可解そうに声をかけた父がこちらに近づいてくる。 「鳥が……いたんです。」 「ここには池も果樹もある。鳥など珍しいものではあるまい。」 「はい……。でも仲が良さそうな二羽の鳥だったんです。 一緒に飛んで行ってしまった……。」 互いを見失うことも、離れることもなく、一緒に。 また空を見上げたが、やはりもうどこにもその姿はなかった。 父は顔をしかめた。 「叶わない望みを持つのはやめなさい。お前は長い夢をみていただけなのだから。」 厳格な父。それはまだ自分が幼かったころからだ。 毎日、無理矢理に学問を詰め込まれ、嫌だと反抗したことがある。怒鳴りもせずにただ寒空の下、一晩中外にだされた。礼儀も厳しく叩き込まれた。うまくできず、罵られる連日の言葉に耐えかね、ついに泣き出すと、礼すらできねば犬畜生以下であると、食べ物が二日与えられなかった。 小さな罰も数えればきりがない。恐れの対象ではあるが、それでも実の父だ。それなりに尊敬しているし、それなりに愛していると思う。 だが自分のぼんやりとした言葉が気に入らなかったのだろう。父は蔑むようにこちらを見た。 長い夢。全てはそれが自分の心を捉える原因だった。 わかっていても、自分から捉えられるのを望むように、何度も思い出す。 思い出せたものを、父に気付かれないように書き起こした書簡が、もういくつできただろう。 けして父にはいえない。父はその夢の話をすると、必ず怒りだす。思い出すことすら、きっと許してはくれない。その書簡も見つかれば棄てられてしまうだろう。 だけど忘れることも、捨てることもできない。長い、長い夢。 「聞いているのか。」 「はい。聞いています。」 その夢を打ち消す声に、反射的に返事をする。 「あの話は近いうちに実現する。お前もこの家の人間として、恥じない行動を心がけなさい。」 それだけいうと父は自分に背を向けた。 いつまでも夢に心を奪われている娘と話す気が失せたのだろうか。 それを見て、気付かれないようため息を袖で隠した。 夢でもいい。だからもう一度……
山は緑に覆われ、風もさわやか。絶好のピクニック日和。 平和だなぁ…… 均実はしゃがんでいた状態から立ち上がり、伸びをした。ずっと下をむいて、作物につく虫をとっていたので、首は凝るし腰もしんどい。 小さく音がなったように感じたが、痛くはなく気持ちいい。 だがそれでも疲れきっているわけではない。 自分に体力がついてきていることをすこし嬉しく思った。 隆中に戻ってきてからも、薙刀の練習は続けていた。身の回りの世話を相変わらず受け持ってくれる悠円と一緒に、手ごろな竹を山から取ってきて、練習用の棒代わりにした。 薙刀を教えてくれた関羽、ついでに徽煉からも、毎日続けることが大事なのだと言われていたから。 教えてもらえた簡単な形は、一通り詰まることなくできるようになってきた。素振りも以前より素早く振り下ろせていると思う。 自分の体が脂肪を減らし、筋肉が多くなってきたのを見ては、本気で男の子の体にみえるように思えた。女物よりはるかに動きやすい着物が、よけい違和感がない。 隆中での生活はまだ男として送っていた。 だから好都合だったし、体を動かすのは好きだから何の問題もない。 「疲れたかい?」 立ち上がった均実を見て、同じ作業をしていた亮が、すこし離れたところからこちらを見上げた。 均実は否定した。まだまだいけるというと、亮も立ち上がって伸びをした。 あいかわらずかっこいいとは思う。最初見たときは、髭さえなければと思ったが、一年こちらで過ごしたことで、髭への抵抗感はなくなっていた。むしろしっくりくる。 どうやら亮はちょっとしたアイドルのようだ。以前、ここにいた時は馬の練習をやっていたためヘトヘトで、辺りを見回す余裕がなかったが、今はよくわかった。 落ち着いた雰囲気が亮の周りに常に漂っている。穏やかに流れるような挙措が、それを生むのだろう。知性的な目は、柔らかく微笑むと細められ、若い女の子がキャーキャーいうらしいというのは除庶から聞いた。 こうして畑仕事をしていても、時折村娘達がこちらを見ながら畑のわきを歩いていくのを何人もみた。亮は知らないが、均実は知っている。彼女達は亮のファンだ。何度か言伝を頼まれたことがあるが、亮はやはり気付かなかった。 貴方のその目が好きです、という伝言をもらったときの亮の反応は、 「う〜ん……。今まで気付かなかったが、何か変わった色でもしてるかい?」 と真面目に質問してきたので、均実は笑いをこらえるのが大変だった。 平和だった。この一年がまるで嘘のように。 殺されなかったのが、奇跡かと思える場面もあったほど、均実は戦場真っ只中につい最近までいた。実際、怪我もした。 どうしてそんなところにいたかというと、どう考えてもここが日本ではない。三国志演義の世界のようだったからだ。 そんな場所に日本で普通の女子高生をやっていた均実がいけるわけがない。大掛かりにドッキリを仕掛けられているのではないかと疑い、実際に戦場を見にいったのだ。 この世界が自分を騙しているのではないと理解はした。だがそこで新たな疑問ができていた。 歴史が変わりつつあるのだろうかというものだった。 日本で三国志演義を途中までだが読んだ均実は、この世界の物事がそのとおり進むことで、戦場にいたというのにそれを第三者のような目でみていた。だが三国志演義にもでてきていた関羽と行動しているうちに、決定的な違いがやってきた。 劉備を探していた関羽の元に、劉備の行方が知らされるのが早かった。そのせいか三国志演義にはあった、関羽が五つの関所を破り、六人の将を殺すということなく、関羽は劉備と再会できる場所までいったのだ。 その情報をもたらしたのが、自分を訪ねてきた甘海だったため、均実は一つの仮定を導き出していた。 自分がこの世界にきたから、歴史は変わりつつあるのではないか。 そのことを一度悩みはしたが、今はもう悩んでいない。たとえそうだとしても、それを止める術などないし、それが悪いことかどうかもわからない。なら悩むことになど意味はない。自分が後悔しない決断をしていればそれでいい。 だから均実は共に旅をした関羽達に別れをつげて、隆中に戻ってきたのだ。 行き倒れていた均実を拾ったばっかりに迷惑をかけ続けた人に、せめて戦場にいるという心配をかけるのをやめるために。そしてできれば恩返しをするために。 無事に戻ってきた均実を、亮やその友人達は喜んでくれた。 日本に帰ることを諦めたわけではないが、今はとにかく少しでもその恩返しをしようと均実は思っていた。 だから前以上に畑仕事を手伝っていた。やれることがこれしか思いつかなかったのだ。 「熱心にやってくれるのは嬉しいが、すこしやり過ぎだな。」 亮は苦笑いをしてそう言った。 まあ確かにそういわれれば、そんな感じもする。均実は隆中に戻ってすぐ働き始めた。亮や甘海は、すこし旅の疲れをとるために休めというが、別に疲れてなどいないし、休んでいて恩返しができるわけはない。 薙刀の練習以外はテレビもないし、パソコンもない。漫画も小説もない(あったとしても読めない、漢文ばかりで。)この世界で、均実はやることが働くことしか思いつかなかったというのもあるのだが。 働きつめていると見えるほど、均実は働いていた。もうかれこれ一ヶ月、屋敷で均実の姿をみるのは、朝起きてきた時か、夜部屋に寝に戻る時ぐらいだろう。 「本当に疲れてもいないですし、大丈夫ですよ?」 「だが働いてばかりというのも……」 亮はそういって何かを思いついたようだ。 何度か頷いてから、亮は口を開いた。 「均実殿。勉強をする気はないかい?」 「勉強ですか?」 「ええ」 「今だって亮さんに教えてもらってるじゃないですか?」 均実はそう答えた。 本当に少しずつだが、農作業の合間や夜、家に帰ってから、この世界の常識や、世界観、まだまだわからないが文字の読み方を亮は均実に教えてくれていた。 「ああいうのではなく、実際に塾に通ってみないかということなんだが。」 「塾……ですか。」 「私も行っていたところだから、良い所であることは保証するよ。ここからなら通いやすいしね。」 ここでは義務教育制度がない。だが官吏になりたければ、それ専門の勉強をする必要がある。 大抵のそういう志をもつ人間は、塾や襄陽にある太学などの学校にいくらしい。 「でも……私は別に」 いつまでもこの世界にいるつもりはない。まだ帰る方法はわからないが、この世界の政治に参加するつもりなど……日本で投票権すら持ってないのに、そんなこと考えたこともなかった。 「ああ。別に仕官したりする必要はないよ。それを強要するつもりもない。 友人を塾で作るのもいいかと思ったんだよ。」 亮の言葉に均実は考え込んだ。 確かに隆中での均実の交友関係というのは、家にいる家人達や亮の友人達くらいだ。とてつもなくせまいと言わざるをえない。 日本へ帰る方法を探すにしても、友人が多いというのはそれだけ情報が集まるということだから、良いかもしれない。 友人か…… 均実はその言葉に一人の姿を思い出した。 こちらの世界に来る直前まで一緒にいた親友。 日本への帰り方と同様、全く手がかりはないが、もし彼女もこの世界にきているなら探し出したい。 均実が考えていると、 「私もこれから忙しくなるから、あまり均実殿に勉強を教えられないしね。」 と亮が言った。 「え。何かあるんですか?」 均実は驚いて聞き返した。 去年の今頃も、今と同じように畑仕事をしていた亮を覚えている。あのころ特に忙しそうなそぶりなど見ていないはずだった。 「ん、ああ。言ってなかったか。」 亮はそういうと照れたように顔をかいた。 「妻を娶るんだよ。」
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